第十一章
1
何が変わったというわけでもなかった。一貴は苦々しくそれを認める。
ARMADAが「SIXTH」を否定する声明を出してから、ひとつきが経過した。
まだ当分は人類が再び殺人能力を得たことに異を唱える勢力が騒ぎ立てるだろうが、今更どうなるものでもない。
三大企業は早々と刑法の改正に入っているし、「BGS」に代わる新たな治安維持部隊の結成もちゃくちゃくと進められている。いずれ、「BGS」は皆自由になるだろう。たとえ、それが建前上のものに過ぎなくとも。
それに、今朝の朝食後に自分の喉を下っていった錠剤――ARMADAから配給されたドラッグが、自分の運命を変えるほどのものだとは思わない。人を殺したいほど憎んだことが、彼にはない。幸運なのだと言われればそうなのだろう。だが、これからもあるとは思えない。勿論未来のことは分からないが、何となくそんな気がした。相手の命と等しい価値をもつほどの怒りや憎しみがどういうものなのか、彼には想像がつかない。
――邑悸に聞いたら何て言うんやろ。そう思うと同時に頭に浮かんできたのは、唇の端を少し持ち上げて、とぼけたように微笑む邑悸の顔だった。――理屈じゃないよ、そういうのは。衝動ってやつだ。気が付いたら相手が死体になってるのさ。そんなことを言うのかもしれない。
経験があるのだから、きっとそうなのだろう。それとも彼なりの強がりだろうか? そんなに軽く答えられる程度のことなら、あの男がいつまでも引き摺るはずはない。
――ほな、レイに聞いたらどういうんやろな……。
それは非常に興味深い仮定だ。一貴は自室のソファに深く腰掛けなおし、その思考を追求した。
2
「意外だな」
邑悸はコーヒーの湯気を頬に感じながら呟いた。ARMADA内にいる「BGS」たちに今後の身の振り方を考えさせるための調査をしたのだが、その結果が彼の意表をつくものだったのだ。自分の予想を裏切られるという経験は、邑悸にとってはむしろひどく新鮮だ。
「皆、家族の元に戻りたがると思っていたんだが……」
ほとんどがARMADAの関連企業への就職を望んでいた。中には家族と連絡をとりたいというものもいたが、総数にして一割にも満たないだろう。
珍しく、彼のオフィスには匡子がいた。邑悸のつぶやきを耳にして、赤い唇を微笑ませる。
「それくらいの人数なら、就職させてあげられるんじゃないの?」
「ええ、そうですね」
アンケートへの回答の中にレイのものはなかった。邑悸は眉をひそめる。本当は一番気にかけているのに……。
そんな彼の表情を、匡子は別の意味に受け取ったらしい。
「家族の元に帰りたがらない――その気持ちは貴方が一番分かるんじゃないかしら」
「…………」
邑悸は手を止め、警戒もあらわに匡子を見やった。
「どういうことですか?」
「私が本当に知らないと思っていたのかしら。貴方の両親の研究内容と……」
匡子はゆったりと腕を組み、邑悸を眺めやった。その冷静な表情の下には何が隠れているのだろう。
「その死因について、ね」
「…………」
邑悸は無言で立ちあがり、ゆっくりとスーツの内ポケットに手を入れた。そこに何があるのかは察しがつく。銃の類だろう。
匡子は苦笑した。
「勘違いしないで欲しいんだけど、別に私は姉さんたちの仇をうちたい訳じゃない。同じ研究者として、あの人たちのしたことは間違っていると思う。貴方の怒りはもっともよ」
彼女はどこまで知っているのだろう。邑悸はいぶかしむ。レイのことも――彼とレイの関係も知っているのだろうか。
しかし、邑悸は無表情を貫いた。
「それなら、何故今更そんなことを僕に? このまま知らないふりをしていれば良かったのでは」
「ええ、そうなんだけどね……」
匡子はため息をついた。
「実際、私がそのことを知ったのはこっちに帰ってきてからなの。それまでは姉さんの研究内容もろくろく知らなかったし……でもね」
脇に抱えていた小さな鞄から、一枚のディスクを取り出した。
「ARMADAのデータバンクの隅々を探したわ……これは、姉さんが厳重なプロテクトを掛けて保管しておいたデータ。私が向こうにいた時に姉さんがその存在と、暗号を教えてくれていたのよ」
「それが、そうなんですか」
邑悸はいっそ冷徹にもみえる無表情で尋ねた。匡子は頷く。それを探し出すためだけに、匡子はARMADAに固執したのだ。それが夫と袂を分かつ原因になったとしても、彼女にはやめるつもりはなかった。
「それで? 中身は何です? 僕のデータでも入っていましたか」
邑悸は唇だけに笑みを浮かべ、それは徐々に歪んだものへと変化する。
「効率的な『BGS』の生産のために必要だった、僕の遺伝子情報が」
「そんなものはなかった」
