instagram

エピローグ

 春樹はぽかんと口を開けた。彼の家の前に止まっているのは、テレビでしか見たことがないような高級車である。無邪気にはしゃぐキラ、たいして動じていない硫平を従え、春樹は運転手の顔を見て──盛大に噴いた。
「あれ」
 硫平が小さくつぶやくのと同時に運転席の窓が開く。
「やあ。久しぶりだな」
「アレックス……だっけか」
「全く、ゲストを顎で使うとは。あの男にも困ったものだ」
 口ほどには機嫌は悪くないらしい。極東地区大司教、アレックス=テラ=ムードは春樹を見やり笑った。
「さあ、乗り給え。遅れると私が彼に文句を言われる」
「お、おう」
 邑悸=社から届いた招待状を握りしめ、春樹は妹を促し車に乗り込んだ。
 ──「ラッツ」掃討作戦終了宣言後、一カ月が経っていた。

 彼の地位と財産を鑑みれば、その邸宅は随分こじんまりしていると言えるだろう。郊外の閑静な高級住宅街、その一等地に邑悸=社の邸宅は佇んでいた。
 アレックスの運転する車から降り、春樹は唖然と庭を見渡した。これはホームパーティというものなのだろうか。白いテーブルセットの上に並べられた料理も酒も、春樹にすら一流とわかる品々だ。しかし個人宅のくせにウェイターが立ち働いているのは、一体全体どういうわけだろうか……。
 彼らが最後の招待客だったのか、談笑していた数人の人々が思い思いの席に着き始めた。春樹の知る顔──カイル、レイ、そしてアレックス。知らない顔は二つだった。ひとりは明るい栗毛の髪をうなじで縛って、眼鏡を掛けた男。もうひとりは……。
「硫平」
 低い声。呼ばれた硫平が姿勢をただす。春樹は思わず唾を飲んだ。深い色の瞳が彼らを映している。黒髪が光につやめき、口元には温和な笑みがたたえられていた。──これが……。
「あの、こちらが友人の春樹=辰川です」
「はじめまして」
 先を越された春樹は慌てて頭を下げる。
「それでこちらが彼の妹、キラ=辰川」
「はじめまして!」
「はじめまして。……以前僕が入院した時、硫平にお花を言付けてくれたのは君かな?」
 キラがぽかんと口を開ける。邑悸は優雅に微笑した。
「ありがとう」
 ――「ARMADAの悪魔」。春樹はふとその二つ名を思い出す。邑悸が本当に悪魔なら、ひとはみな騙されてしまうだろう。この男にはそれだけの風格とカリスマ性がある。
「ああ、申し遅れました」
 邑悸は春樹に手を差し出した。
「邑悸=社です。硫平がお世話になっています」
「邑悸さん……」
 邑悸はひとつ硫平に頷いてみせる。
「今日は楽しんで行ってね」
 柔らかな声が、彼らの耳に優しく馴染んだ。

「硫平ー元気しとったかー?!」
「か、一貴さん」
 酔っ払いに絡まれている硫平を横目に、春樹は近付いてくるレイに気付いた。シンプルなチャコールグレイのワンピース。そういえば、レイの私服姿など見たことがなかった。いつだって、彼女は黒い制服に身を包んでいたから。何故か、どきどきした。
「お久しぶりです」
 微笑するレイの表情は、かつてよりずっと柔らかなものだった。その黒髪と瞳──なるほど、邑悸=社と良く似ている。
「おう、久しぶり」
「来てくれてありがとう」
「いや、こちらこそ……俺たち兄妹は場違いじゃなかったか」
 キラはといえばジュースを片手に、ケーキを嬉しそうに頬張っている。カイルがひどく優しげな目で話し掛けているのが印象的だった。意外に、彼は子供好きなのかもしれない。
「いえ、むしろ春樹さんがメインゲストなんですよ」
 意外な言葉に、春樹は目を見開く。レイの視線が邑悸を追って和らいだ。彼はといえば、一貴にまた強い酒を勧めている。酔いつぶすつもりだろうか。
「俺? なんで?」
「お礼と、見極め」
 ARMADAに協力してくれたこと、そして硫平を受け入れたことへのお礼──それはわかる。だが見極めとは……?
 レイは少し困ったように微笑した。
「硫平は……いえ、『BGS』のみんなは、邑悸さんにとって家族だから」
「家族……か」
 春樹はオウム返しにつぶやいた。そういえば先ほど「硫平をよろしく」と言われた。軽い調子の言葉だったが、実は深い意味が込められていたのだろうか……。
「まあ、春樹さんは硫平のお兄さんのようなものですしね」
「……お義兄(にい)さん?!」
「え?」
 急に慌てふためきだした春樹を、レイは不思議そうに眺める。ふと、春樹は気付いた。
「……レイにも、いろんな表情(かお)ができたんだな」
 いつだって無表情に強張っていた――それが、今はこんなにもやわらかくさまざまな表情を浮かべている。
 レイはやわらかく微笑んだ。
「春樹さん……」
「お話中、ごめんね?」
「うわ!」
 いつの間にか、レイの背後に邑悸が立っている。その視線が一瞬ひどく鋭く光って、春樹は冷や汗をかいた。──春樹に頼んだのは硫平のこと。レイについてはほうっておけということか。
「一貴さんは?」
 レイの問いに、邑悸の指が春樹の後ろを指す。春樹が振り向く暇もなく、何か肩に重いものがのしかかってきた。酒臭い。
「春樹君ー、あかんでえ、レイに手え出したらこの怖ーいお兄さんに存在自体なかったことにされてまうからなあ」
「ええ?!」
 春樹はぎょっと邑悸を見上げた。あくまで彼の笑顔は優しい。しかし……。
「否定、しないんですね」
「まあね」
 邑悸の口調は完全に真剣そのものだった。

