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第三章

  1
  

 次々にデータの解析を進めていく邑悸の長い指先を、一貴は見る意図もなく見ていた。
 一貴が邑悸の「研究目的」を知ってから、既に十日が過ぎている。彼はまだ、自分の態度を決め兼ねていたし、それゆえそのことについて邑悸に問いただしてもいなかった。だが、いつまでも黙っているわけにもいかない。彼は歯切れ悪く切り出した。
「なあ、邑悸」
「なんだい?」
 邑悸は目も上げずに聞き返す。
 かつて大学にいた頃、彼の実験手腕は高く評価されていた。彼が研究分野に進まず、就職を選んだことを惜しんだ教授は数知れないという。だが今、彼はかつて培った技術を生かし着々と研究を進めている。決して大学で学んだことは無駄にはなっていない。いや――邑悸=社ともあろう男が、そんな無駄なことをするはずがない。大学でメディカルを専攻したことも、ARMADAに就職したことも、こうして重役まで上りつめたことも、全ては己の目的の為なのだろう。
 満足げな笑みを浮かべている邑悸から、一貴は目を逸らした。
「俺、やっぱりようわからへん」
「何がだい?」
「お前の……お前が何で……その、何でなん?」
 我ながら曖昧すぎて何を言っているのかさっぱり分からないが、
「僕の目的のことか?」
 邑悸はきちんと理解したらしい。彼は苦笑を浮かべ、一貴に向き直った。
「何故……と言われても困るんだけどね」
 一貴は指先で額を掻く。
「お前のすることがええことなんかどうか、俺には分からんねん」
「そんなこと、僕にも分からないよ」
「え?!」
 邑悸の答えに、一貴は驚いて顔を上げた。邑悸は軽く肩をすくめる。
「別に、いいことだと思ってやっているわけではない。ただ、そうしたいからしているだけのことだ」
「そのせいで死ぬ人が増えても、か?」
「…………」
 邑悸は静かに微笑したまま、一貴の質問には答えなかった。手首の腕時計に目をやり、立ち上がる。
「どこ行くんや?」
「うん? ちょっと人に会う約束があって」
「誰や?」
 警戒も顕に問うと、邑悸は彼が拍子抜けるほどあっさりと答えをよこした。
「アレックス=テラ=ムードだよ」
 軽く言い放たれたその名前に、一貴は目を剥く。前のDOOMの取締役で、今は教会に戻って極東地方の司教をしている男だ。前司教のカイル=エル=ムードの従兄弟だが最近この二人は不仲らしく、事態をさらに流動化させる原因となっているとか。
「何しに来んねん?」
「さあね」
 邑悸は微笑を絶やさない。きっと彼にはある程度の予測が付いているのだろう、と一貴は思った。
「良かったら同席してくれてもいいけれど」
「ええんか?」
「構わないよ。どうする?」
「分かった、行くわ」
 一足先に研究所を出ていく邑悸を追い掛けながら、一貴は先程の自分の問いがはぐらかされてしまっていることに気付いていた。

  2

 任務に出る準備をしていた硫平が部屋から出てきたのを見て、春樹は昼食を頬張ったまま眼を白黒させた。
「お前、任務なんだろ? そんな格好……」
「馬鹿」
 ごく普通のカジュアルなコートを着込んで、硫平はため息をついてみせる。彼のほっそりした、それでいて程良く筋肉のついた両足はシンプルなジーンズに包まれていた。肩から提げているのは、やや大振りなボストンバッグ。
「お前の家から出る時、俺がARMADAの制服をこれみよがしに着ていたことがあったか?」
 尋ねられ、改めて考える。
「……そういえば、ないな」
「自宅にARMADAの『BGS』が足繁く出入りしてるのを誰かに見られてみろ。お前ら、この町に住んでいられなくなるぞ」
「そ、そうか」
 硫平はさらにため息をついた。この春樹という男、抜け目がないように見えて意外と鈍い。結局は人がいいのだろう。
「そのままの格好で行くのか?」
「いや、レイとここで落ち合って……それから軍用車で移動する」
「ふうん?」
「着替えは車内ですればいいからな」
「レイもか?」
 何故かギョッとしたような顔で尋ねる春樹に、硫平はやれやれといった様子で眉を上げた。
「レイはロングコートで制服を隠して来ると思う」
「なるほど……」
「余計な心配は要らん」
「そうか」
 春樹は気まずそうに笑って髪を掻いた。硫平はわざとらしくため息をつく。これから身を危険に晒す任務に出るというのに、どうも緊張感にかける。それでもあれこれと春樹が話し掛けてくるのは硫平のことを気にかけているからで、そのこと自体はありがたかった。
「そろそろだな」
 硫平が時計を見、立ち上がった。そろそろレイが来る、というのだろう。
 ちょうどその時、玄関のインターフォンが鳴った。
「俺が出る」
 玄関に向かおうとしたキラを優しく留め、硫平が外の人物を確認した。そこに立つのは、ごく普通のデザインのコートを着たレイだ。足元のブーツはARMADA支給のものだが、一般人はそこまで気付くまい。その背後には、見覚えのある人影――警戒すべき相手ではない、と硫平は判断した。
 何の気なしに出迎えようと扉を開けた途端――硫平は驚愕して動きを止めた。
「よう、久しぶり」
 言葉とは裏腹に、少しも友好的ではない態度。
 レイの背後に立っているのはリィ=スピアフィールドだった。それはいい。だが、彼女がレイの頭に押し付けているのは……。
「お前」
 硫平の背後から、春樹が声を上げた。
「何やってんだよ!」
 レイはいつも通りの無表情だが、かすかに口角が引きつっている。
「聞きたいことがある。正直に答えろ」
 リィは鋭い目つきで硫平を睨む。――硫平は静かに事態を認識した。レイの後頭部に拳銃が押し当てられている……。だが、リィから殺気は感じられないし、レイが本気になればリィを拘束してこの状態を打開できる。レイは敢えて彼女に従い、リィの意図を知ろうとしているのではないか。硫平はそう思った。
「そんなことをしなくても」
 レイは冷静な口調で言った。
「聞きたいことがあるのなら、聞いてください」
「うるさい」
 リィは吐き捨てる。
「お前はあの男の秘蔵っ子なんだろ? だったら無駄だ」
「『あの男』?」
 春樹が尋ねる。
「何のことだよ、いきなり」
 硫平は呟くが、リィは語気荒く詰め寄る。
「しらばっくれるな!」
「ちょっと待てって、リィ。とにかく落ち着け」
「私は落ち着いている」
「とにかく銃を下ろせ」
 春樹は言った。
「でなければこの家には入れない。出て行け。この家にも二度と来るんじゃねえ」
「春樹?」
 硫平は振り向く。春樹の顔にははっきりとした怒気があった。普段は飄々としている彼には珍しい、本気の表情。――この男がどうやって下町でこれまで生き抜いてきたのか。その片鱗を見たような気がした。同時に、ひどく嬉しい気持ちにもなる。一般人である彼が、同じく一般人のリィではなく「BGS」であるレイのために怒るなど、あり得ない。
 リィは何とか気持ちを落ち着けたのか、声のトーンを落した。
「わかった。入れてくれ」
 レイの頭から、銃を離す。
「…………」
 春樹が無言で手を差し出した。リィはその手の上に銃を置く。
 彼らは黙って移動し、ソファにそれぞれ腰を下ろした。リビングで待っていたキラは、彼らを包む張り詰めた空気に気付き、固唾を呑む。
 すