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第二章

  1
  
 本社ビル内のワンフロアは、邑悸のオフィスが占めている。そのうちの一室を、邑悸は「BGS」らとの面談に良く使用していた。今もレイがいるのだが、どこか落ち着かない様子なのは、先日ここで眠ってしまったことを思い出すからだろうか。
「…………」
 思い出せばあられもなく赤面してしまいそうで、レイは無理にでも記憶を封じ込めようとしていた。だが、意識すればするほど記憶は蘇る。温かな膝と優しい匂い。今まで過ごしたどんなところより心安らいだ場所。――そういえばあの時、自分は泣きながら邑悸に抱きついたのではなかったか。そして、邑悸もまた……自分を……。
「レイ? 大丈夫かい?」
「は、」
 はい、と言おうとして目を上げると、邑悸の顔が驚くほど近い場所にあった。デスクの向こう側に座っていたはずの彼はいつの間にか彼女の隣に立ち、背を屈めて彼女を覗き込んでいる。
「?!」
 飛び退こうとしてバランスを崩しかけたところを、咄嗟に伸びた彼の腕に抱きとめられた。
「大丈夫? 何だか顔が赤いけれど」
「い、いえ」
 レイは慌てて邑悸から離れ、一度大きく息を吐いた。今はあまり、彼に近付かない方がいい。変にうろたえると、不審に思われてしまう。
「顔が赤いけど……熱でもあるのかな」
 だが、彼はレイの思惑を無視して二人の距離をあっさりと詰め、その大きな手のひらで彼女の額を覆った。
 ――あ、とレイは胸中で呟いた。やっぱり、暖かくて心地良い。そのまま触れていて欲しい。胸中に湧き上がる気持ちを抑え込み、レイは彼の手を丁寧に押し退けた。
 邑悸は彼女の上司で、今は任務の話をしているところなのだ。そのことを忘れてはいけない。
「大丈夫です。すみません」
「……話は聞いていた?」
 邑悸は少し残念そうに自分の手を見遣ったが、すぐに穏やかに微笑んだ。
「はい」
 レイは頷く。
 下町地区には今、ゲリラが集結しているという。何も新興の集団ではない。かつての「FFA」のように、企業体制の打倒をスローガンに掲げていた団体は常に存在していた。それが、一致団結したらしい。団結のきっかけとなったのは教会の反主流派と組んだことだといい、それがカイル=エル=ムードを筆頭としているらしい、と聞いたときはさすがの邑悸も驚いた。先日までは、彼こそが教会を牛耳っていたはずなのに、いつの間に追われたのだろうか。
 調べさせたところ、どうやらDOOMの重役だったアレックス=テラ=ムードとの間に亀裂が生まれたらしい。そして、穏健派であるアレックスに教会の大勢は流れたようだと。カイルが「BGS」を引き入れるよう強硬に主張したことが、教会の長老たちの反発を生んだとか……。詳しい真相は分からない。
「今回の任務はその地区の視察と、ドラッグ服用者の摘発。教会の反主流派ゲリラとそのドラッグ服用者の集団が、縄張り争いみたいな抗争をやっているらしい」
 邑悸の説明を聞いたレイは、眉を寄せる。
「一般市民が、犠牲にならないと良いのですが」
「…………」
 邑悸はふ、と息をついた。さっきやんわりと押し退けられた手を、もう一度伸ばす。顔を上げたレイの髪を、優しく撫でた。今度は彼女も避けようとしなかった。頬をうっすらと上気させ、邑悸を見つめる。
「君は、優しいね」
「え……?」
「その一般市民たちに、君たち――いや、僕たち」
 邑悸は言い直す。
「僕たち『BGS』は何十年も虐げられてきたというのに」
「…………」
 レイは、頬に触れている邑悸の手に自分のそれを沿え、少し困ったような顔で笑った。
「知っています。でも」
 脳裏に蘇るのは、斜に構えた様子の青年の顔。そしてその妹。――彼らは、違った。
「『市民』なんてひとは実際にはいないから。いろんなひとがいろんな違った考えを持っていて、そうひとたちが集まっているだけだと思います」
「…………」
 邑悸の手がかすかに震えた。レイはそれを敏感に感じ取る。
「そう……」
 それはか細く、小さな声だった。

