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第五章

 ──硫平がひとりでウィリアムに会いに行った。約束の時間になっても戻って来ない。
 春樹からレイにもたらされた連絡を聞いた邑悸は少し黙考し、やがて目を開けた。
「わかった。すぐに連絡を取ろう」
 誰に、とは聞かなくてもわかった。かつての「BGS」部隊だ。レイの全身に緊張が走る。一年前まで彼女のすぐ側にあった、硝煙と血のにおい。まるで体中に染み付いてでもいたかのように、すべてが鮮やかに蘇ってくる――。
「レイ」
 邑悸の大きな手が彼女の頭に触れた。すう、と何か悪いものが吸い取られでもしたように、レイの体を暖かな安心感が満たしていく。
「大丈夫。昔とは違う。治安警備隊もバックアップに回るし……、いい機会だよ。彼らに君たちの戦いぶりを見せておくことは、きっと今後の役に立つ」
 彼の穏やかな低い声は、いつだってレイを落ち着かせてくれた。彼女は素直にうなずく。――きっとそうだ。邑悸さんが言うのだから、間違いない……。
「だけど」
 邑悸は優しくささやいた。
「辛ければ……無理に参加する必要はないんだよ」
「え……?」
 レイは驚いて顔を上げた。邑悸は切なげな微笑で彼女を見つめている。
「今回のことは、『任務』じゃない。君の言ったとおり、もう僕は君たちの上司ではないのだから」
「邑悸さん……」
「あくまで、今のARMADAにできるのは協力要請だ。強制力はない。それに……」
 ふ、と邑悸は視線を落とした。
「これは、僕の蒔いた種だ。僕がやらなければ」
「邑悸さん……?」
 レイの疑問符に答えることなく、彼は顔を上げて微笑んだ。
「ARMADAの構成員としての僕は、君に参加して欲しいと思う。ただでさえ硫平がいなくて戦力が足りない。『BGS』全員にコンタクトがとれるわけでもないし……」
「…………」
 邑悸のいうのも当然だ。レイは「BGS」チームの中で、実力的にはナンバーツーに成長していたのだから。
「でも」
 邑悸は彼女の肩に顔を埋めた。レイは戸惑ったように身じろいだが、しかし彼を避けようとはしなかった。
「僕は……邑悸=社個人は、君に参加して欲しくない」
「え?」
「君を、危険な目には遭わせたくない」
 邑悸は目を閉じる。
 レイの性格は、誰よりも良く知っているつもりだ。きっとこの話を聞いて、レイは参加せずにはいられまい。
 もし彼女が邑悸の側にいなければ、春樹からの連絡が彼女に回ることもなく、また邑悸もあえて彼女に連絡しないという手段が取れた。そうやって彼女を守ってやることができたのだ。彼がレイを側におこうさえしなければ。
 ――「レイを守る」なんて、嘘ばかりだ……たとえ一貴になじられても、言い返せない。唇を噛む邑悸の髪を、レイの細い指がなでる。
「邑悸さん」
「何?」
「私は必ず帰ってきます」
 彼女の声は少し強張っていたが、それでも凛としていた。
「邑悸さんが帰る場所を用意してくれたから……だから、必ず」
 邑悸はレイをやわらかく抱きしめた。
「うん、そうだね。――必ず、帰っておいで」
「はい」
 父にでも兄にでも、何にでもなろう。レイが自分の元に帰って来るというのなら、いつまでだって待っていよう。――そして、今の邑悸には待つ以外にもできることがある。
「一緒に、帰って来よう」
 邑悸は小さくつぶやいた。その身に叩き込まれた「兵器」としての素養が、肌の下でざわりざわりとうごめくのを感じながら……。

