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第十三章

  1
  
 突然の雨だった。外出していた春樹と硫平は傘を持っておらず、足早に帰路を急ぐ。
「近道するぞ」
「ああ」
 硫平の一歩前に出て裏路地へと曲がった春樹が、突然立ち止まった。硫平はその背中にぶつかりそうになり、慌てる。
「どうした?」
「いや、あれ」
 春樹の指先をたどった硫平も、また絶句した。
 ――人が落ちていた。男だ。身にまとうのは白い服。栗色の髪をした、まだ若い男。
「おい、見覚えがあるぞ……」
 硫平がぼそりと呟いた。
「あれは、アレックス……アレックス=テラ=ムードだ。多分、間違いない!」
 ところどころ泥と雨で変色しているが、彼が着ている服は聖服だ。
「怪我してんじゃねえか?」
 春樹は駆け寄り、彼の手首で脈を取った。
「生きてる……けど、ほっとくのはやばいよな」
「俺もそう思う」
「それにしても、何故こんなところにこの男が」
 春樹の腕に抱き起こされた彼の体は、ぐったりと弛緩している。唇を切っているのか、かすかに血が滲んでいた。頬には血色がない。雨も降り続いている。このままではどんどん体温が奪われてしまう。
 春樹は自分の懐から携帯端末を取り出し、硫平に手渡した。
「お前はリィに連絡しろ。いざという時、頼りになる。何か知ってるかもしれないし」
「こいつはどうする?」
「拾うんだよ。ほっとけんだろ。それに……」
 硫平を見つめ、
「いろいろ聞けそうだしな。特に、こいつの従兄弟のこととか」
「従兄弟……か」
 反体制派ゲリラの頭領であり、ARMADAに深い敵意を持っている男。邑悸=社の最後の敵、と言えるかもしれない。カイル=エル=ムード。
「とりあえず、連れて帰るぞ」
「そうだな」
 二人がかりで彼を抱え起こし、春樹の家へと向かった。雨に濡れた体が冷えていくが、彼らは固く口を結んだまま何も言わなかった。
 
 
  2

 ――静かな笑みは、さざなみすらたたない湖面のようだった。
「貴方自らがおいでになるとは思いませんでしたよ」
 不思議と雨の音にも掻き消えない、彼の声。
「それに、僕の居場所が良くおわかりになりましたね。ここはARMADAの敷地内でも随分と外れの方なのに」
 ずっと憎んできた、この男。濡れそぼっている自分に、傘を手に持ちながら穏やかに微笑んで見せている。その余裕が気に入らない。黒いスーツの上に黒いコート。まるで、影のようだ。
「この場所は、彼女と僕が初めて会った場所なんですよ。まあ、ここなら不足はないでしょう」
 自分には良く分からないことを、独り言のように喋り続けていた。
 ――うるさい。耳鳴りがひどくて、歯を食いしばる。うるさい。
「結局、貴方の望みは何だったんですか」
 押し出した声は、彼に届いたらしい。彼は肩をすくめた。
「銃を突きつけての質問が、それですか? 随分下らない」
 ――この男は私を馬鹿にしているのだろうか。
「私には貴方を殺せるんですよ。お忘れにならないで下さい」
 自分の言葉を聞いて、彼の笑みが深くなる。不愉快だった。
「そうでしょうね。貴方は先天的に『そう』なんですから」
「!!」
 心臓が跳ね上がった。
「何故、それを……」
 喘ぐ口元を片手で抑えた。彼は穏やかな表情を崩さない。
「ARMADAの情報網を馬鹿にしてはいけませんよ、カイルさん。ちゃんと……知っていますよ。貴方が『BGS』であること。それも、未登録の」
「く……」
「教会でのキャリアを見ると、当初はかなり冷遇されていたようですね。従兄弟のアレックスさんが随分庇って下さっていたようですが、やはり『異端者』ということで受け入れられなかったのでしょう。神は随分狭いお心をお持ちのようだ」
 その通りだ、と納得しそうになる自分を必死に堪える。
 「BGS」だった自分は誰よりも教典に深く通じ、説教も上手かった。信者の心を掴むことにも長けていた。それなのに教会の中枢であるヨーロッパ大陸には住まわせてもらえず、ずっと極東地区に追いやられていたのは、やはり彼が「BGS」であるからだった。
「貴方の質問に僕がお答えする前に、僕も聞きたいことがあります」
 彼は――邑悸はつきつけられた銃口に臆することもなく、そう言った。
 蒼白なカイルに向けて、尋ねる。
 
