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第十章

  1
  
 キラが食器を洗っている水音が、かすかに聞こえていた。
 硫平の不機嫌な顔をちらりと見て、春樹はため息をつく。もう辛気臭い顔はいい加減にしろ、と言いたくなるのをぐっとこらえた。彼の気持ちも分からなくはないからだ。
 どうやらあの任務以降、邑悸には会えないままであるらしい。春樹にはよく分からないが、邑悸が多忙であろうということくらいは容易に想像がつく。何と言っても彼は世界を統治している大企業の超重役であり、そして今、世界規模での混乱を巻き起こしている、まさに中心人物なのだから。
 世界は、激動の時を迎えていた。後に、「BGS」ショックと呼ばれるようになる騒動である。
 「SIXTH」には殺人抑制機能はなく、むしろ神経毒性によってひと本来の持つ身体能力、精神能力を抑制している可能性が強い。ARMADAの発表による混乱はわずかに沈静化の兆しを見せつつも、依然おさまることはなかった。ARMADA開発のドラッグの普及率は既に八十パーセントを超えた。後は徐々に百に近づいていくだけであろう。
 アレックスを代表とする教会は声明を発表した。「これは試練である。ひとは自分の力で『SIXTH』を――本来十戒の六番目であったそれを、守り抜かねばならない」と。既にアレックスと邑悸が協力関係にあることは自明のことで、CROMやBUIS、ましてやDOOMに異を唱える力など残されているはずがなかった。
「俺さあ」
 硫平がぼそりと呟いた。
「何だよ?」
「ARMADA出ようかな」
「は?」
 春樹は彼の意外な言葉に、ソファから身を起こした。
「何でいきなり?」
「いや……」
 硫平は苦笑を浮かべる。
「だってさ、もう『BGS』かどうかなんて意味がないだろう? 誰にだって人は殺せるんだ。だったら俺らがARMADAに閉じこもってる意味もないんじゃないかなってさ」
「うん、まあ確かにな……」
 春樹は眉をひそめてあいまいにうなずいた。もしかすると硫平はここに住み着くつもりだろうか。別にそれでも良いとは思うが……。
「結局何がやりたいんだ? 邑悸って男は」
「俺にもわかんねえよ」
 硫平はぶっきらぼうに吐き捨て、ふと真顔に戻る。
「けどさ。邑悸さんのやったことって悪いことなのかな」
「え?」
「俺はそうは思わない。別に『SIXTH』が否定されたからって皆が殺人鬼になるとは思えない。神経毒性のある遺伝子なんて、取り除かれるに越したことはない」
「遺伝子ってどうやって取り除くんだ?」
「お前、テレビ見てないのか」
 心底不思議そうな硫平の顔に、春樹は意味もなくふんぞり返った。
「俺はお前みたいに教育受けてないの。見たって理解できるかよ」
「あ、そう……」
 硫平は軽く頭を掻いた。
「簡単に言うとな、『SIXTH』を今ある場所から別の無害な遺伝子で押し出して、ひとの染色体上から追い出してやるってことだよ」
「わからん」
 きっぱりと言い切る彼に硫平は当惑の表情を浮かべる。わからないことがわからない、とでもいうような顔だった。
「ひとの遺伝子が四十六本の染色体の上に乗ってることは知ってるか?」
「聞いたことがあるような気もする」
「それは良かった」
 硫平はため息をついた。
「その四十六本の染色体は、そもそも一本のひも状のDNA分子でできている。そこに遺伝子がとびとびに連なっているんだな。それぞれの間は特に意味のない配列や遺伝子の調節をする、スイッチの役割をする配列なんかで埋まっている」
「ふ、ふうん」
「『SIXTH』は元々その特に意味のない部分を押し出すようにして組み込まれた遺伝子だ。組み込み方の説明は面倒だから省略。分からなかったらビリアードを思い出せ。正面から衝突させると、手玉は止まって向こうは動いていくだろ? そういう感じだ」
「そうなのか?」
 春樹は首を傾げる。硫平はもはやそれを無視した。
