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第四章

 たった一年で、人はこんなにも変わってしまうのか。硫平は唇を引き結び、目の前の豪華なソファに座っている男を見つめた。黒っぽいブルゾンに身を包む自分とは対照的に、白いファーコートを着込んでいる。インナーは光沢のある紫のシャツで、腕には宝石の埋め込まれた金のブレスレットや時計が燦然ときらめいていた。正直趣味が悪いと思うが、ただ金があることは確からしい。
「久しぶりだな、硫平」
「……ああ。久しぶり」
 硫平は口数少なく答える。
「元気そうだな、ビル」
 ビル──ウィリアム=バートンはにやりと口元を歪めた。
「まあ、座れよ」
「……遠慮しておく」
 かたくなな様子の硫平に、ウィリアムは小さく舌打ちする。
「せっかく歓迎してやろうっつってんのに……」
「気を遣ってもらわなくていい。話とは一体何だ」
「……お前は相変わらずお堅いな」
 ウィリアムは馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「一年ぶりに会ったっていうのに、随分冷たいじゃないか。ええ?」
「それは……」
 ――お前が、変わってしまったからだ。硫平はその言葉を喉の奥に押し込んだ。
 ウィリアムからメールが入ったのは昼過ぎのこと。一年前、お互いARMADAを離れることに決めていた二人の間で交換した、メールアドレス宛だった。
 ――会いたい。できれば早いうちに。
 簡潔な文章だったが、硫平はすぐに動いた。多分、今を逃せばもうウィリアムには届かなくなってしまう……そんな漠然とした不安に突き動かされ、春樹あての置き手紙を書いて家を出てきたのである。
 ウィリアムが指定した場所は、いわゆるナイトクラブだった。ネオンに照らされる繁華街は退廃的な色香を纏い、それに惹かれる人々がまるで蜜に群がる蝶のようにひらりひらりと行き交っている。
 店に入り、夜闇に映えるよう濃い化粧を施した女たちの間をかき分けていくと、見覚えのない二人の男に道を塞がれた。黒いスーツに鍛え上げた肉体を隠してはいるが、彼らが相当な使い手であることはすぐにわかる。
「硫平=鈴摩様ですね?」
「……ああ」
「お待ちしておりました」
 慇懃な態度ではあるが、これは硫平がウィリアムに招かれた客だからだろう。もしそうでなければ――きっと彼らは手荒な行動に出るのに違いない。
 彼らに両脇を挟まれ、護衛されているようでいながら監視下に置かれて、硫平はエレベータに乗り込んだ。最上階まで止まることなく上っていく。
「上にビルがいるのか」
「はい」
 硫平の問いかけに、男の一人がうなずく。
「そうか……」
 疲れたようにつぶやき、脳裏に浮かぶビルの顔へと硫平は問いかける。――なんで。なんでなんだよ、ビル。答えは、ない。
「硫平」
 ウィリアムの声に、彼ははっと意識を戻した。一瞬ぼうっとしていたらしい。
「景気はどうだ?」
「……まあまあだ」
「それほど良さそうでもないな?」
 ウィリアムはポケットからタバコを取り出し、唇にくわえた。硫平を連れてきた男の一人がうやうやしくライターを差し出す。彼は礼も言わずにそのまま火のついたタバコを吸い始めた。
「お前、タバコは嫌いか?」
 知らず知らずの間に硫平は眉をひそめていたのだろう。ウィリアムはくすっと笑った。
「俺は幼い頃喘息にかかったからな。タバコは吸わない」
「へえ、それは初耳だ」
「……お前の方は随分と景気が良さそうだが?」
「まあ、な」
 ウィリアムは唇をゆがめて笑った。――嫌な笑顔だ。硫平は思う。
「そうそう、今日はそのことで呼んだんだよ」
「そのこと……?」
 警戒が顔に出てしまったのか、ウィリアムの笑みが薄くなった。
「悪い話じゃないと思うぜ……?」
「…………」
 ――ただでは返してもらえそうにないな。硫平は内心で覚悟を決める。あとは春樹がレイに連絡を取ってくれるのを願うのみだ。――頼んだぜ、春樹。レイ。
 目の前のウィリアムは彼の内心を知るよしもない。やはり、思ったとおりの提案を投げかけてくる。
「俺たちの仲間にならないか?」
「…………」
 今は夜半過ぎ。まだ、書き残したリミットには程遠い。今の自分にできるのは、ただ時間を引き延ばすことだ。
「……とりあえず、話を聞かせてもらおうか」
 硫平はうなずき、ウィリアムの向かいに腰を下ろした。

