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第一章

 赤い。赤、あか、アカ……。
 視界一面が赤一色に染まっている。床の上で赤に塗れている塊。赤く汚れた自分。壁を彩る赤い飛沫。とめどなく拡がる赤い染み。
 ――これは、何だ?
 瞬きを繰り返すと、ぼやけていた焦点がはっきりと定まってくる――それはふたりの人間が折り重なってうずくまる姿だった。
「父さん……? 母さん?」
 音を立てて何かが床に落ちる。大型のナイフだった。それもまた、赤い。一体どこから落ちてきたのか……。
 ――そうだ。
「僕が……」
 両手を見下ろす。そこには、たしかに何かを握りしめていた感覚が残っていた。そしてもうひとつ、柔らかな塊に、硬いものを突き立てた感触も……。
「僕が……」
 ――赤は血の色。これは、父さんと母さんが流した血。
「僕が、殺した……!!」
 彼は絶叫した。
 
 
「――らきさん!!」
 彼はベッドから跳ね起きた。体中が冷たい汗でびっしょりと濡れている。
「邑悸さん!」
「……レイ」
 彼は細かく震えながら、自分を呼ぶ声の主を見上げた。ベッドの側に立ち、背を屈めている少女。いや、もう少女というほど子供ではない。ダウンライトに照らされた彼女の目は、心配そうに瞬いていた。
 彼――邑悸=社は、ほっと息をついた。
「が起こしてくれたのか」
「ええ……」
 彼女は頷き、水を注いだコップを差し出した。
「ありがとう」
 邑悸はそれを受け取り、ひりつく喉に流し込む。冷たい水が心地良かった。
「僕は、何か言っていたかい?」
「いいえ、何も」
 以前より伸びた黒髪が、緩やかなウェーブを描いて揺れる。邑悸はぼんやりとその軌跡を追った。
「そう……」
 頭が痛い。割れるようだった。この痛みから逃れるつもりはない。どんな事情があったとしても、自分は人を殺したのだ。その罪は、彼が一生背負っていかなければならないものだ。
 自分は後悔しているのだろうか。――わからない。
 自分は彼らを許したのだろうか。――わからない。
 何もかもがわからない。なぜ両親は自分をこの世に産んだのか、どうしてあんな実験をしたのか、どうして……。
「邑悸さん?」
 どうして、レイを作ったのか――。
 レイ=白瀧。彼女は「BGS」を兵器化するという目的のもと、邑悸の両親によって胎児期に遺伝子を操作された。彼女の遺伝子に組み込まれたのは邑悸の遺伝子である。もし彼が両親を殺さなければ、その技術は実用化されていたのだろうか。――気持ち悪い。
「邑悸さん、顔色が……」
 レイの手が、邑悸の額に触れた。夢の中で血に塗れていた自分を思い出し、びくりと体が震える。温かな手のひらは、慌てたように離れていった。
「ご、ごめんなさい」
「違うんだ」
 邑悸は首を横に振った。レイを拒絶したとは思われたくない。
「夢の中で、僕はひどく汚れていて」
「…………」
「君の手が汚れてはしまわないかと、それが心配だったんだ」
 なぜだろう、急に泣きたくなった。あの時――ふたりを殺したときも、涙は出なかったというのに。
「君を傷つけたね、すまない……」
「そんなこと」
 不意に、ベッドがきしんだ。邑悸が驚いて顔を上げると、レイの顔は驚くほど近くにあった。
「邑悸さんが汚れているのなら、私だって同じでしょう?」
 彼の頬を包む、やわらかな両の手。それに抗い、ふりほどくことは彼にはできなかった。レイは彼を見つめ、寂しげに微笑む。
「私だって、殺人者には変わりないんです。この手で、たくさんの人を殺し――傷つけてきたんですから」
「それは違う。そんなことを言っては駄目だ」
 邑悸はレイの手を取った。白い、小さな手をぎゅっと握りしめる。
「違いません」
 レイはゆっくりとかぶりを振り、強い口調で邑悸に迫った。
「でも邑悸さんがそう言うなら、もう言いません。だから、邑悸さんもそんなこと言わないで下さい。約束です」
「……わかったよ」
 根負けして頷く邑悸に、レイはにっこりと微笑んだ。
「良かった」
「レイ……」
 つられて笑みを浮かべそうになった邑悸だが、ふとレイの格好に気付き息をのんだ。白いパジャマの上に、ベージュ色のガウンを肩に羽織っているだけ。そして今は夜中の三時。薄暗い部屋にふたりきりで向き合って――。
「れ、レイ!」
 邑悸は慌てて彼女をベッドから降ろす。勢いあまってつんのめった彼女の腕をとって立たせ、声をあげる。
「なんて格好をしているんだい?!」
「え……?」
 邑悸はベッドから降り、きょとんとするレイをドアの方向へぐいぐいと押した。
「起こしてくれて嬉しかった、どうもありがとう。だけど、君はもう十八歳だろう? そんな格好で真夜中に男の部屋に来るなんて、どうかしている」
「男って、邑悸さんじゃないですか」
「僕だって立派な男だよ! だからもう、部屋に帰っておやすみ」
 レイを押し出し、ドアを勢い良く閉める。少し手荒だったかと反省するが、この際仕方がない。邑悸はずるずると床に座り込んだ。
「ああもう……一気に目が覚めたよ……」
 小さくつぶやく。今日はこれ以上眠れそうになかった。