「ひとは遺伝子を各二組ずつ持っているから、本来『SIXTH』は両方に埋め込まなければならない。でも、たまに片方だけに『SIXTH』を持つ人もいた。『BGS』は建前上常染色体劣性遺伝とされているから、まあ片方でもいいんだ。でも、そういう人同士が結婚すると子供に『BGS』が生まれることがある。確率は二五%」
「それは分かる」
「じゃあ『BGS』同士が結婚して、一般人が生まれることもある理由は分かるか?」
 春樹は少し考え、やがて首を横に振った。硫平は頷く。
「当たり前なんだ。本来あり得ないからな」
「どういうことだ?」
「からくりは、『BGS』と判定する基準にある」
「基準?」
「一般人と『BGS』を分ける基準だよ。新生児検査をやってるだろうが」
「それは知ってる。でも、からくりって……」
 硫平はソファに深く腰掛けた。
「『BGS』の中には『SIXTH』自体は持っている者もいるんだ。ただ、場所が変わっていたり、部分的に変異したりするみたいなんだな。そういうのも、検査では『BGS』と判定されるから……」
「…………」
「それが子供に伝わる時点で元に戻ることがあるって訳だ」
「ああ、うん、もういいや」
 春樹はそう言って軽く手を振った。
「無理」
「お前が質問したから答えたのに……」
 むくれる硫平を横目に、春樹はあっさりと話題を変える。
「で? この後お前らってどうなる訳?」
「当分はARMADAを離れられないだろ。最低限、この騒動が落ち着くまでは」
 実際、ドラッグ出現以降確実に治安は悪化している。最近はゲリラが身を潜めただけましになったようにも思われるが、治安維持の要である「BGS」チームが解散するわけにはいかなかった。
「でも、その後は……」
 期待に満ちた硫平の目。だが春樹は疑問だった。――折角集めたエリートである「BGS」を、「あの男」が簡単に手放すのだろうか?
「こ良かったんじゃないかな」
 硫平はぽつりと呟いた。見返す春樹に、硫平は視線を合わせる。
「『BGS』は社会で生きていけない。生きていこうとしても迫害されるだけだ。けど、企業が保護したらしたで危険視されるだろ? また別の企業が対抗して新たに『BGS』を集めてみたり、ドラッグみたいなものを作ったり。結果的に『BGS』が殺し合って、殺されて……一般人を巻き込んだ大騒動に発展する。この事態に一体どう収拾をつける? 原因は『SIXTH』だろ? これがなくなってしまえば一般人も『BGS』もなくなる。今の騒ぎはいずれ収束する」
 春樹は頷くしかなかった。反論できる材料がない。――しかし……。
「殺人は、増えるんだろうな」
 春樹の呟きに硫平は苦笑した。
「増えるかもしれないけど、それに対してはまた法が整備されて、裁かれることになるさ」
 硫平が大きく伸びをして立ち上がった。春樹もため息とともに同意する。
「そう――だな」
「でも……きっと」
 硫平は独り言のように言った。
「『BGS』への差別は、しばらくなくならないんだろう。本当に『BGS』が自由になるのは、もっと先の話だ」
「何で?」
 不思議そうに尋ねる。硫平は何度目かの苦笑を浮かべた。
「『BGS』の身体的、精神的な優位性が科学的に証明されちゃったじゃないか」
「それがどうかしたか?」
「結局『BGS』は一般人とは違うんだ――反感を持つ人は結構いると思うけどな」
「そうか?」
 春樹はあっけらかんと言う。
「別に、『SIXTH』が取れたら俺たちも追いつけるんじゃねえの? 良かったじゃねえか」
「…………」
 硫平は少し驚いたように目を見開き、やがてくすりと笑った。
「そうだな」
 確かにその通りだ。時間がかかっても、必ず「BGS」と一般人の差は縮まっていく。いずれ、境目などなくなる。春樹はそれを待てば良いという。その通りだと硫平も思った。だが、そう上手くいくだろうか……?
 ――春樹は単純な男だ。硫平は思う。実際、誰もが彼のようならどれほどいいかと何度思ったか知れない。春樹は、信じている。根本的に、人間というものを信じているのだ。
 たとえば、邑悸さんは――誰かを信じているんだろうか?