  2
 
「……そうか。分かった。また何か手がかりがあれば連絡を」
 プツッ、と通信の切れる音がする。アレックスは手元の受信機を見つめ、やがて荒々しくホルダーに叩きつけた。――物に当たっても仕方がないことくらい、分かっているのに。
 久々に身を包んだ聖服は窮屈で、馴染んでいたスーツが懐かしく思い出される。つい先日まで、彼はDOOMの重役として華々しくビジネス界を濶歩していたというのに……。
 先日失踪した従兄弟の代わりに極東大司教の地位につくことを長老たちに命じられたときには、一体何の冗談かと目を剥いたものだった。いや、まだ冗談なら良かったのだが彼らは本気だったし、そのことはアレックスも十分承知していた。
 胸が凹むのではないかと思うほど、深いため息をつく。
 カイルの居場所はまだ掴めていない。先ほどの通信も、それを告げるものだった。吉報であれ凶報であれ、新しい事実の含まれていない連絡ならいらない、と思う。しかし全く連絡のない状況も耐え難いだろう。そのジレンマが、アレックスの顔に焦燥を色濃く浮かび上がらせていた。
 ――最初はいいアイデアだと思ったのだ。「BGS」の能力を手に入れて肥大化するARMADAの存在には、企業人なら誰しもが恐れを抱いていたことである。誰もが隙を探していた。無敵にも思えるARAMADAの体制を突き崩せる、何か。切り札。
 ARMADAの強みでもあり、同時に弱点でもある、「BGS」。それを利用しない手はない。ARMADAの膝元であるこの街で殺人事件が多発したなら、まず間違いなくARMADAの「BGS」が疑われる。実際、最初はそうだった。市民たちのARMADAに対する反感は高まり、教会に対する賛同者は増えた。企業が「BGS」を管理することを疑問視する声も高まり、ARMADAは――否、邑悸=社は徐々に追い込まれていくかのように見えた。
 しかし――形勢はあの日を境に一変する。ドラッグプラントの摘発。犠牲になった「BGS」。世論は大きく動いた。
「結局は、彼を甘く見すぎていたということなのか」
 アレックスは呟いた。
 あの男――邑悸=社。脳裏に浮かんだのは、いつものように薄く笑みを湛えた顔。
 ガン! 机が揺れ、コーヒーが零れる。アレックスは机に肘を突き、額に手を押し当てた。
「どこへ行ったんだ、カイル……」
 もしかすると、彼の行方さえも邑悸=社は既に知っているかもしれない。ふと、アレックスはそう思った。自分はカイルの従兄弟であり、幼馴染であり、親友であり、一番の理解者だ――そのはずだったのに。
 閉じた瞼の奥で、アレックスはカイルと交わした最後の会話を――口論を思い出す。アレックスは新たな戦略を提案した。「BGS」問題以外の部分からARMADAを攻略しようと。「BGS」に目を掛けている分、おろそかになっている部分があるはずだと。それを探して、つけば良い。
 だが、カイルは強硬に「BGS」を自らのコントロール下に置くことを主張した。それに苛立ったアレックスは、思わずカイルを怒鳴りつけた。
「お前は、自分の『血』にいつまで拘り続けるんだ!」
 それを聞いたカイルの瞳の色は、見たことがないほど凍りつき――冷めていた。
「――そう。所詮アレクも『向こう側』の人間なのですね」
「……カイル」
「分かりました」
 カイルはくるりと踵を返す。
「どこに行く?!」
 問うアレックスに、彼は振り向くこともしなかった。
「アレクには関係ないでしょう?」
 冷たい声。だが、その響きにアレックスははっとする。溢れ出しそうな悲しみを、必死でせき止めている声だった。
 ――アレク、僕は誰にも愛されない子供なんだ。
 幼い日を思い出す。翡翠の瞳にいっぱいの涙を溜めていた頃を……。
 ――カイル、
 だが、伸ばしかけた手の先に、既にカイルの姿はなかった。それ以来、彼は杳として行方をくらませている。
「あいつは馬鹿だ」
 アレックスは呟いた。
「だが……」
 自嘲の笑みが浮かぶ。
「俺はもっと馬鹿だな……」
 カイルがいなければ、DOOMを離れたアレックスがARMADAを敵視する理由もない。それなら――。
「あいつにとっても、世界にとっても」
 ステンドグラスから差し込む光は、白い聖服を色とりどりに染め上げる。
「一番良い解決方法がある」
 ――だがそのためにはARMADAの、つまりはあの男の協力が不可欠なんだ……。
 彼の返答だけはいくらシミュレートしてみても読みきれない。
 邑悸=社。最後まで鍵を握るのは、結局のところ――この男なのだった。