第十二章
1
そろそろ家に戻りたい、と言うとあっさりと許可が出た。もう自分の利用価値はないということか、と那岐は自嘲気味に思う。「臆病者は必要ないからですよ」――そう言い切った邑悸の顔が浮かんだ。
ARMADA本社と市街地とを結ぶバスターミナル。那岐は下町方面へと向かう、唯一の系統の乗り場に向かった。ベンチには誰もいない。そもそもバスでARMADAを訪れる者など、ほとんどいないだろう。本社社員のほとんどは敷地内に住んでいるし、「BGS」たちが任務に出る時は専用のモビールを使う。当たり前だが邑悸や一貴がバスに乗るはずもない。せいぜいが何かどうしても親会社を訪れる必要に迫られた子会社、孫会社の社員たちくらいか。
時刻表と時計を見比べると、バスの到着まであと二十分ほどあった。使う者がいないので運行本数も少ないらしい。
ベンチに腰を下ろした那岐は、少し離れた乗り場に人影を認めて目を細めた。少年と、その両親であろう男女。女性は赤ん坊を腕に抱いていた。
「……あれは……」
那岐は小さく呟く。その少年に、彼は見覚えがある。だが、かつてはあんな風に笑ってはいなかった。強張った頬と見開かれた目。音を発することを忘れた唇は色を失っていた。
大量殺人事件の唯一の目撃者、ロベルト──。
少年が振り向き、那岐に気付いてあっ、という顔をした。自分に出会ったことで嫌なことを思い出さねば良いが、と思う。
ロベルトは側に座っていた父親らしき男に耳打ちをした。彼もまた自分を見て、立ち上がる。どうやら彼の目指す先には自分がいるようだ、と気付いて那岐は困惑した。
「…………」
どうしたものかと思案しているうちに、男は那岐の目の前で立ち止まる。
「ルイス=ヴィクトルです。以前、息子がお世話になったそうで」
「あ、いえ」
那岐は慌てて立ち上がって会釈した。ルイスはひどく長身で小柄なロベルトとは一見印象が異なるが、その金髪と青い目は瓜二つであった。
「私は、何も……。ともあれ」
那岐はロベルトの方へ視線を向けた。母親の腕に抱かれた赤ん坊の頬を触り、楽しそうに笑っている。
「あんな風に笑えるようになって、本当に良かった」
「…………」
ルイスは少し目を伏せた。
「私たちが軽率なことをしたばかりに……あの子にはかわいそうなことをしました。とんでもない恐ろしい目に遭わせてしまった……」
言って、言葉を詰まらせる。
「あの事件のことは」
那岐はためらいがちに口を開いた。
「どこまでご存知なのですか?」
「多分、ほぼ全てを」
ルイスは言う。
「今日、ARMADAから『BGS』を家庭に引き取っても良いという許可が出ましたね。うちにも連絡があって……」
ルイスは驚きましたよ、と呟く。
「教会に預けたはず。そう思って来てみたら、ARMADAのスタッフの方が経緯を説明して下さいました」
「そうですか……」
「僕も妻も卒倒しそうでしたよ。ロベルトを少しでも幸せにしたくて、ARMADAではなく教会を選んだのに……」
言葉を切り、首を振る。
「いや、一度は彼を捨てた私たちに、何も言う権利はありません」
「…………」
「今年、二人目が生まれましてね」
ルイスは目を細めて家族の方を見つめた。
「キャロルは、ロベルトが生まれたばかりの頃にそっくりなんです」
「…………」
「昨年、妻が妊娠したと分かった時、嬉しかった。でも同時に怖かったんです。また……」
うつむいて首を左右に振る。
「子供が『BGS』だったらどうしようかと」
那岐は黙ってルイスの横顔を眺めていた。
「悩んだ挙げ句に、僕らは気付きました。我が子を授かる喜びに、『BGS』も何も関係がないんだと。ロベルトが生まれた時だって、あんなに嬉しかったじゃないか……って」
──少し気付くのが遅すぎましたけどね……。ロベルトを見つめながらルイスは言う。
那岐はゆっくりと口を開いた。
「遅くなどありません」
「……え?」
ルイスが振り向く。その顔は本当にロベルトに良く似ていた。那岐は微笑む。
