instagram

第九章

  1
  
 ARMADA本社付設病院、最上階の一つ下にある特別室。最上階でないのは屋上からの侵入を防ぐためであり、邑悸が入院した時に使ったものとあわせて二室しかない、VIP用の部屋である。内装も白を基調としたシンプルなものではあるが、病室というよりも一流ホテルのスイートルームのようだ。
「…………」
 居心地悪そうにしながら、那岐は煙草に火をつけた。口を丸く開けて息を吐くと、煙が円を作って天井へと昇っていく。
 内線の通じる、ぷつ、という小さな音がして、低い男の声が部屋に響いた。
『一貴=斗波博士が面会を求めておられます。応じられますか?』
「…………」
 煙を吐き出しながら、一瞬だけ考える。
「会うよ」
『了解致しました』
 回線は切れた。
 那岐は煙を吐く。部屋に置かれた灰皿には、既に吸殻が溢れ返っていた。我ながら不健康なことだと思う。
 ふと思いついてエアクリーナを稼動させた。この白煙の中に人を招き入れるのはどうかと思ったのだ。みるみるうちに天井の排気口に吸い込まれていく煙を見上げながら、彼は手に持っていた煙草を灰皿の中で揉み消した。
 数分後。インターフォンが鳴り、それと同時に扉が開いた。本来ならば那岐が扉を開く操作をしない限り開けられないようになっているのだろうが、彼は本来の意味でのVIPではない。丁重に監視されているだけのことだ。
 那岐は来客を眺め、小さくため息をついた。
「一貴……」
 一貴の背中の後ろで音もなくドアが閉まる。
「先輩」
 学生時代のように、一貴は彼に呼び掛けた。いつもの人懐っこい笑顔は、なりをひそめている。
「幾つか聞きたいことがあります」
 両手を白衣のポケットに突っ込み、ソファに腰掛けている那岐の目の前で立ち止まった。
「…………」
 那岐は指先で自分の向かいのソファを指し示した。一貴はそれに従って腰掛ける。二人の間を隔てるテーブルの上を一貴の視線が滑り、山盛りに吸殻を載せた灰皿を見て一瞬その動きが止まった。かすかに眉が顰められる。だが、那岐はそれに気付かぬふりをした。
「何だ?」
「先輩は、どこまで知ってはったんですか?」
 端的な質問だった。彼は少し微笑む。
「……どこまで、か」
 那岐はシャツの胸ポケットから煙草を取り出し、口にくわえた。火をつけようとしたところで一貴は喫煙者ではないことに気付き、苦笑した。自分は既に立派なチェーンスモーカーと化しているらしい。新しい煙草をパッケージに直すのも面倒になり、那岐はくしゃりと握りつぶした。テーブルの脇のゴミ箱の中に放り込む。
「俺はまだ、邑悸の実験を検証していない」
「はい」
「だから、実験の詳細は知らないが……」
「先輩の実験を教えて下さい」
 一貴は真っ直ぐに追及してくる。那岐は苦笑を深めた。
「俺は……曽祖父の、シモン=ウェルナードの功績の証明がやりたかった」
 最初は何のあてがあった訳ではない。ヒトの「SIXTH」を組み込んだハイブリッドマウスを作成した。
 異種間で遺伝子の相同性が保存されていることが証明されたのは、戦争の何世紀も前のことだ。それは進化論を裏づけるものであり、また遺伝子工学の発展に大きく寄与した。ヒトの遺伝病モデル動物、という概念が生まれたのがその良い例である。つまり、遺伝子の異常によって発症するヒトの疾患と同様の症状を呈する動物を人為的に、しかも遺伝子工学的に、作成することが可能になったのである。
 その実験には多くの場合、マウスが用いられた。方法には幾つかあり、那岐が行なったようなハイブリッドマウスもその一つである。ヒト、もしくは他の種の遺伝子を組み込むものだ。他にはノックアウトマウスという方法もある。遺伝子が欠損することによって引き起こされる疾患モデルを作成したい場合に用いられ、ヒトでその疾患の原因遺伝子とされるものと相同なマウスの遺伝子を人為的に働かないようにするものだ。マウスでヒトの遺伝子疾患と同じ症状を再現し、治療の研究などに用いるのである。
 那岐は足を組んだ。
