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第三章

 極東大教会堂の一角にしつらえられた応接室。開いた扉から入ってきた男は、来客者の顔を見て露骨に嫌そうな顔をした。
「これだから嫌いなのですよ、貴方という男は」
「大切なお相手には自ら出向くのがモットーでね」
 ソファに腰掛けていた来客──邑悸はさっと立ち上がった。相変わらず、見た目だけはひとの良さそうな笑みを浮かべている。
「お久しぶりです。――カイル=エル=ムード極東大司教補佐」
 現在、極東大教会の司教を務めているのはアレックス=テラ=ムード──カイルの従兄弟である。カイルは彼の補佐として、行動を共にしていた。
 教会とARMADAの対立は既に過去のものとなってはいるが、個人的な感情のしこりまではどうすることもできない。まして、邑悸はかつてカイルが殺意を抱いたほどに憎んだ相手──邑悸はそれを知っている。一度は自分を殺そうとした相手にわざわざ会いに来るとは、一体どういう神経をしているのか。カイルにはわからない。
「ご用件は?」
 カイルは諦めを含んだため息をもらし、邑悸の向かいに腰掛けた。邑悸の瞳は一年前よりは少し穏やかな、しかしまだ鈍りはしない光を宿している。彼はすっと身を乗り出した。
「教会が受けた『ラッツ』からの被害をお聞きしたい──」
「…………」
 ──ごくり。カイルは喉を鳴らす。
「なるほど、そういうことならご協力できそうです」
「助かります」
 ノックの音と共に修道女が姿を見せ、二人の前にティーカップを置いて去っていった。湯気を立てるそれをじっと見つめ、邑悸は言う。
「『ラッツ』の攻撃対象には明らかに教会の関連施設が含まれている。──どうも、怨恨の線が疑わしい」
「やはり貴方もそうお考えでしたか」
 カイルはカップを傾けた。熱い紅茶が喉を通り、体中に染み渡っていく。
「現在我々は聖服を着ての外出を自粛しております」
「ほう?」
「ひったくりの被害はかなり減りましたよ」
「……なるほど」
 邑悸はまだカップに手をつけない。
「教会に対して悪意を持つ者──お心当たりは?」
 カイルは無言で苦笑する。
「貴方のことだ、私に聞かなくとも既に目星はつけておいででしょう」
「……何故、そのように?」
 邑悸は目を細めた。カイルは軽く手を振る。警戒心を解くつもりだったのだが、成功しただろうか。
「何となく、です」
「……おっしゃる通り、ARMADAは『ラッツ』上層部と思われる人物を何名か特定しています」
「────!!」
 カイルは目を見開いた。正直、彼らがそこまで駒を進めているとは思っていなかったのだが……。「BGS」の半数以上をその手元から手放したとはいえ、やはり邑悸=社は侮れない力を持っている。
「ARMADAがそこまでするには理由がありそうですね」
 カイルはじっと邑悸を見つめた。
「教会に怨恨を持つ者、ですか。私ならそのリストの最上部にこう書きますね──『BGS』、と」
 邑悸は黙って微笑する。まるで生徒が正しく答えたことに満足する教師のようだと思い、カイルは胸中で冗談交じりに毒づいた。――だから私は貴方が嫌いなのですよ、と。
 邑悸がすっと紅茶に手を伸ばした。カイルは皮肉っぽくつぶやく。
「ずっと手をお付けにならないから、毒でも心配されているのかと思ってしまいましたよ」
「まさか」
 くすりと笑い、彼はカップを傾けた。
「僕、猫舌なんです」
「……あ、そうですか」
 その声は我ながらひどく乾いていた。

 人知れぬ会談から数日が過ぎ――。
 夜半過ぎ、春樹=辰川は静かに帰宅した。既に妹は眠っているかもしれない。
 仕事からの帰りが遅くなっても昔ほど妹が心配でないのは、同居人が増えたお陰だろう。いや、別の意味での心配はあるのだが……。
 妹は――キラは、硫平=鈴摩のことが好きなのだろうか。その、家族としてではなく、異性として。それは決して楽しくはない想像だが、リィに言わせれば既に事実なのだそうだ。よけいに気分が悪い。
