instagram

第八章

  1
 
 険しい顔で春樹はテレビを見ている。臨時ニュースが入ったかと思うと、ARMADAの広報と名乗る女性が現れて原稿を読み始めたのだ。
 ARMADAは遺伝子「SIXTH」に関する新説を提唱。実験データを揃えた論文を専用のサーバにアップロードし全てを公開、オープンアクセスとした。主に遺伝子工学を専攻する科学者たちに、追認実験を行うよう促すためだそうだ。その仮説とは――。
“かつてシモン=ウェルナードの曾孫によって発見されながら、陽の目を見ることのなかった仮説です”
 女性は淡々と言う。理知的な瞳はカメラを真っ直ぐ見据え、揺らぐことはなかった。こんなにも衝撃的な内容を発表していると言うのに。
 彼女は一度息を吸い、続ける。
“かつて第一大学在学中に同様の事象について研究していたシモン=那岐は、当時そのデータを消去したとのことですが、自身の研究と今回の結果との類似性に関して認めています”
 春樹は文字通り椅子から飛び上がった。
「シモン……那岐?!」
 あの、那岐なのだろうか? シニカルな笑みを浮かべた、どこか訳知り顔の奇妙な医者。
 ――彼らに同情しすぎるのはやめた方がいい。
 ――世の中、そんなに甘いものじゃないぞ。
 ――お前は、何も知らない。
 彼は知っていたのだろうか。「SIXTH」に、本当は殺人を抑制する効果などないということ。「SIXTH」とは実のところ神経毒性を持つタンパクを少量生成するだけのもので、そのために一般人と「BGS」のPSY指数やPHY指数には隔たりが生まれているのだということ。
 遺伝子工学には全く通じていない春樹だが、これはにわかには信じがたい学説だった。
 ――だって、殺せないじゃないか。春樹は思う。自分に人が殺せるとは思えない。だが、それはただの勘違いなのだろうか。「殺せない」と思い込んでいただけなのだろうか。分からない。
 気がつくと電話に手を伸ばしてコールしていた。ナンバーは那岐のものである。
「…………」
 コール音が続くが、誰も出る様子はない。
「ちっ」
 がちゃん、と乱暴に受話器を下ろす。
 もし、この説が本当なのだとしたら――世界は一体、何をしていたのか。自分たちと何の変わりもない「BGS」たちを差別し、蔑み、迫害し――実のところ、むしろ自分たちの方が「人間」からは遠ざかっていたのだ。歪な遺伝子、「SIXTH」を組み込むことによって。
「わからねえ」
 春樹は自分の髪を掴む。
 現在流通しているドラッグは、一般人の「SIXTH」を不可逆的に不活化するだけでなんく、遺伝子上からも除去する作用があると言う。遺伝子のリコンビナントがどうのこうの、と言っていたが春樹にはちんぷんかんぷんだった。
 確実なことは、ただ一つ。
 もうすぐ、この世界を支えていた秩序は壊れる。「SIXTH」という、砂上の楼閣とともに。
 それを成し遂げるのは――邑悸=社。この研究のチーフは、彼だそうだ。
 この後訪れる混乱を思い、心臓がぎゅっと縮むような心地がした。
 