「『SIXTH』のハイブリッドマウスを作ったものの、俺には何の実験計画もなかった。もともとの研究テーマは『SIXTH』とは対して関係のない分野だったし……」
 一貴は黙って話を聞いている。
「しばらくそのマウスを普通に飼育していたんだが、やがて妙な事が起こり始めた」
 今でも、その情景ははっきりと思い出せる。
「ハイブリッドマウスの運動能力が目立って低下し始めた」
 一貴が小さく息を呑む。
「どうも動きが鈍重なんでな、体力指数――PHY指数だな、それを計ってみた。通常マウスの平均値は……」
「約80」
 那岐は頷いた。
「ハイブリッドマウスでは40を割り込んだ」
「40……」
 一貴は呻く。
 マウスでPHY指数40以下になるのは、余程の高齢か、それとも重病かのいずれかである。無論那岐の用いたマウスは若年で健康なものばかりだった。
 ヒトの場合マウスとは計測方法が違うが、一般的に「BGS」ではPHY指数650以上が正常値とされる。高得点と言われるのは850以上、900を超えればトップアスリートレベルである。ARMADAの「BGS」の平均値は約780だ。これに対して一般人の計測データは公にされていない。しかし、ARMADAが密に集めたものを一貴は知っていた。――平均値、620。
 那岐はそれを聞いて頷く。
「マウスはヒトよりも体重も何もかもが小さいからな。効果が大きく出たのだろう」
「なるほど……」
 一貴は呟く。
「俺は驚いて、何体かのマウスを解剖して調べた」
 その結果、那岐は驚くべきことを知る。
「神経細胞内に、妙なタンパクがあった」
「脳の?」
「ああ。まるでレヴィ小体のような……」
 レヴィ小体とは、脳の特定の神経細胞内に異常タンパクが蓄積したものである。いわゆる病的所見であり、健康な者には見られない。これが脳の神経細胞内に生じる疾患をレヴィ小体病と呼び、パーキンソン病などがこれに分類される。レヴィ小体の蓄積が神経細胞の変性脱落や細胞死を誘発するために、患者には痴呆症状が現れる。同じく痴呆を引き起こすアルツハイマーとの類似点も指摘されており、アルツハイマー病でもβアミロイドという、タンパクの異常蓄積が見られるのだ。これらの異常タンパクは、神経毒性を持つと言われている。結局のところ、異常なものを溜め込んだ細胞はアポトーシス――細胞死に至る。神経が死ねば動物は活動できなくなる。たとえばパーキンソン病で、運動機能に支障を来たすように。
 「SIXTH」を発現させたハイブリッドマウスも、どうやらそれと同じ症状であったらしい。ヒトの神経変性疾患では運動機能低下と同時に痴呆症状も呈することがあるが、マウスではそれほどの知能の発達がないため、表立って見られたのが運動機能部分の症状のみだったのだ。
「ショックだった」
 那岐はぽつりと呟いた。
「『SIXTH』がいくら素晴らしい効果を持っていても……神経毒性を持つタンパクができるような、そんな遺伝子を……そんなものを曽祖父は人類に埋め込んだのか、と」
「ずっと……誰も知らへんかったのですね」
「ああ。タブーだったから。『SIXTH』を研究するということそのものが」
「…………」
 ――きっと誰もが気付いていて、見逃していた。この世界は「BGS」を生け贄にして成り立ってきた、かりそめの平和の上に安穏としてきたのです。
 邑悸の言葉が脳裏に蘇る。一貴はそれを振り切るように問いを重ねた。
「じゃあ先輩は、『SIXTH』の殺人抑制機能そのものには疑問を抱いてはれへんかったのですか?」
 那岐は目を伏せた。
 ごくり、と一貴の喉が鳴る。ほど良い室温のはずなのに、彼の背中は冷たい汗で濡れていた。
「正直……それからどういう実験をしたのか、あまり覚えていない」
 那岐は再び口を開く。
「必死だったし……それに、結果が出ると同時に全て消してしまったからな」
「じゃあ」
 那岐は頷いた。一貴は大きく目を見開く。
「大体のところは分かっていたよ。『SIXTH』には」
 ――もう後戻りできない。那岐はそう思った。
「殺人を抑制する力なんてないんだ……ってね」

