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第八章

「ビル!!」
 硫平が飛びつき、顎に手を掛けた。だがウィリアムはそれを力なく払いのける。
「無駄だよ硫平……さっき指先に針を刺したんだ。飲んだんじゃない」
 硫平は救いを求めるように邑悸を見上げた。邑悸は険しい顔で周囲に指示を出している。
「地獄へは……、俺のほうが、先みたい……だな?」
 間に合うだろうか──医療スタッフは確かに待機している。しかし階下はまだ戦闘状態だ。ここまで来られるだろうか。
 邑悸はウィリアムの側にしゃがみこみ、アンプルを取り出した。そうだ、彼もドクターだったのだと、硫平はほっと息をつく。しかし――。
「邑悸さ……ん」
 ウィリアムは小さくつぶやいた。その目の焦点は既にあっていない。邑悸は構わず彼の左上肢にアンプルを注射した。
「俺……何のために生まれたのかな……」
 脈を取り、瞳孔を見──邑悸の表情に焦りが浮かんだ。
「……だって、誰にも……望まれてない……誰も、俺を、要らない……」
 ウィリアムの言葉に、誰も口を挟めなかった。その気持ちは「BGS」として生まれた彼らには、痛いほどわかる。誰もが一度は悩み、傷ついてきた。今もまだ傷の癒えない者もいるだろう。
 ウィリアムは大きく息を吸い、ぽつりと吐き出した。
「もう、いい……疲れた」
「ウィリアム!」
 邑悸が声を上げる。ウィリアムは目をぼんやりと開けたままぐったりとしていた。その胸元に両手を当て、邑悸は心臓マッサージを始める。
「邑悸さん……」
 レイが思わず声を掛ける。邑悸は振り向きもせずに指示を飛ばした。
「君たちは医療スタッフがここまで来られるように、道を作ってくれ!」
「……! 行こう」
 硫平は弾かれたように立ち上がり、元同僚たちに声を掛けた。皆、黙ったまま頷く。その表情は、暗い。
「硫平さん」
 硫平に駆け寄ったレイが、彼の分の銃器を手渡す。
「無事で良かった……」
「ああ。ありがとうな、レイ」
 硫平は少しだけ、微笑んだ。
 何故ウィリアムは死を選んだのだろう。自分は銃を向けられたとき、あれほど怖かったというのに……彼は死を恐れなかったのだろうか。何故だろう。
 背後では邑悸が救命作業を続けている。レイはそれをちらりと見遣り、言った。
「行きましょう」

 銃声が止んで、もう数分が経った。戦闘はひとまず終結したと言っていいだろう。あずみは大きく息をついた。
「大丈夫か」
 彼女を守るようにずっと寄り添っていてくれたセルマ。あずみは微笑む。
「ありがとう」
「いや……」
 セルマは視線を逸らしたまま、銃弾のカートリッジを入れ替えた。
「硫平たちも無事ならいいんだが」
「……そうね」
 あずみは視線を落とす。戦闘中、幾人か見覚えのある顔を狙撃した。命までは奪っていないつもりだが、それでも血を流させたことにはかわりない。何故、かつての仲間と戦わなければならなかったのか――。
「ビルは」
 セルマがぽつりとつぶやき、あずみは顔を上げた。
「寂しがりやだったな。よく、寮の部屋でこっそりと朝まで騒いでいた」
「そうだったの?」
「俺はあいつの部屋の近くだったから。たまに叩き起こされて……」
 彼の唇に笑みが浮かぶ。
「下らないことをして遊んでいた。トランプとか、麻雀とか」
「本当に下らないわね?」
 あずみの笑う、その声が震えた。――楽しかったあの頃。任務は辛かったし、ARMADAの外に出れば嫌な思いをした。それでも帰って来ればそこに仲間がいて、邑悸がいて……彼らを守ってくれていた。皆それぞれ痛みを抱えて、それでもあの場所でだけは笑っていられたのだ。
「セルマ……一年前、ああなって……良かったと思う?」
 あずみの歯切れの悪い言葉に、それでもセルマは真摯な表情で答えた。
「ああ」
「どうして……? こんなことになったのに……」
「…………」
 セルマは言葉に詰まったようだった。うつむいたあずみの髪をそっと撫でる。その掌の温かさに、あずみは余計に泣きそうになった。
「ごめんなさい……。私も、別に過去に戻りたいわけじゃないの。そんなこと思ったって、仕方がないし。私たちは、これからを生きていかなくちゃならないんだから」
「ああ、そうだな」
「でも……でもね」
 あずみの頬を一粒の涙がつたう。
「やっぱり、こんなのは辛すぎるよ……!」
 そのとき、ふたりの通信機に連絡があった。撤退の指令。戦闘は終結した。残党はまだ残っているだろうが、それは彼らの仕事ではない。元「BGS」という中枢を失った「ラッツ」が掃討されるのは、もはや時間の問題だろう。
 ――ひとびとを脅かした「ラッツ」の末路は、あまりにもあっけないものだった。