 硫平はいいやつだと思うし、友人だとも思っている。そうでなければひとつ屋根の下に住まわせたりなどはしない。とはいえ、キラは春樹のたったひとりの大切な妹だ。そう簡単に他人の手に委ねるわけにはいかない。
 今はまだいい。キラもまだ幼いからだ。しかしあと数年もしないうちに、状況は大きく変わるだろう。キラの初恋がどのような形で終わるにせよ――考えたくはないが発展する可能性も含めて――他人、しかも妹にとっては異性である硫平を、このまま同居人として受け入れておけるかどうかはあやしい。
「まあ、先のことはわかんねえけどな……」
 つぶやきながら窓を見上げた。キラの部屋に電気がついていることに気付き、春樹は訝しげに眉をひそめる。
「ん……?」
 不審に思いながらそっと鍵を開ける。玄関を見回し、硫平の靴がないことに気付いた。
「はるちゃん……」
 廊下の奥から姿を見せた妹は不安げに春樹を見詰めている。
「どうした? 硫平は昨日夜番だろ? 昼頃帰ってきてたんじゃねえの?」
 胸騒ぎを感じつつ尋ねると、キラは目を伏せた。胸の前で指を組んだり解したりを繰り返している。
「夕方頃に誰かから連絡が入って、急いで出かけちゃったの。すぐ帰るって言ってたんだけど、まだ……」
「誰かに呼び出されたってことか」
「うん……たぶん」
 春樹は表情を険しくした。
「その相手が誰かはわかんねえのか?」
「はるちゃんあてに置手紙があるの。読んでくれる?」
「あれ、お前読まなかったんだ?」
「勝手に読んだりしないよ!」
 憤慨する妹の髪を撫でてなだめ、春樹は足早に自室へと戻った。デスクの上に白いメモ用紙。
 ――明日の正午になっても戻らなければレイに連絡してくれ。ビルの件だといえば邑悸さんまで伝わるはずだ。心配かけてすまない。
「ビル……?」
 春樹はつぶやいた。ビルはしばしばウィリアムの愛称として用いられるが……。
「ウィリアム……ウィリアム・バートンか?」
 先日リィからもたらされた情報を思い出し、春樹は息を呑んだ。「ラッツ」の上層部の一員に呼び出され、のこのこ出て行ったということか。
「あいつはあほか」
 頭を抱え、春樹はうめく。
 例の情報は、すぐにARMADAに提供しておいた。邑悸=社の元にも届いているだろう。さらに硫平との間で何かやり取りがあったのかもしれない。たとえば硫平が囮になって潜入するとでも言うような……?
「もしそうだとしたら、気にいらねえな」
 春樹はつぶやく。どんな理由があろうとも、硫平の身を危険に晒してまで益を得ようという、その魂胆が気に入らない。
「あいつは俺の――……」
 春樹は時計を見上げた。硫平が書き残した時間まで、あと八時間ほど残されている。
「キラ」
 妹を呼び、春樹は告げた。
「正午になったら起こしてくれ。いいな」
「……うん」
「それから」
 不安そうなキラの両肩を抱き、春樹は言う。
「硫平を信じてやれ。信じて待つことも、大事な仕事だぞ」
「……わかった」
 蜂蜜色の瞳が揺れる。
「りゅうちゃんは、強いものね」
「そうだな。鬼のように強いな」
 実は何度か手合わせしてもらったことがあるのだが、全く歯が立たなかった。春樹の我流で身に着けた喧嘩のやり方が、ARMADAに叩き込まれた体術に通用するはずもない。
「眠れそうか?」
 最後に尋ねると、キラはしっかりとうなずいた。
「そうか。じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
 手を振って見送った後、春樹は小さくつぶやく。
「……何がどうなってるのか知らんが、キラに心配掛けるなよなあ」
 八時間は少し、長すぎる。
 

 春樹が眠れずにベッドの中で何度も寝返りを繰り返している頃。
 レイはふっと目を覚ました。時計はまだ五時を指している。いつも起きる時間まであと一時間以上あるのだが、きっと今日はこれ以上眠ることはできないだろう――漠然とした予感があった。
「……朝ご飯でも作っておこうかしら」
 昨晩も邑悸は遅くまで仕事をしていた。体は家にあっても、実質本社のオフィスにいるのと変わらない。
「今朝はゆっくり休まれると良いのだけど……」