  2
  
 それはあまりにも不細工な誕生日ケーキだった。生クリームがちゃんと円錐形に立ち上がらず、半端な半球形をかろうじてとどめている。レイは唖然として……そして小さく笑おうとした。だが、口からこぼれるのは自分のものではない声。
「これ、僕に……?」
 ――「僕」? 「僕」って誰だろう……?
 目の前で苦笑いを浮かべているのは見知らぬ女性だ。年恰好から見て、この「僕」の母親なのだろう。まだ若い。美人だと思った。そして、誰かに似ている。
「ごめんなさいね。私、お料理全然駄目なのよ。これでも頑張ったつもりなんだけど」
「ううん。嬉しいよ」
 それは本当のことだ。心を穏やかに優しく暖める気持ち、これが喜びでなくて何だろう。レイの――いや、「彼」の微笑を見て女性は顔をほころばせた。
「良かったわ。毎年母さんたち、研究発表とか出張とかで留守がちだったものね。気にしていたのよ」
「でも、プレゼントは欠かさずもらっていたし、カードだってちょうどに着いてた」
 その言葉に、女性は顔を翳らせた。
「そういうことじゃないの……もっと、大切なことよ。こうやって貴方の顔を見て『誕生日おめでとう』って言うことは」
 切り分けられたその不恰好なケーキをフォークで何とかすくい、口に運ぶ。
「今日はお父さんも早く帰ってくるって言っていたから、待ってる間にこれを食べてしまいましょう。こんなに不細工なケーキ、お父さんに見られるのは恥ずかしいわ」
 見かけの割に、味は良い。だが、その甘いはずのケーキが何故か舌の上で苦くとろける……。
「どうしたの? 泣いているの?」
 女性の言葉にはっとする。
「ううん――」
 だが、言葉にならない。苦いのは自分の涙だったのだと知る。
「泣かないのよ」
 女性は優しく頬をなでた。暖かな手。
「貴方は誰よりも強くなる――誰よりも強く、賢くなるのよ」
 切なさを帯びた表情で、女性は柔らかく微笑む。
「私たちが貴方にしてあげられるのは、それぐらいのことしかないのだから……」
 
 ――暗転。
 
 冷たい。心が、痛いほどに冷たかった。
 レイは手を真っ赤に濡らして、そこに佇んでいた。
「貴方達がいけなかったんですよ」
 口の中から、意識せずに滑り出る台詞。
「僕を裏切るから……」
 膝をつき、冷たくなったその骸にそっと触れる。
「結局貴方達は僕を愛していなかったんだ」

 これは――いつか見た夢。同じ夢の続き。
 
 違う。
 レイは首を横に振ろうとしたが、動かすことはできなかった。
 これは夢ではない。「記憶」だ。
 ――「記憶」? 誰の?
 レイはふらふらと立ち上がり、部屋の隅にかかっている鏡へと向かった。
「誰か……」
 唇をついて出るのは彼女自身の言葉ではなく。
「誰か、僕を……」
 それは呪いにも、祈りにも似て。だが決して誰にも届かない声。
 鏡が彼女を映した。いや、映ったのは彼女ではなかった。
 見覚えのある顔が、ひどく青ざめている。顔つきもどこか幼さを残したままで、若い。普段の飄々とした爽やかな笑みの代わりに、苦痛に歪められた唇が、そこにある。

 ――邑悸さん……?

「誰か、僕を――」
 
 ――僕を、
 
 映像が断ち切られるように乱れ、音声にノイズが混じり――暗転。

  3

 邑悸は目を覚まし、荒い息を吐いた。額に浮かんでいた汗をぬぐい、手の甲を瞼に当てる。
 涙は出ない。あのときから、泣けなくなった。自分の全てを掛けて愛し、信じていた父母をこの手で殺したときから。それ以上に悲しいことなんてないから。そのはずだから。
「まだ、分からないんですよ。母さん」
 ――どちらが本当なのか。
 あの優しかった母と、彼が知った父母の研究の中身はあまりにも矛盾している。邑悸の遺伝子データを用いた、「BGS」の能力値移植実験。作り上げられたプロトタイプ――レイ。
 ――どちらが本当なのか。
 知りたくないような気がする。知らないままでいたいような気がする。きっと、それはどちらであってもひどく悲しいことだ。
 もし知ることができたなら――その時。涙は出るのだろうか。