 ふと、硫平の動きが止まった。
「どうした?」
 春樹の声に、硫平は首を横に振る。
「何でもない」
 ――俺は、信じている。硫平はそう自分に確かめた。春樹のことも、キラも、レイも、そうだ……リィも。もちろん、邑悸さんのことも。だが、あの人はどうだろう?
 硫平ははっと顔を上げた。もし、彼が人間を信じていないのにも関わらずこの決定を下したのだとしたら。「SIXTH」を無効化してしまうような決定を下したのだとしたら。邑悸は、人間が殺人能力を手にすることを望んでいるのだろうか――そして、それを行使することをも?
 慄然とする。
「……まさか……な」
 硫平は胸に生まれた可能性を必死で打ち消した。

  2
  
 カツン、カツンと床に靴音が響く。アレックスは注意して階段を上っていった。
 ここはカイルが作り上げたゲリラの拠点のうち、既に廃棄されたところだ。突然カイルからコンタクトがあったかと思うと、この場所を指定された。一人で来るように、との但し書きをつけて。
 アレックスはため息をつく。彼を、自分が本当に説得できるのだろうか……?
「随分と僕を探し回っていたようですが……今更、何の用です?」
 開いた扉の奥、いつのまにかカイルが立ってこちらを見下ろしていた。翡翠色の瞳に狂気が透けて見えるような気がして、アレックスは小さく身震いした。その恐怖感を押し殺し、声を出す。
「お前も聞いただろう。ARMADAの発表を」
 彼が部屋に入ると、扉は自動的に閉まった。
 ――既に人類から「SIXTH」は取り除かれつつある。端的に言えばそう言うことである。実際にどうやってそれが成し遂げられたのか、遺伝子工学そのものについてはさほど専門的な知識のないアレックスには良く分からなかった。わかったのは、おそらくこの展開も邑悸が用意したものなのだろうということ。
 ――だが……。アレックスは嘆息した。意外なほどに自分は動揺しなかった。むしろ、どこか安堵すら覚えた。それはおそらく教会の他のメンバーも同じであろう。
 しかも、それは一般人についても同様であるようだった。今までドラッグに決して手を出そうとしなかった者たちも、諦め半分で服用をはじめた。元々人間はそうできていたのだ。今までが不自然だったのだ。それだけのこと。
 今更だ。カイルが言ったように、何もかもが今更なのだ。
「これからの社会で、教会の示すモラルは大きな意味を持つことになる。企業側と教会はその点で一致した」
 アレックスの言葉に、しかしカイルは無反応だ。殺風景な部屋に、ブライドの下ろされた窓からそれでもかすかに陽光が届いていた。
「お前を、教会は求めている。お前の破門を撤回した」
 ようやくカイルは目を上げる。優しげな色が浮かんでいた。
「……貴方の差し金ですね? 貴方は、優しいから」
 カイルは口を開き、そして微苦笑を浮かべた。
「まったく、とんでもないことになってくれました……。これではもう私の理想は叶うべくもない」
「…………」
「何故です? 何故こんなことになった?」
 いったい誰に尋ねているのだろうか。カイルの翡翠の眼はアレックスを見ず、虚空をさまよっていた。
「私は……誰にも人を殺して欲しくはなかったし、誰かが誰かを傷つけることも嫌でした。神が不可視の存在である以上、誰かがその意思を代行しなければならない。企業に任せることができないのなら、それを私がやろうと思った」
 淡々とした口調の中に、熱情が見え隠れする。
「私情を抑える自信はありました。貴方も――側にいてくれましたし」
 そう言って再びアレックスを見つめる。その瞳は、昔見たままの綺麗な色だった。
「けれど……」
 暖かな眼差しは、一転して暗い氷の中に閉ざされる。
「その理想は足元から崩れた。まさか、『SIXTH』の効き目が嘘っぱちだったとは。そしてそれをあの男に――暴かれてしまうとは」
 寂しげに微笑して、カイルは肩をすくめた。
「仕方ありません。人の選択が、そうなのであれば――神を信じず、人を信じず、自らの身は自らで守るのだと……たとえそのために他人を傷つけることになったとしても、それでいいのだと……エゴを捨てずに生きるのだというのであれば、仕方ありません。これ以上私たちが活動を続けたところで、理想には近づけないでしょう」
