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第六章

  1
  
 その日、那岐の部屋のインターフォンが鳴ったのは昼の休診時間のことだった。
 最近ドラッグ絡みの抗争で怪我人は至るところで増えているはずだが、那岐のところには全くそういった患者が来ない。それもそのはずで、彼らは片っ端から違法ドラッグ濫用者としてARMADAに牽引されているからだ。そこで適切な治療を行なわれているのかどうかは、那岐は知らない。――正直、知りたくなかった。
 那岐は憂鬱そうにソファから体を起こす。最近彼が診ているのは昔から通っている子供や老人たちといった顔馴染みだけで、その状況が辛うじて彼を日常の中に留めていた。
 関わりたくない。ドラッグにも。「BGS」にも。ARMADAにも。――あの男にも……。
 那岐の部屋の扉には小さなカメラが据え付けられている。訪問者を見分けるためで、これは特に治安の悪い下町地域では必須のものだ。彼は壁に取り付けられている画面に映る姿に息をのんだ。
 ――匡子=サザーランド博士。否、確か数年前に離婚したと聞いたから、今は匡子=香月博士だ。那岐のかつての恩師、ジョセフ=サザーランド博士の元妻であり、自身も遺伝子工学研究の第一人者。ジョセフ=サザーランドは彼女がARMADAで働き続けることに異を唱えたが、彼女は聞き入れなかった。そのことが原因で離婚に至ったと言われている。何故、彼女はそれほどまでにARMADAに執着したのだろう。
「……はい」
 暫くの逡巡のあと、那岐は返答した。
“シモン=那岐さんのお宅でしょうか?”
 歌うような声が返ってくる。最後に彼女に会ったのは彼が大学生の頃だったから、もう随分と昔のはずだが、彼女はちっとも変わっていない。豊かな黒髪も、大きな瞳も、化粧気がなくともくっきりと色づいている唇も……。
「そうですが」
 彼女に対して逃げ隠れしても無駄だろう。那岐は答えた。
“少々緊急のお話があります。中に通していただけませんか?”
「お一人ですか?」
 那岐は問い掛ける。匡子は頷いた。こちらに見えていることを意識しての動作だろう。そして、声を低める。
“時は一刻を争うの。あの子が事を起こさないうちに……”
 ――あの子?
 那岐は疑問に思ったが、とにかくロックを開けることにした。その音を聞いたのだろう、匡子はさっと玄関に滑り込む。一瞬警戒したが、彼女は確かに独りだった。
「久しぶりね」
 記憶の中の彼女が、そのままの姿で微笑む。
「……お久しぶりです」
 那岐はかすかに笑った。 
 以前、彼女に会ったときのことを思い出す。有能な学生として、ジョセフ=サザーランドの期待を一身に背負っていた彼。匡子は自分の夫が目に掛けている彼を、とても優しく扱ってくれた。
 夢と、希望に満ちていた頃。自分の研究が呼び寄せることになる悪夢など、知らなかった頃。
「突然ごめんなさいね。驚いたでしょう?」
 匡子は羽織っていたベージュのコートを脱いだ。下には濃紺のシンプルなワンピースを着ている。那岐は彼女のコートを受け取り、普段は患者用に使っているハンガーに掛けた。
 彼女は辺りを見回すこともなく、真っ直ぐに那岐を見つめる。彼にとってはこの薄汚れた診療所を彼女にまじまじと見られないのはありがたいことなのだが、どうにも彼女の意図がつかめない。
「ええ、まあ」
 歯切れ悪く返答しながら、手で椅子を薦める。彼女は頷いて座った。
「良くここが分かりましたね」
「ええ、ちょっとね。でも貴方のことは聞いていたわ。私にも色々つてがあるからね」
 那岐の言葉を軽く受け流して、彼女は居住まいを正した。
「単刀直入に言います」
 匡子の唇が素早く動く。
「かつて貴方が消し去った研究を、邑悸が再現したわ」
「…………!!」
 呼吸が止まった。喉の奥がぐる、と妙な音を立てる。
 かつて、自分が行なった研究――まさか……。
「そんな、馬鹿な」
「嘘だと思うかしら? でも本当よ。すぐにわかる」
 匡子の表情に嘘偽りがあるとは思えない。
 那岐の脳裏にあの男の声が蘇った。――貴方は、既に僕の望む答えを手に入れていた。
 彼は予想していたのだろうか。彼がこの世から完全にデリートした、その研究の内容を。
 ――貴方は真実を手に入れて怖くなった。
 声が震えた。
「彼は、どうするつもりです」
「公表するのよ」
 匡子は淡々と答えた。
「だから、貴方に伝えに来たの。あの子は貴方の名前をきっと利用する」
 那岐は小さく身震いした。
「シモン=ウェルナードの曾孫としての、貴方の名前をね」
 匡子は真剣な眼差しで言葉を継ぐ。
「そんなことになったら貴方の身の安全は保障できない。だから、警告」
 彼女の言うとおりだろう。シモン=ウェルナードの曾孫であるシモン=那岐が、曽祖父の業績である「SIXTH」を全否定するような研究結果を導き出し、しかもそれは長く伏せられていた。そんなことが明らかになったら、現在のドラッグ抗争どころではない。パニックに陥った市民たちの目は自分たちに近いところにいた那岐に向けられるかもしれない――恐らくは、裏切り者として。そうなれば……実際に彼の身に危害が加えられることになる可能性もある。
「『あの子』と、貴方は言いましたね」
 那岐は顔を上げる。きっと、今の自分はひどく青い顔をしているだろう。
「貴方と彼は、どういうご関係なのですか?」
「…………」
 匡子はふ、と表情を緩めた。短く、答える。
「甥よ」
「彼が、貴方の……」
 那岐は呟いた。
「甥……」
「急いだ方がいいわ」
 彼女は再び口を真一文字に結んだ。
「彼は今、教会の代表者と会談している。それが終わったら、きっと事態は急進展する」
「貴方が来たのは」
 那岐は立ち上がりながら言った。
 身支度は、すぐに終わるだろう。荷造りも大したものはない。あの日から、ずっと身軽であるようにと心がけて生きてきたのだから。この世界に自分の安息の場所などないのだと、そう思っていた。あの研究結果を見た時から、自分はこの世界の敵になったのだと――。
「誰の意思ですか?」
「…………」
 匡子はかすかに表情をゆがめた。
 笑ってはいる。だがそれはまるで自嘲のような笑みだった。
「彼、よ」