 
  2
 
 風が吹く。髪が靡く。レイは日没をぼんやりと眺めていた。
 ここで待っていればいい。不確かな、けれど確固たる信念を持ち、レイはARMADA本社ビルの屋上に座っていた。
 ヘリポートの備えられている屋上はかなり広いが、レイのいるのはヘリポートの外の、安全柵で囲まれた小さなエリアである。彼女はここが好きだった。時々一人で来てはぼうっとしている、お気に入りの場所なのだった。
 そういえば、以前邑悸を見つけて手を振ったのもここからだったような気がする。――だから、ここで待っていればいいのだ……。
 レイと硫平は帰還してすぐに邑悸に面会を申し込んだが、来客中ということですげなく断られてしまった。さらに、硫平には春樹=辰川家で待機するよう指示が出され、彼は不満足そうではあったが従うしかなかった。
 レイはその指示を聞き、密かに安堵した。何となく、硫平には同席して欲しくなかったからだ。邑悸の前での自分を見られたくはない。何故かはわからないが、そう思った。
 ――結局、邑悸さんは私の何なんだろう……?
 背後から、彼が――邑悸が近付いてくるのに、足音は伴わなかった。だが、存在感だけはそこにあってそうだと知れる。レイは目を閉じ、膝に顎を埋めた。
「きっと、君はここにいると思った」
 暖かな声が沁みる。レイは振り向こうとして、やめた。振り向いて彼の顔を見てしまったら、きっと心が揺らいでしまう。今胸にある疑念も不安も、きっと麻痺してしまう。
「でもここって寒くない? 若いから平気なのかな」
 くすくすと笑みを零す気配。
「僕に話があるらしいね。何だい?」
 優しい声と、背後から伝わる温度。邑悸はレイの左斜め後ろに腰を下ろしたらしい。
 レイは何故だか泣きそうになって、唇を噛み締めた。――どうして。
「どうして、……どうしてドラッグを?」
 押し出すように洩れた言葉に、邑悸はああ、と呟いた。
「誰かに聞いたの?」
「ええ。春樹さんの……お友達に」
 リィの青の双眸を思い出す。
「いつか足は着くと思っていた。今となってはもう、別に構わないけれどね」
 平然とした様の邑悸に、レイは表情を険しくして振り向いた。
「何故……? 何故、そんなこと……ドラッグをARMADAが売るなんて……!」
「僕はね、レイ」
 彼女の視線の先で、穏やかに彼は微笑む。いつも通りの、優しい笑顔。
「『SIXTH』なんて、もう要らないと思うんだ。だって、『SIXTH』には殺人を予防する効果なんて、ないんだから」
「え……?」
 レイは唖然として口を開けた。
「僕自らが研究して得た結果だ。多分間違いはない。もうすぐいろんな学者が僕のした実験を再現して、追認してくれるだろう。一貴もこの結果には異論はないそうだよ。いや、ARMADAそのものが既に認めていることなんだ。僕の研究結果は、正当なものだと」
 レイは邑悸のシャツの胸元を握り締めた。頭がくらくらとして、倒れ込んでしまいそうだった。
「そ、そんな……!」
「今ちょうどうちの広報が発表しているから、既に世界中が知っていることだ」
 レイは戸惑いを抑えきれないように邑悸を見つめる。彼は落ち着いた様子で彼女を見つめ返した。
「大したことじゃない。元々人間には『SIXTH』なんてなかったんだから」
「……で、でも……」
 俯く。
「そんなこと、発表してしまったら……」
 ――自分たちには人が殺せるのだと、一般人が気付いてしまったら。
「どうなると思う? 人殺しが横行するかな? それとも戦争が起こるかな?」
 邑悸は逆に、レイに問い掛けた。
「…………」
 その全ての可能性を、レイは頭に思い浮かべている。答えない彼女に、邑悸は微笑んだ。
「そうかもしれないね……以前起こったことが、そのまま繰り返されるだけかもしれない。ずっと人を殺すということから遠ざかっていた者たちには、その意味がなかなか理解できないだろうしね。いや……」
 首を軽く横に振り、
「何が起きるかなんて、想像がつかない。僕だけじゃなく、みんなきっとそうだろう」
「じゃあ何故……?」
 邑悸の瞳はレイをすり抜けて、どこか遠い場所を眺めていた。
「今だってね、人は他人の命を奪うという行為はできなくても、他人を殺すことはできるんだよ」
「え……?」
 レイには邑悸の言っていることが分からない。邑悸は静かに語り続ける。
「人の心は、殺人ができるように作られているんだからね。いくら『SIXTH』で殺人行為ができないようにしても、人の心の残忍さや残酷さまで封じるわけにはいかない。そうだろう?」
「…………」
 脳裏に、椿の死のシーンが浮かんだ。一般人に射殺された椿。――俺にも殺れた、と喜んでいた男たちの顔。
「弾圧期がいい例だし、今回のドラッグだって人々は自由意志で購入したんだ。ドラッグは全人口の七割程度に浸透しつつあるという報告があがってきている。人々は、自ら求めたんだよ」
 レイは顔を上げた。
「でも、……でも、みんなが残酷だってわけじゃありません。みんなが人殺しになる訳もない……」
「そう、人の残酷さを決めるのは『SIXTH』ではない。まさに君が今言った通りさ。だったら『SIXTH』の存在に何の意味がある? 今までの世界はまるで、集団催眠に掛かっていたようなものあんだよ。『BGS』を生け贄にしながらね……」
「…………」
 レイにはもう、良く分からなくなっていた。
 人間を信じたい――人殺しなど安易にしない。
 人間など信じられない――きっと殺人が増えるような気がする。
 二つの思いが交錯してレイの胸を渦巻く。
「人は人自身で自分の問題を解決しなければならない。僕はそう思っている」
 そんな彼女の胸の奥を解きほぐすように、邑悸は囁いた。