「貴方はいったい何に怯えているのです?」

  3
  
 廊下の角を曲がったところで、誰かが一貴にぶつかった。
「何や……?」
 慌てて受け止めると、それはらしくなく息を乱れさせたレイだった。
「こんなところでどないした?」
「邑悸さんは……?」
 彼女は荒い息をつきながら、縋り付かんばかりに尋ねてくる。一貴は怪訝そうに眉をひそめた。
「さっきオフィスで別れたばっかりやけど、今は分からんな」
 レイの眉がきつく顰められた。
「探してるんか? 何か用事か?」
 レイはしばらく俯いていたが、やがて真摯な表情で顔を上げた。
「進路のことで、ご相談したくて」
「ああ……」
 一貴は頷く。
「せやったら、アポとらな。レイちゃんの頼みやったら、すぐに時間取ってくれるわ」
「え、ええ……でも……」
「何や、急ぎか?」」
 レイは口ごもる。――ただ、どうしても今会いたいのだ、とは言えなかった。
「そう言うたら、あいつどこ行ったんやろな」
 一貴は首を傾げる。
 アレックスと連絡が取れなくなった、と邑悸が言っていたのが十日ほど前。その行方を探させながらも、邑悸は今後のことについて教会の代理人と協議を重ねていたが、その仕事にも一昨日から昨日にかけて一段落がついた。
「会うたら伝えといたろか?」
「…………」
 レイはただ、黙って俯いている。一貴にも、それ以上の言葉は見つからない。
「斗波君!」
 その沈黙を破ったのは、一貴を呼ぶ声。一貴とレイの視線が動いた。足早に歩み寄ってくるのは匡子=香月だ。
「匡子博士? どうしはったんです?」
「どうもこうもないわよ」
 彼女の顔には珍しく焦りの色が濃い。
「聞いた?」
「聞いた……って何を?」
 匡子は辺りに視線を配ると、声を低めた。
「邑悸が、全ての役職から降りるって」
「え……?」
 一貴は息を飲み、レイが唖然と呟く。匡子は長い髪をかきあげた。形の良い眉が、きつくしかめられている。
「辞表を提出したらしいわ。私もついさっき聞いたの」
「あいつ……いったいどういうつもりや?!」
「勿論重役会で承認されないでしょうけれど……でも、どういうつもりなのか、会長以下真意を計りかねているの」
 それで、叔母の私に話が回ってきたのね――匡子の声が、徐々に遠のいていく。レイは自分が唾を飲み込む音を聞いた。――やはり……。不安が膨れ上がって押し潰されそうだった。
「それで、本人はどこ? 知ってる?」
 匡子の声に、一貴は首を横に振る。
「いや、分からんのですが……」
「あ……」
 レイのうめき声に、匡子ははっと振り向いた。傍目にも悪いレイの顔色。
「どうしたの?!」
 差し出された匡子の腕につかまり、レイは呟く。
「そんなこと……そんなこと、絶対に許さない……」
 ――「ごめんね」なんて言葉で、許せるはずがない。
 匡子の腕を離し、レイは駆け出した。
「レイ?!」
「もしかしたら……」
 一貴の呟きに、匡子は頷いた。
「また、『共鳴』かも」
 以前邑悸が暗殺者に狙われたときも、レイはそれを察知していた。もしかすると、今回もそれと同じなのかもしれない。
「……ってことは」
 最後まで言わず、一貴は身を翻す。邑悸の身に危険が迫っている、そういうことなのかもしれない。
「あいつ、時々無茶しよるからなあ!」
 口悪く毒づく。
 ――邑悸は腹黒くて、嘘つきで、自分勝手で、理屈っぽくて、意地悪で、どうしようもなく嫌なやつだ。
「けど」
 ビルの自動扉が開く。雨が降っていた。エントランスの傘置き場に刺さっていたうちの一つを抜き取る。持ち主に胸中で謝罪し、後で元に戻しておくことを誓った。
 レイの姿は、既にどこにも見当たらない。一貴は舌打ちした。これではどこに向かっていいか分からないではないか。
「あいつは俺の」
 ――親友なのだ。一貴は、邑悸が大好きなのだ。きっと、邑悸はそんなことなど全く分かっていない。そのことが、悔しくて仕方がなかった。
「勝手に無茶なことしとったら許さへんで!」
 灰色に塗り潰された空へと叫び、一貴はあてもなく雨の中へと駆け出した。