匡子は首を横に振った。そして、まるで哀れむかのような目線で彼を見遣る。
「これはね、邑悸。姉さんの、貴方宛ての遺書なのよ」
「な……?!」
邑悸は思わず驚きの声を漏らした。
「嘘……でしょう、そんな」
「本当よ。今まで渡さなかったのは、私自身渡して良いものか決心がつかなかったから」
血の気の失せた彼の顔を見ながら、匡子は呟く。
「好きに……好きにして良いわ、邑悸。これを見るのも見ないのも、貴方の自由よ」
デスクの上にそれを滑らせ、匡子は邑悸を見つめた。彼の瞳が細かに揺れているのが分かる。
匡子は一言一言を区切り、彼に告げた。
「私は――これを見て、貴方を告発する気をなくした。確かに、姉さん夫婦は貴方に憎まれても仕方がないだけのことはしたんだわ。私はそう思った。ただ、貴方がこれを見てどう思うかは私にはわからない。もしかしたら……ひどく傷つくかもしれない。だから見るときは覚悟して。いい?」
邑悸は黙って答えない。彼の視線はディスクを超えて宙を見据えたまま、動かなかった。
匡子はそれ以上言葉を重ねることなく、彼の部屋を足早に出て行く。
「――今更」
匡子の姿が消えてから、邑悸はつぶやいた。
「今更……」
手で自分の目を覆う。ディスクを正視することも、彼にはできなかった。
3
レイが食堂に行くと、そこはいつになく華やいでいた。――いつの間に、皆はこんなに明るい顔ができるようになったのだろう。以前は常に重苦しい雰囲気が漂っていた。生まれ持った宿命にがんじがらめにされた者たちの持つ悲愴感が、こんな場所をまでも満たしていたのだ。
レイは目を瞬きながら、歩みを進める。奥でセルマと会話していたあずみがレイの姿を見つけ、駆け寄ってきた。レイが口を開く間もなく、あずみは話し掛ける。
「ね、レイはどうするの?」
「え? ……ああ、あれね」
「BGS」を徐々に社会復帰させる――そのために、ARMADAが彼らの希望する進路を調査するものだった。レイはまだ、回答していない。
「私は、わからないわ」
彼女の短い答えにあずみは心配げな表情を見せるが、すぐにそれは明るい微笑みに変わった。
「私もセルマもね、ARMADAに就職したいなって話していたのよ」
「え?」
レイは驚いた。皆、家族の元に戻るものばかりと思っていた。
「小蘭にも聞いたら、彼もどこか関連企業に就職したいって。……そうそう、硫平さんは今いる下町が気に入ってるみたいね。あそこに落ち着くかもって話」
下町、と言われて春樹とキラの顔が浮かぶ。確かに硫平は彼らと仲良くやっているようだったし、あの暮らしが気に入ったのだろう。少し、羨ましく思った。
「でも、家族はどうするの……?」
レイの問いに、あずみは苦笑を浮かべた。
「うん……私も昔は、いつかもしここを出て行けたら、絶対に家族を探そうって思ってたのよ」
目線を逸らし、中空を眺める。
「でも……いざこうなってみると、何か違う気がするの。私は本当に家族のところに帰りたいのかなって……だって、今更なのよね」
「今更?」
レイが聞き返すと、あずみは彼女の顔を見つめて言葉を重ねた。
「だって、顔も知らないのよ? ずっと、十七年も離れていたのよ? 今更どうやって『家族』としてやっていける?」
レイは沈黙した。彼女には家族というものが分からない。いや、彼女だけではない。「BGS」は誰も家族を知らない。イメージすることすらできないのだ。
春樹とキラは兄妹で、家族だ。ああいう関係を家族だというのなら、レイにとっての、そしてARMADAの「BGS」にとっての家族は……。
あずみは表情を緩めた。
「そう思ったら……私がいたいのは『ここ』なんじゃないかって気がしてきたの。セルマもそうだって言ってたわ」
「……そう、かもね……」
レイは頷いた。あずみはぽん、と彼女の肩をたたく。
「レイもちゃんと考えなよ? どこに行きたいのか。どこにいたいのか。ね?」
「うん」
もう一度うなずく。
昨夜、メールが来ていた。差出人は春樹で、もし良ければ自分たちの家へ、そうでなくても彼らの近所へ引っ越して来ないか、と書かれていた。仕事などの面倒を見てくれるという。彼の好意はとてもありがたくて、レイはとても嬉しかった。
――けれど……私には、他にいたい場所がある。
それは、ARMADA、企業、外の町、そのような区分で決まるものではない。ただそこに「彼」がいれば、それだけで十分「そこにいたい」と思える場所になる。
「相談してみたら? 邑悸さんに」
そんなレイの思いも知らず、あずみはそう提案した。
「迷ったらいつでもおいでって、そう言ってたじゃない」
「……そうね」
レイはつぶやいた。彼は――彼は私に何というのだろう。どんな道を勧めるのだろう。それは恐れにも、そして期待にも似た複雑な心地であった。