  
  2
  
 邑悸の目の前で、アレックスが次第に表情を取り戻す。だがそれは驚愕という名のものだった。
「それは、どういうことです?」
 声が震える。
「実は、僕の研究テーマでしてね」
 邑悸は微笑むんだ。
「遺伝子『SIXTH』の正体は何なのか、ずっと調べていたのです。シモン=ウェルナードは何も文献を遺しませんでしたから、大分苦労しましたよ」
「正体……?」
「貴方は、おかしいとは思ったことはありませんでしたか」
「…………」
 何がおかしいというのだろう。アレックスにはわからない。
「人間が人間を殺すのは何故でしょう? 本当に動物の遺伝子に『同種を殺すな』という本能が組み込まれているのでしょうか? しかし動物だって共食いはするし、自分の生命を脅かすもの、遺伝子の存続を脅かすものに対しては人間以上に容赦しない。それでは人間の場合はどうなのでしょう? 動物同士が争う場合はそこにリスクが生じる。特に同種の成体であれば、自分がやられる確率も相手にやられる確率もほぼ同程度存在する。だから、彼らはリスクを回避する。人間は違います。たとえば銃でもって無防備な相手を一方的に殺戮することができる。自分より強い相手だって、引き金を引くだけで殺せる。ボタン一つ押すだけで、街にミサイルを打ち込むことができる。何十万人何百万人を、ほとんどリスクを犯すことなく消し去ることができるのです。もし動物がそういう条件に置かれれば、どうするでしょうね?」
 それは、禁じられた領域の話だった。どの研究者にもそこには触れなかった。何故なら……。
「きっと誰もが気付いていて、見逃していた。この世界の居心地が良かったからです」
 邑悸は今やアレックスを、そして一貴を圧倒していた。
「一般人たち同士の間では、不文律として人は殺さないことになっている。安心して暮らせる平和な世界です。その一方、一般人たちは共通の敵として『BGS』を憎む。疎む。迫害する。さもなければ、自分たちの見えないところに隔離する。例えば企業は、彼らを社会に出られないように管理してきた」
 アレックスの額に汗の玉が浮かぶ。
「平和な世界を安定して維持するためには、『見えない敵』の存在が不可欠なんですよ。それに対する警戒心、敵対心をもって、人々は団結することができる。けれど決して敵の存在は具体的であってはいけない。何故なら、敵の像が見えた瞬間に戦う必要が出てくるからです。それでは平和というわけにはいきません」
 邑悸の舌鋒はとどまることを知らない。
「そう、この世界は『BGS』を生け贄にして成り立ってきた。かりそめの平和の上に安穏としてきたのです」
 彼は一度、言葉を切った。
「何故人間は人間を殺すのでしょうね? 貴方はどう思います? アレックス司教」
「わ、わたしは……」
「その人が邪魔だからでしょうか。それとも……」
 首を傾げる。その動作が妙に少年じみていた。
「僕には分からない。何故人がドラッグを求めるのか。今もなお求め続けているのか」
「…………」
「何故、殺す必要もないのに殺すのか」
 ふと、ある考えがアレックスの脳裏に浮かんだ。――もしかして、この状況を作り上げたのは邑悸本人ではないだろうか。巷にはドラッグが蔓延し、人々は我先にとそれを求めている。これまで禁じられていた反動とばかりに殺人事件は増え、このままでは「SIXTH」などあってもなくても意味がなくなってしまうだろう。
 まるで彼の心を読んだかのように、邑悸は微笑みかけた。
「そうです。今巷に出回っている新しいドラッグは、僕の作ったものです」
「…………!」
