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第四章

  1
  
 取り残された春樹とリィ、そしてキラの三人は誰ともなくため息を吐いた。
 春樹は無言でリィに銃を差し出し、彼女もまた黙ってそれを受け取る。キラの目に触れさせたくないかのように、彼女はそそくさとそれを仕舞い込んだ。
 キラが躊躇いがちに口を開く。
「レイちゃんって、きっと……その、ええと、誰だっけ?」
 首を傾げる彼女に、春樹は助け舟を出した。
「邑悸=社、か?」
「そう。その人。その人のこと、大好きなんだね」
 幼い彼女は、正確に事態を把握している訳ではないのだろう。キラは屈託なく微笑んだ。
「そういうもんかね」
 リィは苦笑する。
「少しやり過ぎた。すまん」
「それにしても、あの男の目的は一体何だ? そもそもその格安ドラッグだが、一体どういうものなんだ? 今までのものと同じとは考え難いだろ?」
「さあ……そういう薬品の成分なんかを調べるのは、私には無理だ。やはり専門の技術を持った者でないと」
「そりゃそうか……」
 春樹の脳裏に、那岐の顔がふと浮かんだ。――あの男なら、もしかして……。
「ま、最悪帰ってきた硫平をとっちめればいいさ」
「硫平を?」
 春樹はあっけらかんと言った。
「そりゃ、あいつら任務を終えたらきっと邑悸=社本人に確かめてくるに決まってる。なら、硫平に聞けばいいじゃねえか」
「……そうだな」
 諦めの表情でリィが呟く。何といっても、春樹は硫平を信頼しているのだ。リィには、そこまで彼を信じることはできない。それが「BGS」への差別なのかと問われると、自分でも分からない。どちらかというと、ARMADAへの不信感のような気もしているのだけれど。
「りゅうちゃん、怪我しなきゃいいんだけど」
「お前な……」
 あくまでマイペースに硫平を気遣うキラに、春樹は脱力して肩を落とした。

  2

 軍用車はほとんど揺れることなく、郊外の悪路を走っていた。
 制服に着替えた硫平は、狭い内部を仕切っていたカーテンを引いた。前方の席に座って俯いているもう一つの制服は、全く身じろぎもしない。気付いていないのだろうか。硫平は多少わざとらしく咳払いをした。人影ははっとして体を起こす。ようやくレイの顔が見えた。
 硫平は歩み寄り、彼女の隣に腰を下ろした。
「大丈夫か?」
「……何がですか?」
「さっきの」
 ドライバーの耳を気にして、硫平は言葉を濁す。レイも察したのか、口を噤んで下を向いた。
「…………」
 ふと、レイの握りしめられた拳に硫平の視線が向いた。――そんなにショックなのか。口をついて出そうになった言葉を、彼は無理に飲み込んだ。
 確かに自分も驚いたし、ショックだった。だがまだ自分の目で真相を確かめた訳ではないし、邑悸の口からそうと聞いた訳ではない。まさか、ARMADAがドラッグをばらまくなど……信じられない。レイもそれは同じだろう。では、彼女は一体何をそんなに思い悩んでいるのか――。
「お前さ……」
 硫平は小声で話し掛ける。
「あんまり悩むなよ」
「……はい」
 レイは顔を上げた。だが顔色は傍目に見ても悪い。
 硫平はため息をついた。
「邑悸さんは」
 その名前が出た途端、レイの肩が小さく跳ねた。硫平は敢えてそれを無視する。
「情報だって知識だって……判断力だって……当たり前だけど、俺たちとは比べ物にならない。そうだろう?」
「はい」
 レイは頷く。
「だったら、あの人にはあの人なりの判断がある、それは俺たちには分からないことだ」
「はい……分かって……ます」
 また、レイが俯いた。
「…………」
 硫平は少し眉を寄せ、不意に思い当たって息を飲んだ。まさか、レイは……。
「レイ、お前……邑悸さんと、何か」
「違います!」
 レイは勢い良く否定した。照れ恥じらっているような様子ではない。真剣そのものだった。レイの瞳が真っ直ぐ硫平を射抜く。その色は、濡れたような黒――邑悸と、同じ。
「そういうのじゃ、ないんです」
 噛み締めるように言う。
「まだ俺、何も言ってなかったけど……」
 硫平は苦笑いしつつも、軽く両腕を上げて降伏を表明した。これ以上彼女の感情を逆撫でてはいけない。そう思った。それにしても、彼女がこんな風に感情を顕にするのは珍しい。
 レイは口を噤み、再び視線を外に向ける。窓の向こうには、廃墟のような街並みが流れている。
「…………」
 硫平は頬杖をつき、彼女を横目で見遣った。――本当のところ、どうなのだろう。硫平は思う。レイは、邑悸をどう思っているのだろう。
 実際のところ、邑悸に憧れにも似た恋心を抱く「BGS」の少女は多い。整った容姿に明晰な頭脳。そして「BGS」を人間と認め、優しく時には厳しく導き、庇護してくれる唯一の存在。
 硫平だって、邑悸には憧れている。まるで、年の離れた兄のように感じられる時すらあるほどだ。それは、あのカイルとかいう男が言うような洗脳では決してない。そんな安っぽい手段で得られるような、これはそんな感情ではない。
 きっと他人には分からない、自分たちと邑悸が重ねてきた歴史。泣いていた彼を慰めてくれた日もあったし、失意に落ち込んだ時は励まされたり、叱咤されたりもした。初任務を遂行した時、ほっとした顔で暖かく迎えてくれたことはきっと忘れない。――どの「BGS」も、それぞれが彼との思い出を持っていて、そのどれもがとても大切なものだ。それは人間として、自分が重ねてきた人生の証だから。その気持ちは、男も女も変わらない。
 とはいえやはり邑悸は男性で、同性である硫平の目から見てもとびきり魅力的だし、しかも独身で、見たところ恋人もいないらしい。硫平の同僚の少女も幾人かは、邑悸に熱を上げていた。
 だが、邑悸はそれら全てを優しく拒む。
 硫平の同級生だったリサ=ジョーンズは、その失恋の経験をこう語った。
「邑悸さんにどう言われたかって? そうね、いつも通りに優しい声だったわ。『君の気持ちはとても嬉しいよ。だけど、君が知っている僕は、僕の一部に過ぎなくて、それはとても少ない。だから判断するには足りないと思うんだ』だって」
 すらすらと諳んじてみせ、リサは少し寂しげに微笑む。
「『そして、君と僕の距離がこれ以上縮まるとも思えない。何故なら、僕は君との今の距離にとても満足しているから。君は違う?』……って、こう言われたらね」
 それを聞いたときの硫平には、邑悸の言葉の意味が良く分からなかった。けれど、今なら少し判る気がする。
 もしかすると、邑悸は他人と必要以上に近づくことを恐れているのかもしれない。
 何故なら、レイがそうだからだ。恐れている、というのとは厳密には違うかもしれない。だが、レイは他人との距離の取り方が分かっていないように思われる。ありていにいえば、不器用なのだろう。
 今は亡き椿=水沢との間柄もそうだった。彼女が喋り掛ければきちんと言葉を返すのに、なかなか自分から心を開かない。
 キラや春樹たちとの関係も同じだ。彼らが少し踏み込もうとすると、彼女は少し寂しげに笑って、自分から遠ざかる。リィにあからさまな敵意を向けられても、強張った無表情を返すことしかできない――邑悸のこと以外は。
 邑悸の印象は不器用とは程遠い。何事もそつなくこなすし、人当たりも柔らかい。けれど、何故かレイを見ていると邑悸を思い出すのだ。何故だろう。
「着きましたね」
 いつの間にか、軍用車は停まっていた。
 レイの声に、既に曇りはない。
「ああ」
 硫平は頷く。
 ――とにかく、今大切なことは……。
「生きて帰らないと」
 呟きは、かすれて消えた。
 