「貴方たちは、ロベルトと生きることを選択した。何も遅くなどない。その証拠に」
那岐はロベルトを指差した。母親の肩にもたれて空を見上げている少年。彼はどう見たって──。
「幸せそうじゃないですか」
「…………」
那岐はルイスの方を見なかった。小さな嗚咽が聞こえる。
──すみません。那岐は胸のうちで謝罪した。──俺はこんな偉そうなことを言っていい人間じゃないのに……。
自分があの時自分の研究を発表していたら、どうなっていただろう。非難を浴びたかもしれない。権威ある学者たちによって、一言の元に切り捨てられたかもしれない。だが、もしかしたら──ロベルトはあんな目に合わずに済んだかもしれないのだ……。
「ありがとう」
ルイスの言葉に、那岐は驚愕に満ちた視線を返す。ルイスの目は、赤かった。
「ありがとうございます」
「……礼ならば」
那岐はのろのろと言った。
「邑悸=社氏に言わなければ」
──世界を変えたのはあの男なのだから。臆病な自分にはできなかったことを、彼はやり遂げた。
「口さがない人々はあの人を『悪魔』だなどと言いますが」
ルイスは微笑する。
「私たちにとっては『英雄』ですよ」
「…………」
那岐が何か答えるより先に、停留所にバスが到着した。ルイスに会釈し、那岐はタラップを上る。
──「英雄」か、「悪魔」か。座席に腰掛けた那岐は、身じろぎもせずに窓の外を去り行くARMADAの景色を眺めていた。
2
ちょうど一貴が邑悸のオフィスの扉を開けたとき、部屋の中から銃声がした。
「邑悸?!」
仰天して部屋に駆け込むと、邑悸が神妙な顔で銃を構えていた。だが、それは人間に向けられていたものではない。無造作に机に置かれていた一枚の光学ディスク。特殊処理をされている机には傷ひとつついていないが、ディスクは木っ端微塵に割れていた。
「どないしてん?!」
「一貴」
邑悸は銃を降ろし、表情を緩めた。
「ほんま、びびらせんといてや……」
ずるずると座り込む一貴に、邑悸は笑う。
「ごめんごめん。僕が誰かを殺したと思った? それとも、僕が殺されたとでも思ったかい?」
「お前が」
一貴はきっと眼差しを鋭くした。
「怪我でもしとったらどないしようかと思てん」
「心配してくれたのか」
「当たり前やろ!」
邑悸は眉と唇を微妙に動かして複雑な表情を形作ったが、すぐにそれも消えていつものつかみ所のない笑みだけが残った。
一貴は机の上の残骸を見遣る。
「で、あれは何や?」
「あれはね、僕の母親の遺書らしいよ」
「遺書……?」
あっさりと告げられた言葉に、一貴は息を呑む。
「匡子伯母さんが持ってきたのさ。けど、まあ……見るのも見ないのも自由って言われたからね。見ないでおこうと思って」
「何でや? お前……知りたないんか? お母さんがほんまに思ってたこと……」
邑悸はふ、と小さく笑った。
「知ってどうなる? それに、それが本当のことだって誰に分かるんだい? ひょっとしたら嘘かもしれない。また、彼らは僕に嘘をつくのかもしれないじゃないか……」
そう言われてしまうと、一貴には何も言えない。しかし彼は小さく抗議した。
「そら、そうかもしれんけどな……」
邑悸は破片を眺めながら、複雑な微笑を浮かべていた。
「それにね。もし本当のことだとしても、それを知ったところで今更何が変わるんだ? 彼らはもう死んでるんだ。いや……」
敢えて一度言葉を切り、言い直す。
「僕が、この手で殺したんだよ。それは何がどうあっても変わらない。それは僕が一生背負わなければならない罪なんだ」
邑悸はやがて、窓の方をふらりと眺めやった。
「それにね……結局は今更のことだよ……」
「邑悸……」
一貴はやりきれない気持ちで目を伏せる。その耳に、小さな連続音が聞こえた。
「雨だね」
邑悸がぽつりと呟いた。
「せやな……」
意味のない答えを返し、一貴は眼を窓の外へ向ける。突然降り出した雨は徐々に激しさを増しながら、外の景色をけぶらせていた。