 夕暮れ時、辰川家の扉が開いた。ふらふらと入ってくる――硫平だ。
「硫平!」
 春樹はソファから飛び上がる。
「お前、……無事だったのか!」
「りゅうちゃん!」
 駆け寄ってきたキラをその胸に受け止めながら、それでも硫平の顔色は冴えなかった。どこかぼうっとした眼で春樹を見返す。
「どうしたんだ? ……何か、あったのか」
「……ごめんな」
 硫平は顔を伏せた。
「お前らにまで、迷惑掛けた……」
「ああ、そのことなら大丈夫だって」
 春樹は軽い調子で受け流す。
「お前、覚えてるか? カイル=エル=ムードって。そいつがうちの護衛に来てくれたんだぜ。何か俺達、VIPって感じじゃね?」
「……無事で良かったよ」
 硫平はぽつりとつぶやく。春樹は拍子抜けしたように、硫平の顔を覗き込んだ。
「どうしたんだよ、お前おかしいぞ」
「りゅうちゃん?」
 キラもまた、顔を上げて硫平を見つめる。
「……俺は」
 消え入りそうな声。春樹は、そしてキラも耳を澄ませた。
「俺は、ここにいても……いいのか……」
「何言ってんだよ」
 春樹は笑う。
「いいに決まってんだろ。なあ、キラ?」
「うん」
 暖かい言葉。優しい笑顔。友達。家族。――ウィリアムが手に入れられなかった、すべて。
「う……」
 硫平はがくりと膝をついた。
「りゅうちゃん?」
「お、おい!」
「うぁ……あ……」
 嗚咽が止まらない。堰を切ったように溢れ出した涙は、硫平の頬を濡らした。
 ――俺はビルに生きていて欲しかった。皆、その気持ちは同じだった。邑悸さんだって、必死で助けようとした。それなのに。
「ああ……っ……」
 嗚咽は慟哭へと変化していた。硫平はただ泣き続ける。
 ――何で……死んじまったんだよ……!! ビル!!
 彼の涙に慌てる春樹、慰めようと背中を撫でてくれるキラ。彼らのその優しさすら、今の硫平には辛過ぎた。
 