 思わず立ち上がりかけた彼を、邑悸は温和に推し留めた。彼の背後では一貴が卒倒しそうなくらいに顔を青ざめさせている。今の話は、一貴にも初耳だったのだ。
 邑悸は悪びれる様子もなく、ひょいと首をすくめた。
「でもね、考えて下さい。別に僕らは押し売りをした訳ではありません。そりゃあ幾つかの流通経路は用意しましたけれど」
 ――分かっている。アレックスは眉を顰めた。彼の言いたいことは分かっている。
「みんな、自分の意志で購入し、服用したんや。人を殺せるようになるために……そうなりたいと、自分で望んで」
 陰鬱な表情で一貴が呟く。邑悸は頷いた。
「フェアな方法じゃないかもしれませんが、僕は選択権を与えたつもりです。あのとき……DOOMのドラッグが明るみに出たとき、即座に規制しようというような世論の高まりがあれば、僕はそうせざるを得なかったでしょう。……けれど、CROMもBUISも、『BGS』への対抗手段として密かにドラッグの製造を続け、販売数は増え続けていた」
 もし誰かに襲われても正当防衛が出来るように、と人々はこぞってドラッグを求めた。それはまるで旧世界の大国が、破綻していると分かりきっている武装抑止論に縋りながら、軍備増強を続けていたのとまるで同じだ。
 歴史は繰り返す。
 その先にあったものを忘れてしまったというのだろうか? 文明を失い、破壊され尽くされた大地を目の当たりにしてから、まだ数世紀と経ってはいないのに……。
「禁じられると欲しくなるのは、黄金のリンゴを手にしたイブも我々も変わらないようですね。別に僕は蛇を自称するつもりはありませんが……僕たちは何度エデンを追放されれば気が済むのでしょう?」
 アレックスは瞑目した。今更どうすることもできはしない。今一度「SIXTH」を埋め込むか? きっと無駄だろう。どうしようもない――。
「さて」
 邑悸はソファの上で居住まいを正し、アレックスを真正面から見据えた。
「今度は僕の方がお聞かせ願う番です」
 一言一言を押し出すように口に出す。
「貴方の従兄弟――カイル=エル=ムードの目的は何です?」
「…………」
 アレックスは邑悸の視線の追及から逃れるように視線を逸らした。
「カイル……」
 眼を再び閉じ、一息に口に出す。
「あいつを止めたいなら、あいつを殺すしかない。あいつはそういう奴だ」
 邑悸は冷静に繰り返す。
「僕がお尋ねしているのは、彼の目的なのですが?」
「分かっている」
 アレックスは邑悸に向き直った。
「あいつは企業体制の打開を図っている。人間が神の意志に背くことのなく平和に暮らす、そんな世界を作る為に」
「どうやって?」
 そんなことができるものかと言いたげに笑う邑悸に、アレックスもまた笑みを浮かべた。邑悸に共感を覚えているような、逆に苛立ちを感じているような、複雑な笑み。
「そうだ……あいつはきっとやめない。世界を教会によって、神の意志の元に統治することが一番だと、カイルは信じているんだからな」
「……神、ですか」
 邑悸の浮かべる冷笑が、かりそめとはいえ聖職者のアレックスには気に食わない。
 邑悸は低くつぶやいた。
「神などいない。いたとしても無能です。僕は認めない」
「…………?」
 戸惑うアレックスには構わず、
「どんなに絶望しても神は救ってなどくれない。自分を傷つけるものを殺してくれもしない。何もしてくれない」
 独り言のように続ける。
「そして、罪を犯した自分を、罰してくれることもない……」
 それは懺悔にも似た声音。

 そのとき。一貴には邑悸の本当に望んでいるものが分かったような、そんな気がした。