3
「雨……」
レイは呟き、自室の窓に近づいた。
雨の日の思い出といえば、一つしかない。レイは笑みを浮かべた。邑悸が自分を孤児院から連れ出しにきた日は、ちょうど雨だった。その頃、「BGS」チームはまだ作られ始めたばかりで、邑悸も今ほどは高い地位についていなかった。
邑悸は探していたのかもしれない。自分の遺伝子を引き継ぐものを……。
「邑悸さん……」
届くことのない呼びかけ。
胸が痛いのは、邑悸が辛い思いをしているからだろうか。邑悸の痛みが、自分に伝わってきているせいだろうか。レイはため息をつく。
「BGS」チームはいずれ解体される。そうなったら自分はどうすれば良いのだろう。ARMADAにも残っていないという自分の家族の記録。そもそも、探す気にもなれなかった。
自分を、邑悸さんの両親に売った親。何を考えてのことだったのかはわからないし、彼女自身は親を恨んでなどいない。特に何の感情も湧かない、と言って良かった。だが、自分の親の行動が結果的に邑悸を傷付けることになったのだと思うと、身を焼かれるような苦しみを感じる。
レイは窓ガラスにもたれかかった。
春樹は……自分の身元引受人になっても良いと言ってくれている。硫平はその申し出を受けたと聞いた。だが、レイはどうしても思い切れない。ここを離れたくない。いや――。
「邑悸さんの、側にいたい……」
口に出した瞬間、胸を締め付けられるような痛みを感じて、レイは涙を零す。
――君は、僕を裏切ったりしないよね?
――もっと早く君に近付いておけば良かったかな。
――レイ、目を閉じて。
――ごめんね。
「…………」
レイは真っ赤になって唇を押さえる。あれがキスというものだと気付いたのは、邑悸の姿が屋上から見えなくなってからだった。でも、どうして邑悸は謝ったのだろう。突然キスをしたからだろうか。そのことなら謝る必要なんてないのに……。
「私は」
レイは目を閉じた。脳裏に浮かぶのは、少し悲しげな、それでもいつもと同じ優しい微笑を浮かべた邑悸の顔。
「邑悸さんが、好きなのに……」
認めるより他になかった。自分は邑悸が好きだ。ずっとずっと、好きだった。彼女の願いはたった一つ――邑悸の側にいること。邑悸の笑顔を、あの広い背中を、ずっと見つめていられること。
――それなのに、どうして……。
「まるで、もう会えないみたいに――」
呟いて、レイは息を呑んだ。
――まさか、邑悸さんは……。
4
七年前の、雨の降る日であった。
邑悸=社の訪問を恭しく出迎えたのは、孤児院の院長を名乗る初老の女性であった。勧められたソファに座るや否や、彼は口をきる。
「レイ=白瀧を迎えにきたのですが、彼女は何処に?」
その名を持つ幼い少女は、「BGS」である。乳児の頃に孤児院に預けられ、両親の手がかりはない。預けられた後、彼女が「BGS」だということが判明した――さすがに追い出すこともできず、何とか育ててきた、といったところだろう。
邑悸はARMADAに彼女を迎えるため、この孤児院にやってきたのだった。既にARMADA内での地位を確固たるものにしつつある彼が、何故多忙を押して自ら出向いたのか――誰もが訝しんだのと同じく、院長もまた彼を見て驚いたようだったが、不躾な問いを発しないだけの慎ましさは持ち合わせているようだ。
「先ほどから姿が見当たりませんの。今探させますので、もう少しお待ちを」
「いえ、結構ですよ。僕が探します」
院長は慌てたように、片手を目の前で左右に振った。
「そんな、すぐ見つかりますわ。それほど広いわけでもありませんから」
「いいんですよ。他の子の世話もあるでしょう」
引き止める彼女を振り切り、邑悸は傘を差して裏庭に出た。
――ようやく見つけたよ。彼の口元を、淡く笑みが彩る。
「レイ=白瀧」
――君は、僕の手元にいるべき人間だ。
中庭には誰もいない。裏庭に回ったところで、足を止めた。