「『ラッツ』を一掃する手段を考えたんだ――」
 いつもより早い朝食を終えた後、邑悸はぽつりと漏らした。
「え?」
 レイは振り向く。口にした内容にそぐわず、邑悸の表情は暗かった。
「良かったじゃないですか。これで市民の皆さんも安心できますよね?」
 明るく言うレイに、邑悸は顔をゆがめた。
 ――どうしたのだろう。心配になり、レイは洗い物の手を止めた。濡れた手をエプロンで拭き、邑悸の側に歩み寄る。
「あの……邑悸、さん?」
「僕の思いついた方法はね」
 邑悸は彼女と目をあわせようとしない。
「ARMADAの……『BGS』チームを再召集することなんだよ……」
「――――!!」
 レイは顔を強張らせた。
 彼女がそれに在籍していたのは、たった一年。しかしその任務は過酷を極めていた。一般人の忌諱の視線に耐え、自らの生命を危険に晒し――そして幾つもの命を奪った。今はもう、解散してしまった部隊だ。
 現在では「BGS」と一般人を隔てる「SIXTH」は存在しない。治安警備隊という名の新しい組織が発足し、元「BGS」と呼ばれていた者の何名かはそこに属している。
 レイは震える声で尋ねた。
「治安警備隊は……」
「訓練不足で対抗できないと思う。『ラッツ』の上層部にはARMADAにいた『BGS』がいる。多分、ウィリアムだけじゃない」
「どうして」
 ――そう言いきれるのか。不思議そうな顔をするレイに、邑悸は苦笑を浮かべた。
「僕は彼らを良く知っている――僕が一番良く知っているんだよ。彼らの手口を調べればすぐにわかるさ。防犯カメラに残った体捌きとか、鍵をこじ開けるときの手順とかね――みんなARMADAで教えたままだった。ウィリアム一人が加わっているだけじゃ、組織みんなには浸透しない」
「…………」
 やはり、邑悸は何の根拠もなく言っているわけではないのだ。彼の頭脳の中ではあらゆる可能性が考慮されたことだろう。そして導き出された答えが――あれだったのだ。
「彼らに勝てるのは」
 邑悸は辛そうにつぶやく。
「君たちしかいないんだ。レイ」
 レイはうつむいた。先ほどの邑悸の言葉を思い出す。――僕はもう、二度と君を傷つけたくない……。
「邑悸さん」
 レイはそうっと邑悸の髪に手を伸ばした。椅子に座っている邑悸の頭は、抱きしめるのにちょうどいい位置にある。
「レイ……?」
 邑悸の憔悴した顔を見たくなくて、レイは彼をぎゅっと抱きしめた。
「大丈夫。……大丈夫ですよ」
「…………」
「どれだけ傷ついたって、傷はいつか治りますから。生きていれば、ひとは必ず傷つく」
「そんなの!!」
 邑悸は声を上げた。
「駄目だ。そんなこと、僕は」
「それを私が望んでも、ですか?」
 静かな声で、レイはささやく。邑悸は虚をつかれたように黙り込んだ。
「邑悸さん。もう、貴方は私の上司じゃない」
「……うん」
 少し寂しげに、邑悸はうなずく。
「だけど」
 レイは邑悸の柔らかな髪を撫でる。指の間をさらさらと零れ落ちていく、その感触が愛しかった。
「今の貴方は、私の――」
 邑悸が顔を上げる。吐息がかかるような至近距離で、目が合う。誰もが似ているという、ふたりの瞳の色。今はその中に互いの姿を映し込んでいる。
「僕は、レイの……?」
 その先を誘うように、邑悸は囁いた。
「私の……」
 言葉が、出てこない。レイの表情に次第に困惑が滲み始めた。邑悸はただ静かにレイを待っている。
 ――どうして。レイは焦った。なぜ、この感情を表す言葉が浮かばないのだろう。こんなにも愛しくて、こんなにも側にいたくて、こんなにも役に立ちたくて、こんなにも抱きしめていたくて。好き、という言葉では足りない。この想いを言い表すことなどできない。
 しばらくの沈黙を挟み、邑悸がふわりと微笑んだ。
「レイ」
 低い柔らかな声が、彼女の名前を呼ぶ。
「大丈夫。ちゃんと、伝わっているよ」
「邑悸さん……」
 視線から――触れている場所から。ちゃんと、伝わってくる。これが共鳴現象かどうかなどどうでもいい。ただ、この暖かな感情がすべて。
「……好きだよ。レイ」
 まるで神聖な祈りのように。邑悸は小さくささやいた。
「わた――わたしも――」
 声が上ずる。邑悸はくすりと笑った。
「……ありがとう」
 ――兄のように、好き? 父のように、好き? 邑悸は内心で問い掛ける。答えを聞きたいわけではない。むしろ聞きたくなかった。――僕は違うよ、レイ。
 少しだけ、椅子の上で伸びをする。とっさに身を引こうとする彼女を、邑悸はその腕の中に捕らえた。そうっと唇を重ねる。甘く温かい感触に、邑悸は不意に泣きたくなった。
 ――お前のしたこと、忘れたらあかんで。かつての一貴の言葉が脳裏に蘇る。
 「ラッツ」の存在がARMADAの「BGS」を野に放った結果なのだとすれば。これは邑悸の咎だ。そしてその罪に、またレイを――「BGS」たちを巻き込んでしまう。
 ――どうすれば、どうすれば僕は償える? 罰は僕に降りかかる? レイに寄り添うことで感じる酩酊のような幸福の中、邑悸は何度も自問していた。

 その日の正午。レイの元に、春樹からの連絡が届いた――。