 楽しかった宴も、いつかは終わってしまう。月に照らし出された庭は昼間の宴の余韻を少しも残すことなく、いつもどおりひっそりと静まり返っていた。
 パジャマにガウンを羽織り、レイは庭に面した窓の前で立ち止まった。硫平、春樹、キラ、一貴、カイル、アレックス。そして邑悸……みんな、笑っていた。レイの唇に自然と笑みが浮かぶ。かつて彼女と銃口を向け合ったカイル。あのときとは違う、自然な笑顔が嬉しかった。
「レイ?」
 振り向くと、灯りを落とした部屋に伸びるシルエット。邑悸だ。
 レイはふわりと微笑み、駆け寄った。とん、と頭を彼の肩にあてる。
「レイ」
「…………」
 見上げると、邑悸は頬を少しだけ紅潮させていた。
「邑悸さん……?」
「君が悪いんだよ。いいね?」
「何が……えっ?」
 手が引かれ、邑悸の胸元に抱き込まれる。温かい――温かくて、気持ちが安らぐ。何度包まれても慣れることのない、それでも本当はレイの大好きな場所。
「私……何か、悪いことしましたか?」
 おそるおそる尋ねると、邑悸は彼女を抱きしめたまま小さく笑った。
「そうだね……そんな恰好でふらふら出歩いて僕の理性を試しているのなら、それは良くないな」
「はい?」
 頭の中をクエッションマークで満たしたレイに、邑悸は苦笑したようだった。
 レイだけでなく、その人生のほとんどをARMADAA内で過ごしてきた「BGS」は、世間というものをあまりにも知らない。その知識とは不釣り合いに、常識はかなり欠如していることだろう。それで苦労する者もいるかもしれないけれど……。
 今日出会った春樹の眼差しを思い出す。彼はきっと、硫平の良き友人になるだろう。可愛らしい妹も硫平を慕っている。まだそれが恋と呼べるものかどうかはわからないが──大丈夫。硫平には手を差し伸べる相手がいる。伸ばした手を受け止めてくれるひとがいる。
 そして僕の相手は、ここに。
「レイ。こっちを向いて」
 レイが素直に顔を上げる。その瞳に自分がうつっていた。自分でも驚くほど、しあわせそうな笑みを浮かべて。
 彼女の唇に、己のそれを寄せる。彼女は自然に目を閉じた。その仕草に心をときめかせながら、邑悸は常になく深く唇を合わせた。いつもの啄ばむような軽い接触ではなく、花を貪るミツドリのように――その甘さを、味わう。頭がぼうっとするほど、心地良い。このまま、彼女と溶け合ってしまうことができればいいのに……。
「……っは」
 名残惜しげに唇を離すとレイの体から力が抜け、彼は慌てて彼女を支えた。レイは真っ赤な顔で息を切らしている。
「大丈夫?」
 間の抜けた質問だった。だがレイは目を逸らして首を横に振り、つぶやく。
「た……たてません……」
「……か」
 ――かわいい。邑悸はその言葉を飲み込み、極上の笑みを浮かべてみせた。
「じゃあ、僕が運んであげよう」
「え?」
 レイを横抱きにしてかかえる。彼女は驚いたように小さく悲鳴を上げたが、おとなしく彼の腕に体を預けた。
 彼女を抱いたまま足を自室に向け、邑悸は囁いた。
「ずっと、一緒にいようね」
「え?」
「約束して。ずっと、僕の側にいるって」
 レイは真っ赤な顔で、それでも真面目な表情になってうなずいた。
「……はい」
「ずっとだよ?」
「……ええ」
 邑悸が何のつもりでこの言葉を発しているのか、レイはちゃんと理解しているのだろうか。邑悸は少し疑問に思いながらも、彼女が迷うことなく頷いたという、その事実に満足した。
「好きだよ」
 厳かに告げる。
「……邑悸さん」
 レイは目を大きく見開いて彼を見つめた。
「君のその強さも、優しさも、全部」
 かけがえのない、愛しいもの。
「レイ」
「はい」
 邑悸はそっと、囁いた。
「……ありがとう」
 伸ばした手をつかんでくれたのは、レイ。そして、一度は生きることを諦めかけた自分に温かな未来を与えてくれた。だから……。
「僕はみんな、君のものだ」

 レイ=白瀧。これからの世界の行方は、彼女の手に委ねられているのかもしれない──。