「なら、戻ってきてくれるのか?」
 アレックスは一段一段、階段を上っていった。カイルはその足元をじっと見ている。
「教会に戻ってくれるか? いや、お前が司教などやりたくないというのならそれはそれで構わない。だから……」
「いいえ」
 カイルはアレックスの元に近づき、彼の肩にそっと手を置いた。

「何をどうしようと、私は『BGS』なのですよ」

 薄い唇をすべりでたその単語に、アレックスは口元を引きつらせる。
「今更、『BGS』かどうかなど……!」
「ええ。今更です。何もかもが、今更」
 カイルは苦笑のような微笑を浮かべた。
「でも、それは私の背負ってきた十字架なんですよ」
 自分の手で自分の胸元に手をやる。服の下に隠れた場所、そこには焼印がある。教会の聖職者たちによって押された、十字架の焼印だ。泣き叫ぶ赤子に振り下ろされた、真っ赤な焼きごて――。
「教会の者たちは私が『BGS』であることを隠して育ててくれましたが、いつだって私の頭にはそのことがあった。怖かったのです、私は。……自分が、怖かった」
 昔、泣き虫だったカイルの面影がそこにはあった。
「ひどく腹が立つと、『殺してやりたい』と――『消してやりたい』と、そう思うこともあります……そして私ははっとするのです。私はやはり、咎人なのだと――自分にひどく怯えた。私は化け物なのだ。人間ではないのだ。そう思っていた」
 おそらくは他の「BGS」にもある経験に違いない。カイルはたった一人でそれと向き合い、苦しみ、もがいてきた。。
「だから、私たちは何かに縋りたくなる。私は神に――神の戒律に触れることで、自分を律する術を覚えました。今は『BGS』はARMADAの元にあり、それに縋っている。いえ……」
 カイルは首を横に振った。
「むしろ、邑悸=社という男個人に、かもしれません」
 アレックスは眉をひそめてカイルを見た。
「何故、お前はそう拘るのだ? あの男に」
 カイルは異常なまでにあの男を眼の敵にしているような気がする。面と向かってはほとんど話したこともないはずの、あの男を。
 カイルは微笑を消した。きつく顔をしかめて答えようとしない。アレックスはため息をついた。きっと、彼を答えさせることはできないだろう。
 カイルは少し目を細め、別のことを呟いた。
「あの男はいったい何に縋って生きているんでしょうね? 私はそれが知りたい……」
 そして、アレックスに向き直る。
「すみません、アレク。私は貴方の側には戻れない」
「何故だ」
 カイルは眼を上げてアレックスを見つめた。
「どうしても――殺したい人がいるんです」
 ほとんど唇を動かさずに囁く。
「あの男がこの現実を導いたのだから……殺されたって文句は言えないでしょう。人を殺せる世界というのは、つまり人が殺される世界という意味なのですから」
 アレックスははっとした。
「カイル……!」
 その肩に手を伸ばそうとするが、彼が一歩身を引いたためにその手は空を切る。カイルは笑った。
「止めないでくださいね。それに、貴方だって彼がいない方が今後やりやすくなるでしょう」
「お前は……!」
 不意に、カイルが動く。同時にアレックスのみぞおちに激痛が走った。
「ぐ……っ」
 そして、カイルのこぶしが引き抜かれる。
「すみません」
 咳き込みながら倒れたアレックスの側にカイルは膝を付き、その手の甲に恭しく唇を寄せた。
「どうしても、貴方には邪魔されたくない」
 最後に――もう一度彼の顔を見た。誰よりも仲の良かった従兄弟の、そしてかつての同志の顔。自分の半身。誰よりも優しく、正しく、真っ直ぐな男。
「私は、貴方に……近づきたかった」
 カイルは静かに囁く。自分を律するため。弱い自分を律するために戒律が欲しかった。それを、あの男は取り払ってしまう。いともやすやすと。――それならば、私も己の望みのままに振る舞おう。
 どうせもうアレクの側にはいられない。側にいる資格などない。
「――殺してやる」
 カイルは呟き、立ちあがった。