 
  3
  
 アレックスと邑悸は、既に面識がある。四大企業サミットで幾度か会っているからだ。
 ARMADAのトップは邑悸ではないのだが、ここ二三年、彼は常にそういった席にARMADAの代表として出席していた。「BGS」を擁するということはそれだけの力を得る意味を持つのだ、とアレックスは解釈している。誰もが同じように思っていただろう。弱冠二十七歳の男が、世界を四分割して支配する規模の大企業を牛耳るなど、考えられないことだ。
「お待たせ致しました」
 豪奢な応接室の扉が開き、邑悸が姿を見せる。その背後にいる見慣れない男は誰だろう? アレックスの視線に気付いたのか、邑悸が微笑んで男を紹介する。
「彼はうちの研究所の現所長で、一貴=斗波といいます。同席をお許し願えますか?」
「勿論です」
 この場合に、それ以外どう答えようがあるというのか。
 アレックスは椅子の上で小さく身じろぎした。邑悸という男には、何度会っても落ち着かない。彼の容姿が、驚くべき速さでARAMADAの上層部に上り詰めた辣腕の男、というイメージとはかけ離れているせいかもしれない。今も、少し長めの柔らかそうな前髪を左右に分け、仕立の良いダーグブラウンのスーツを着こなし、穏やかな笑みを浮かべている。様々な策を弄し、自分をDOOMの最高幹部の座から引き摺り下ろしたのがこの男だとは……。
「それで、どういったご用件でしょうか?」
 アレックスははっと我に帰り、口を開いた。
「実は、今日は教会を代表してお願いにあがったのです」
「教会がARMADAに、ですか」
 邑悸の表情が変化した。どこか、面白がっているような不遜な笑み。
「僕のところにいらっしゃるということは、『BGS』絡みのお話でしょうけれど……。教会とARMADAの方針は決して相容れないものだと思っておりましたが?」
「ええ……。ですが、状況は刻々と変化していますのでね。教会も、変わろうとしているのです」
 アレックスは額に零れかかった金髪を手で払った。
「私の申し上げる考えが、今の教会で大勢を占めている。そうお考えいただいて結構です」
「ふむ……」
 邑悸の瞳が薄く眇められた。恐らく、彼の頭脳の中に納められている情報の数々と照らし合わせて、アレックスの言葉の真偽を確かめようとしているのだろう。そうしているときの彼の目は底冷えのするような光を湛えていて、この男の計算高さの片鱗を窺わせているようだった。
「率直に申し上げます」
 アレックスは全てを振り切るようにして、口を開いた。
「ドラッグの徹底回収、それから……」
 溜まった冷たい唾を飲み込み、続ける。
「『BGS』への『SIXTH』組み込み技術の開発です」
 一貴は大きく目を見開き、邑悸は一層笑みを深める。対照的な反応を見せる二人を目の前に、アレックスはぐっと歯を食いしばる。今、引くわけにはいかない。
 自分のために。そして、カイルのために――。