「だから――殺したいほど憎い人間や、恨んでいる人間がいて、そいつを殺したいと思うのなら、その想いに応えるのは自分しかいない。殺したいから殺すのか、それとも自分にはそんな権利はないと諦めるのか。違う方法で思い知らせてやろうと画策するか。自分で決定しなくてはいけないんだよ。遺伝子に決めてもらおうなんて、そんなことはできないんだ。自分自身に責任を持てるのは、自分しかいないのだから」
「自分を守れるのは……自分だけ……」
 ミーシャの顔を思い浮かべながら、レイは呟いた。邑悸は頷く。
「神なんていないんだよ。教会連中のいうことは間違ってる。犯した罪に罰を下す神なんていないし、救いを与える神もいない。だとしたら、神が人間に与えた戒律なんてでたらめだ。僕はそう思う……」
 胸の前で組まれた邑悸の手に力がこもるのが見て取れる。
「『SIXTH』なんていうのは、人間が自分を律しきれないことを恐れて、神の名を借りて自らの手で自らに施した楔なんだよ。神の戒律なんていうのも、それと同じ……全部、まやかしだ」
 邑悸の声を聞きながら、レイの胸には何かがひっかかっていた。
 ――違う。こんなことは建前に過ぎない。彼の本心はこんなところにはない。彼は本当のことを喋っていない。それは漠然とした予感であり、確信でもあった。
「私に……」
 レイは目を上げ、邑悸の顔を真正面から見つめた。
「私に嘘をつかないで下さい。邑悸さん」
「え?」
 邑悸が意外そうに瞬き、レイを見つめる。レイはその目を真っ向から見返した。
「私は、貴方を信じているんです。だから……」
「僕が、嘘をついているって?」
「嘘をついているというよりも……」
 レイは首を横に振った。
「本心を言ってくれていない。そんな気がします」
 邑悸の表情がかすかに揺らぐ。レイは、そんな彼の表情から眼を逸らした。
「私には、その価値がありませんか……? それとも、私もいつか貴方を裏切るって思っているんですか……?」
「そんなんじゃないよ」
 邑悸はゆっくりと首を横に振った。
「そんなんじゃ……」
 言葉が途切れた。不思議そうに見上げたレイの眼に、邑悸の表情が映る。――どうして……。レイは唇を震わせた。――どうして、そんなに悲しげな顔をしているのですか……それでいて、どうしてそんなにも優しく笑ってくれるのですか……。
「レイ」
 邑悸の手が、レイの髪を梳いた。
「君はどうして……そうなんだろうね。いろんなものを世界で沢山見てきたはずなのに、嫌な思いもして、傷ついて……それでも、いつまでも君は君のまま……真っ直ぐな瞳はそのままだね。初めて会った時から、ちっとも変わらない」
「え?」
 レイは彼の言う意味が分からず、戸惑う。
「君は、僕とは違う」
 邑悸はそう呟くと、視線を落とした。
「やはり、君は騙されてはくれないんだね」
 力なく笑う。
「確かに――今のはただの建前。聞こえのいい、言い訳だよ。僕は結局、僕のことしか考えていない。自分勝手な人間なんだろうね」
 レイは邑悸を見つめた。そして、ゆっくりと首を横に振る。
「私だって、自分勝手です」
 邑悸は驚いたように顔をあげた。レイはそんな彼に向けて微笑む。
「私の願いはいつだって一つだけで……それが叶うなら、他のことなんて二の次に思えるんです。ドラッグが広まるのが怖かったのも、『SIXTH』が失われてしまうことを恐れるのも、そのせい。私の願いが叶わなくなるかもしれないって思うから」
「君の願いって?」
 尋ねる邑悸には答えず、レイは首を横に振る。
「邑悸さんが本音を喋ってくれないから、私も言いません」
 邑悸が苦笑した。
「拗ねたのかい?」
「別に」
 レイはそう言って視線を逸らした。邑悸は苦笑を深め、やがてそれをふっと消した。
「邑悸さん……?」
 頬を掠めた自分のものではない髪にレイが疑問を抱く暇もなく、彼の腕は力を込めて彼女を引き寄せていた。二人の頬が触れ合う。
「邑悸、さん……?」
 レイの顔に血が上った。
 冷たい風に吹かれながら、邑悸の体温だけが暖かい。彼の使っているコロンだろうか、甘い匂いがした。自分は今、邑悸に抱きしめられている――レイは緊張に体を強張らせた。
「僕らは、結構似た者同士なのかもしれないねえ」
 邑悸はそう囁いてくすくすと笑い、レイの肩を両手で抑えて自分から離した。
「もっと早く君に近付いておけば良かったかな……」
「…………?」
 レイは邑悸の言葉の意味を察しかねて眉を寄せた。だが、邑悸に説明するつもりはないらしい。彼は優しく、小さく囁いた。
「レイ、目を閉じて」
「はい」
 いつもの習慣通り、レイは素直に従う。邑悸の言葉には、どんなことでも従ってきたから。
「…………」
 邑悸は暫く彼女の顔を眺めていた。長い睫毛、夕焼けに照らされて紅の差した頬、薄く引き結ばれた唇。まるで眠っているかのような、静かな表情だった。今や彼女のどこにも緊張はなく、邑悸を信頼しきっている。そんな彼女を、ひどく愛しいと思った。
 もう一度、抱きしめたい。それはひどく甘美な誘惑だったが、邑悸はそうしなかった。ただ黙って、レイを見つめる。
 ――君の願いって、何なのかな。
 でも、僕にはそれを知る権利はないのかもしれない……。
 邑悸はレイの頬に手を添え、一瞬だけ唇を重ねた。ほんのわずかな接触――伝わってくる彼女の柔らかな温度。
「……え?」
 勢い良く目を開ける彼女に、邑悸は知らないふりで微笑み掛けた。
「さあ、そろそろ戻ろうか。日が落ちると、ここは冷える」
「む、邑悸さん、あの……」
「何?」
 何もなかったかのように聞き返され、レイは言葉を失う。
 邑悸は微笑む。
「ごめんね」
「…………」
 レイは真っ赤になって黙り込んだ。
 ――何故、彼は謝ったのか。レイがその本当の意味を知るのは、まだ先のことだった。