 硫平はちらりと時計を眺めた。午後一時を少し回ったところか。既に春樹はレイに連絡しただろう。そしてそれはすぐに邑悸へと伝わっているはずだ。
 結局昨夜は話もそこそこに、硫平は同じ建物内にある客室へと案内された。体のいい軟禁なのだろうとは思うが、ここまで来て事を荒立てては意味がない。硫平は寝室で軽く仮眠を取り、疲れを癒すことにした。再び呼び出されたのは、昼近くになってから。ウィリアムに昼食に招かれ、硫平は快く応じた。
 目の前に並べられた豪華な昼食に申し訳程度に箸をつけながら、彼はウィリアムの話に聞き入るふりをしていた。ウィリアムは高価そうなワインを手にしている。硫平は乾杯の盃だけを受け、唇を湿した程度で脇に置いた。
「俺もな、ARMADAを出る頃には夢も希望もあったわけよ」
 ウィリアムは既に少し酔っているのか、頬を赤らめている。
「家族のところにも行ったし……硫平は行ったか?」
「いや。俺は行ってない」
 何となくあまりいい結果が待っていないような気がして、硫平は家族との対面を避けた。ずっと先、「BGS」がもっと世間に溶け込めるようになったら名乗り出るのも悪くないかもしれない。今はまだ、時期尚早だろうと判断したのだ。
「それが正解だよ」
 ウィリアムはぽつりとつぶやく。その青い瞳に浮かぶのは、間違いなく寂寥の色だった。硫平ははと胸を衝かれる。
「俺は――忘れねえ」
「…………」
 何があったのかなど、聞けない。聞いてしまえば、そのことさえもがウィリアムを傷つけるだろうから。深い傷をえぐるような真似は、硫平にはできない。
「だから、決めたんだ」
 低い声。暗い眼差し。まるで地獄からの怨嗟の声のように聞こえて、硫平は思わず身震いした。
「この世界に復讐してやるって」
「復讐……?」
「そう。復讐だよ」
 だん、と拳を打ちつけ、ウィリアムはその瞳に昏い炎を燃やす。
「俺たちを疎外し、迫害し、痛めつけた世界に。俺たちなんて者を生み出した世界に。復讐してやるんだ。混乱と恐怖のどん底に叩き落としてやる」
「…………」
 硫平は唖然とウィリアムを見つめた。
 世界に対する憎しみ――それを硫平は知らないわけではない。世界に対する疎外感、迫害する者たちへの恨み、遺伝子「SIXTH」などというものを開発した人間たち。それらを憎んだことがないわけではない。しかし、今のウィリアムはそれだけでおさまらない何かを抱えている。家族との不幸な邂逅がもたらしたものなのか、それとも……。
 ウィリアムが不意に顔を上げた。口元を歪め、硫平を見つめる。
「お前にはわかんねえよなあ? 対外任務中にオトモダチができて、そいつのところにぬくぬくとおさまった、恵まれたお前には」
「一体何の……」
 今の自分の環境を知られている。そのことに気付き、硫平は血の気が引くのを感じた。
「お前には帰る場所があるもんな? いくら俺が誘ったって、こっちには来ねえだろう」
「…………」
 ――こいつ、一体何を……。膝の上で握り締めた拳の内側に、じんわりと冷たい汗がにじむ。
「でももし、その場所がなくなったら――そう、『不慮の事故』でなくなっちまったら」
 ウィリアムの瞳は瞬きを忘れたかのように硫平をとらえて離さない。
「行き場のないお前を受け入れてやれるのは、うちしかないんだぜ?」
「そ――そんなことは」
「邑悸さんを頼るつもりか? 馬鹿だな」
 図星を指され、硫平は口をつぐんだ。
「下町で原因不明の爆破事故。その犯人は」
 長い指。太いシルバーのリングが、ぎらぎらと嫌な光を放っている。
「お前だよ。硫平=鈴摩。お前は邑悸さんに追われる身になるんだ。俺と同じに、な」

 ――ちっ、ちっ、ちっ、ちっ。
 腕の中に抱えた包みは小さく時を刻んでいる。早くセットして逃げなければならない。自分が巻き込まれたのでは間抜けすぎる。きょろきょろと辺りを見回していると、ふとある男と目が合った。十メートルほど先にたたずんでいる。白っぽい服に金髪、翡翠色の瞳で自分をじっと見ていた。
 ここから離れよう。あの男のいないところで事を運んだほうが良さそうだ。彼が踵を返し、数歩進んだその時。
「それを渡してもらいましょうか」
「――――ッ!!」
 彼が振り向く暇もなく、腕の中の包みをひったくられた。
「な、そ、それはっ……!」
 思いきり道路に蹴飛ばされ、這い蹲りながら悲鳴を上げる。今爆発したら確実に巻き込まれる。死の恐怖に襲われ、男は頭を抱えた。
「ふむ――爆弾ですか」
 声の主は落ち着き払っているようだった。おそるおそる振り返ると、彼から爆弾を奪ったのは先ほど目が合った金髪の男だった。肩から提げた鞄から何やら工具を取り出し、手際よく爆弾を分解している。
「あ、あんた……一体」
「おっと。逃げようとはしないで下さい。私は貴方を撃ちたくはありませんのでね」
 男はぷちん、と銅線の一本を断ち切った。規則正しく響いていた音が消える。どうやら爆弾はその機能を失ってしまったらしい。
「…………」
 逃げようにも腰が抜けて動きようがない。男はガラクタと化したそれを地面に置き、彼に近付いて来る。
 ――逃げなければ。でも、どうやって?
 男はかがみこみ、彼の両手を縄で手際よく縛り上げた。抵抗しようにも、その気力が既に彼にはない。
「任務完了。しかし、何だって私があの男にこき使われなければならないのか」
 男はぶつぶつとつぶやきながら、ふと背後の家屋を振り返る。爆破されるはずだった場所――春樹=辰川とその妹が暮らす家だ。
「ま、彼には昔迷惑を掛けてしまいましたし、これでひとつチャラということにさせてもらいましょうかね」
 男――カイル=エル=ムードは満足げにつぶやいた。