雨の中、十歳になるかならないかくらいの少女が佇んでいる。傘も差さずに。足元に転がっているのは、何か生き物だろうか? ぴくりとも動かないところを見ると、死んでいるのかもしれない。
邑悸がゆっくりと近寄ると、はじかれたように少女がこちらを振り向いた。
「……だれ?」
冷えているのか、色の薄い唇がそう尋ねる。邑悸は穏やかに微笑んでみせた。
「僕は邑悸=社。君を、ARMADAに連れにきた」
無表情な黒い瞳が邑悸を映している。
「……そういえば院長先生が言ってた。誰かが私を連れに来るって。今日でこことはお別れだって」
「その迎えが、僕だよ」
少女――レイは、地面に視線を戻した。小さな猫だった。
「…………」
邑悸は無言で近寄り、レイとその小さな死骸の上に傘を差し掛ける。
「……飼っていたわけじゃない」
ぽつり、とレイがつぶやいた。
「でも、私に懐いてた。親はきっと死んでいると思う。一度も見かけなかったから」
レイは、それでこの猫に親近感を覚えたのだろうか。恐らく、レイにはこの孤児院で友人など居なかったに違いない。「BGS」であるがゆえに白い目で見られ、一人で過ごす時間が多かったのだろう。子猫の存在が、彼女の孤独を癒してくれていたのかもしれない。
「この三日間、どこにいるのか分からなくって……いつか帰ってくると思ってたんだけど、心配で。探してたの。そうしたら」
「死んでいた、というわけだね」
「…………」
レイは俯いた。その長いまつげから滴るのは、雨か涙か。邑悸は黙って彼女の側に立ち続ける。
しばらくの沈黙の後、レイはつぶやいた。
「何も……」
そっとかがみこみ、小さな骸に触れる。
「何も、してあげられなかった」
その毛皮にはまだ血がこびりついていたが、大方は雨で洗い流されていた。
レイはその小さな手を伸ばし、傍らから木の太い枝を折り取った。細い枝をはらい、棒を作る。邑悸が見ている目の前で、彼女は黙々と地面を掘り始めた。
「何をしているの?」
「せめて、お墓だけでも作ってあげたくて」
無表情な仮面は動かないまま、レイは手をせっせと動かす。その小さな棒切れでは、その猫が埋まるだけの穴を掘るには随分と時間がかかることだろう。
「そうか」
邑悸は苦笑にも似た表情を浮かべると、傘を地面に置いた。オーダーメイドのスーツが濡れるが、彼は気にも止めなかった。先ほどレイがしたのと同じような方法で、彼女のものよりは少しばかり太い、木の棒を作る。そして、レイの傍らにしゃがみこんだ。
「……?」
怪訝そうな顔で邑悸を見つめるレイに、彼は微笑みかけた。
「手伝うよ」
――思えば、このとき初めて邑悸はレイの瞳を見つめたのだ。そして……その色に自分を見て、どきりとした。深い、何物も映さないようでいて、その実すべてを映しこんでいるような色。闇色の淵。
鏡を見ているような、錯覚。
だが、それは次の瞬間に消えた。――ふわり、とレイが微笑んだから。無表情な仮面が割れて、光が射した。
「…………」
しばらくその表情をじっと見つめた後――邑悸は地面をがりがりと掘り始めた。変な光景だろうなあと思いながらも、手は止めない。
「ねえ、レイ」
振り向いた彼女に、邑悸は話し掛けた。
「さっき、『何もしてあげられなかった』って言ってたね」
「……うん」
「何をしてあげたかったんだい?」
「…………」
レイは手を止めた。
「……最期まで、側にいてあげたかった。あの子はずっと、私の側にいてくれたから」
雨音にかき消されそうな小さな声なのに、邑悸の耳には大きく響いた。
「何もできなくても。せめて、側に」
「…………」
「一人は、寂しいから」
口を結んだレイは、じっと邑悸を見つめた。彼も黙ってレイを見返す。互いの瞳に映る自分を見て――どちらともなく視線を逸らした。
二人はそのまま黙々と穴を掘り、その猫を埋めた。びしょ濡れの二人を見つけた院長が大声を上げて駆け寄ってきたのは、その直後だった。
その子猫の墓には、その後も花が絶えることはなかった。ずっと、ずっと――。