 レイを引き取り、旧上海市内の高級住宅街で暮らし始めてから一年が経つ。邑悸は相変わらずARMADAの相談役として出勤しているし、レイは先日第一ARMADA大学への進学が決まった。
 邑悸がレイの保護者となったことを不審がる者もいたが、邑悸の叔母である匡子=香月によって「実は、レイは邑悸の遠縁の親戚だった」ということにされた。もともとレイは孤児だから問題はない。
 久しぶりの「家族」との生活を、邑悸は満喫していた。何度やめるように言ってもレイの敬語は変わらないが、彼女も邑悸への親しみを徐々に深めてくれている。兄と父親を一辺に手に入れたようだ、と彼の友人に語っていたらしい。――「父親やて。そら、レイちゃんみたいな若い子から見たらお前もオッサンやいうことやな」などと憎まれ口を聞いていたその友人には、後でどっさり仕事を押し付けておいた。いい気味だ。
「さすがに、娘だとは思えないけどなあ」
 邑悸はベッドに横になり、ぼんやりと明るい天井を見上げた。彼は眠るとき、いつもライトをひとつ、つけておく。悪夢を見て飛び起きた時、さらなる恐怖を味わうことがないように。
「レイは、僕の……何なんだろう」
 こうしていると、彼女のありとあらゆる表情を思い浮かべることができる。無表情だと思われがちな彼女だが、本当はとても感情豊かな性格だ。ただ、それを表すのが下手なだけ。内面を切り離して表情だけを自由に操る、八方美人な邑悸とは対照的だった。
 レイが大学を卒業して、就職して……その時はこの家を出て行くのだろうか。邑悸がレイと過ごすために用意した、この家を。そのとき彼女はひとりだろうか。それとも、知らない誰かが彼女の手を引いているのか――。
「ちっ」
 邑悸は小さく舌打ちし、寝返りを打った。ひんやりとしたシーツの感触が頬に心地良い。
「これはもう、本当に眠れないな――」
 つぶやいたとき、部屋のドアがノックの音を立てた。
「はい?」
 体を起こす。相手はレイだろう、しかし何故ここにいるのか。先ほど乱暴に追い払ったばかりだというのに……。
「あの、ごめんなさい」
 開いたドアの隙間から、顔を覗かせたのはやはりレイだった。胸の前に何かを抱えている。
「入ってもいいですか?」
「い、いいけれど」
 先ほど駄目だといった自分の言葉も忘れ、邑悸はうなずく。するとレイは小走りに駆け寄ってきた。唖然と見守る彼の目の前で、レイは床に毛布を敷く。
「レイ!」
「はい?」
 枕を置き、てきぱきと毛布の形を整えながら、レイは顔を上げた。
「まさかとは思うけれど……そこで寝るつもり?」
「邑悸さん、最近よくうなされて、あまり眠れていないでしょう?」
 何故気付かれたのだろう、心配をかけまいと黙っていたのに。そんなことを考える余地もなく邑悸はレイの腕をつかんだ。
「心配してくれる気持ちは本当に嬉しいよ。だけど、女の子が床で寝ちゃ駄目だ」
「床じゃありません、毛布の上です」
「同じことだよ!」
 邑悸は彼女を抱きかかえてベッドの上に座らせ、毛布を奪い取った。
「僕が床で寝るから、君はそっちで寝て。いいね?」
「そ、そんなの駄目です! 私も床で寝ます!」
「ベッドがあるのに? ふたりで床に転がるのかい?」
 邑悸は笑った。レイも一瞬目を見開いた後、くすくすと控え目に笑い始める。
「なんか、変ですね」
「そうだね」
 邑悸は少し天井を見上げ――やがて、おそるおそるその言葉を口に出した。
「じゃあ……僕の隣で寝る?」
「はい」
 拍子抜けるほどレイはあっさりうなずく。邑悸は目を瞬いた後、かすかに苦笑を浮かべた。――兄か父親のよう、か……。
 枕を並べ、布団をかぶる。レイの髪の香りが、ふんわりと邑悸の鼻腔をくすぐった。
「どうしてここに来たの?」
 邑悸は問い掛ける。行き場のない視線は、天井をさまよっていた。
「だって、わかるんです。邑悸さんが悪い夢を見ていたら……眠れずにいたら、私にはちゃんとわかる」
「レイ……」
 邑悸は首をめぐらせた。同じようにこちらを見ているレイと視線が合う。彼女は微笑んでいた。
「だから、邑悸さんが悪い夢を見ないように……悪い夢を見ても、ちゃんと起こせるように。ここにいたいんです」
 ――ああ。
 邑悸は目をぎゅっとつぶった。
 ――レイは忘れていないんだ。
 レイと邑悸は「家族」ではない。彼らが良く似ているとしたら、それはレイの遺伝子が人為的に邑悸のものに近付けられたために他ならない。邑悸の悪夢にレイが気付くことができるのは、遺伝子を共有しているがゆえの「共鳴現象」の影響だろう。そんなものは、本当の絆ではないのではないだろうか……。
「本当は、うなされずに済めばそれが一番なんですけど……って、あの、邑悸さん?」
 彼女の声を封じるように、邑悸はぎゅっと彼女を抱きしめた。やわらかな肢体は抵抗することもなく、邑悸の胸の中におさまる。
「ごめん。少しだけ、こうしていてもいいかい?」
「……ええ」
 レイは抱きしめ返すように腕を回して、優しく彼の背中をさすった。
「私は、そのためにいるんですから……」
 ――どうか、レイにこの胸の痛みが伝わりませんように。
 こんなに近くに抱き寄せながら、こころを遠ざけようと望む。その矛盾に気がついていても、邑悸にはどうすることもできない。
 邑悸はきり、と歯を食いしばった。かつては「ARMADAの悪魔」と呼ばれた自分。その自分の近くにレイを置くことで、彼女が危険な目に遭うかもしれない。それがわかっていても、彼は彼女を手放せない。同じ矛盾だった。
 
 ――その頃、ある無法集団が世間を騒がせ始めていた。