 つぶやきながら身支度を整え、二階の自室から一階に降りる。
「……?」
 レイはふと足を止めた。半開きになっている扉、その奥にある邑悸の書斎にライトがついている。レイは控え目にノックした。
「……邑悸さん?」
 声を掛ける。返事はない。
「…………」
 レイはおそるおそる扉を押した。
 邑悸の姿はすぐに見つかった――ソファの上に寝ている。服も着替えず、書類の何枚かは床に散らばってしまっていた。
 レイはくすりと微笑んだ。
 こうやって一緒に暮らし始めるまで、邑悸のことを超人で、天才だと思っていた。膨大な情報量を処理し、最善の決断を下す頭脳。何十、何百もの部下を手足のように操るカリスマ性。彼の意思ひとつでARMADAの膨大な予算が消費され、そしてそれを上回る利潤を生み出す。
 邑悸=社。ひとは彼を英雄とも悪魔とも呼ぶ。「SIXTH」の嘘を暴き、「BGS」を解放した――しかし同時に再び人類を殺人の恐怖へと突き落としたともいえる。パンドラの箱を開けたのは、彼だ。
 けれど、本当の彼は英雄でも悪魔でもない。アイロンを掛けようとしてシャツに穴を開けたり、熱いコーヒーが苦手で氷を入れて冷まそうとしたり、サボテンに水をやり過ぎたり――そして悪い夢を見て飛び起きたり。ごくごくふつうの人間だと思う。一貴に言わせれば「ふつう」ではなく、「変」だというのだろうけれど、たぶん意味はそう変わらない。今だってそうだ。こんな子供のような顔をして眠っている。
「……邑悸さん」
 レイは知らず知らずのうちにその名をつぶやいていた。ソファの横にしゃがみこみ、乱れた髪に手を伸ばす。その柔らかさを確かめるように、彼女は何度も指を滑らせた。
 いつだって微笑に彩られているその顔にも、今は何の表情もない。長い睫毛に縁取られた瞼は彼の瞳を押し隠し、逆に唇はわずかに緩んで吐息をこぼしている。くちびる――。
「…………」
 レイはばっと赤くなって、手を離した。心臓が飛び跳ねている。思い出してしまった。両手で自分の唇を押さえ、レイは顔を伏せる。今は、邑悸の顔が見ていられなかった。
 ――「レイ」
 低く湿った声。記憶の中から再生されたそれに、レイの鼓動がさらにかき乱される。
 ――「ムラキさん、って……レイちゃんの、好きなひと?」
「レイ?」
「きゃっ!!」
 レイは悲鳴を上げて飛び上がった。思わず後ろに倒れこもうとする体を、咄嗟に邑悸が腕をつかみ引き止める。
「ど、どうしたの?」
 邑悸はぼうっとした瞳でレイを見つめる。いつの間にか彼は起き上がり、ソファに腰掛けていた。シャツはよれ、スラックスは皺になってしまっている。
「もう朝? ……あれ、僕寝てた?」
「え、えっと」
 つかまれた場所から伝わる高い体温に、レイの声がうわずる。
「私、ちょっと早く目が覚めて……それで……」
「そうか、僕はここで寝てしまっていたんだね」
 邑悸は小さく欠伸をした。ちらりと彼女を流し見て、あやしく笑う。
「寝顔を見つめてるなんて悪趣味だよ、レイ」
「み、見つめるだなんて! それに」
 レイは真っ赤になって抗議した。
「邑悸さんだって、私が怪我したとき……!」
「うん、可愛かったからね」
「――――!!」
 言葉を失うレイには構わず、邑悸は立ち上がる。
「さて、僕はシャワーを浴びて来ようかな」
「じゃ、じゃあ、私は朝ご飯の準備をしますね」
「うん。ありがとう」
 邑悸は柔らかく微笑んだ。
「目が覚めたら側にレイがいたなんて、何だか嬉しい」
 もうこれ以上ないというほど赤くなったレイの頬に、邑悸はそっと口付ける。
「邑悸さ……!!」
「レイ」
 彼女の言葉をさえぎるように、力強い腕がレイを包んだ。
「僕はもう、二度と君を傷つけたくない……」
 邑悸はまだ寝ぼけているのだろうか。それとも……何か予感があるのだろうか。
 レイは目を閉じた。強張っていた体から力が抜けていく。邑悸の温かな匂いに包まれて、静かな安らぎが心を満たす。
 ――邑悸さんは、私の好きな人。だから、邑悸のために傷つくのなら構わない。そんなことは、構わないのだ。
 今はもう跡形もなく消えた銃創。不意に、そこがずきりと痛んだ。