 ウィリアム=バートン。その人生は、たった十九年で幕を閉じた。
 
 
 その後の邑悸は多忙を極めた。「ラッツ」のメンバーを罪状別に分類、弁護士を準備し、裁判に備える。身元が明らかでないものや未成年が多く含まれていることから、弁護士のほとんどはこの地区を管轄する企業であるARMADAが用意しなければならなかった。さらにメンバーの供述から残党の掃討作戦も展開された。それらには元「BGS」は参加せず、治安維持部隊による単独任務となった。
 「BGS」との共同任務に参加した部隊員のひとりは、こう述べたという――「あのときの『BGS』の戦いぶりは、正直恐ろしかった。何故あんなにも捨て身になれるのか、自分の生命に執着しないのか。慎重でありながら大胆で、まるで恐怖の感情を忘れてきたみたいだった。そして何よりも、強かった」と。
 数々の仕事の中で、ウィリアムの死は積み上げられる書類の一枚に埋もれていった。葬儀も正式に営まれたわけではなく、ひっそりと非公式のうちにすまされた。彼の墓の場所を知る者はほとんどいない。
 ただ墓石に名前が刻まれただけの、ひっそりとした墓――。
「…………」
 白を基調としたその花束を、レイは墓標にそっと手向けた。彼女の背後には仕事の合間を縫ってやって来た、邑悸が佇んでいる。数日ほど彼はARMADA本社に泊り込んでいたから、こうやってふたりが顔を合わせるのも久しぶりだった。
 ひざまずいて祈りをささげるレイの隣で、邑悸は手を合わせる。
「結局……僕は、彼を救えなかったね……」
 レイは眼を開け、邑悸を見上げた。その顔は逆光でよく見えない。――泣いているのだろうか。レイは立ち上がり、邑悸の腕に手を掛ける。
「邑悸さんのせいじゃありません」
「レイ、でも」
「それは違います」
 邑悸の言葉をさえぎり、レイは毅然と言葉を放つ。
「ねえ邑悸さん。あの後家族に拒絶された『BGS』たちがビルだけだと思いますか。そんなわけない。あずみにも聞きました。両親に電話を掛けてみたけど、反応は冷たかったって。元々帰るつもりではなかったけれど、やっぱり悲しかったって。だから、ビルだけじゃないんです――辛い思いをしたのは、みんな同じ」
「…………」
「ビルは……甘えたかったんでしょう。誰かに」
「……それは僕に、だったのかな」
「誰でも良かったのかもしれません。ただ無条件に『そこにいてもいいよ』と言ってくれるひとが――場所が、欲しかったんでしょう。それはきっと、誰だってそうですよね。ビルが特別甘えん坊だってわけじゃない」
「…………」
「でも、本当にビルには何もなかったんでしょうか……」
 風が吹く。白い花は、その花弁を震わせた。
「そんなことないと思う……元々彼、友達は多かったし、いくらでも連絡は取れたはずなんです。邑悸さんだって、何かあったら連絡しなさいって言ってた。どうしてビルはひとに頼らなかったんでしょう……同じ傷を持つもの同士で傷を舐めあって、癒えもしないで、その傷を振りかざして別の誰かを傷つけて……そんなことしたって、何にもならないのに」
「…………」
「どうして……死んでしまったんでしょう……」
 墓に向き直るレイの背中を、邑悸はそっと抱きしめた。
「それは少し、判るような気がする」
 一年前。カイルに銃を向けられて、自分はあのまま死んでもいいと思った。自分の罪から逃げ出したかった。何もかも捨てて楽になりたかった。――「疲れた」、とウィリアムは言った。きっとそれが全てだったのだろう。居場所を求めてもがくことも、復讐の炎に身を焦がすことも、結局は彼の心を満たしてはくれなかったのだ。
「邑悸さん……」
「僕には君がいたから。だから、死なずに済んだ……」
 あの時、手を差し伸べてくれたのはレイだった。その手を取ることができたから、今自分はここにいる。
「違いますよ」
 レイは振り向き、少しだけ笑う。その控えめな微笑が邑悸は好きだった。こころの底から湧き出した、綺麗な感情がこぼれだしたようで――どうしようもなく惹かれる。
「先に手を差し伸べてくれたのは、邑悸さんでした。覚えていませんか?」
 雨の中、孤児院で。邑悸は確かにレイを迎えに行った。親に捨てられ、居場所のなかったレイに最初に手を差し伸べたのは、邑悸だった。
「覚えているよ」
 邑悸は微笑む。――そう。あの出会いから、全ては始まったのだ。
 ウィリアムが、手を差し伸べてさえいれば――その手を掴むひとは、きっといたはずなのに。頑なに握り締められた拳は、結果的に自らの上に振り下ろされた。その手を掴むはずだった人々をも傷つけて。
「ARMADA内に、正式な部署を設けよう。元『BGS』への就職や、社会復帰を支援するための」
 邑悸はつぶやく。一時は「BGS」絡みの仕事から手を引いてしまおうかとも考えた邑悸だが、やはりそれはできなかった。彼は彼なりに、「BGS」の行方を見守っていく義務がある。それは一年前、「SIXTH」の真相を暴いたものとしての責任でもあった。
「こんな悲劇がもう再び繰り返されないように――時間はかかるかもしれないけれど、いつか必ず、『BGS』なんて単語は必要なくなるから」
「はい」
 レイの笑顔に邑悸は顔をほころばせる。その視線が腕時計に落ち、表情が翳った。
「レイ。そろそろ僕は仕事に戻らなければ」
「……そう、ですね」
 レイは少し顔を俯かせた。邑悸はその手をとり、墓標に背を向ける。
「邑悸さん」
「何だい?」
 邑悸の手は大きく、暖かい。レイは力を込めてその手を握り締めた。
「どんなに遅くなってもいいですから……できれば、家に帰って来てくれませんか」
「え?」
 邑悸の足が止まる。レイは俯いたまま顔を上げない。
「あの家は……一人で住むには、大き過ぎますから。わがまま言ってごめんなさい」
「……わかったよ」
 その答えに、レイは顔を上げた。邑悸はレイを見つめて微笑んでいる。
「大丈夫。君が、僕の帰る場所だからね」
 きっと、今の彼女の顔は真っ赤だろう。ウィリアムはお調子者だったから、こんな彼女の顔を見たら大喜びで囃し立てるに違いない。――だが、それもいい。
 墓地の前に止まっている邑悸の公用車。待たせていた運転手に合図をし、邑悸はレイを乗り込ませた。
「送っていくよ」
「え……でも、時間が」
「大丈夫だから」
 邑悸の手が髪を撫でる。
「送らせてくれるね?」
「……はい」
 レイはうなずいた。

 車が静かに発進する。後部座席に座ったレイは、その眼差しを墓地に投げた。そこに眠る、一人の少年を想って。
 ――ビル。貴方は地獄になど落ちない。天国へも行かない。私はただ、貴方に安らかな安息の地で眠っていて欲しい……。
 
 ――その日。空は青く、どこまでも澄み切っていた。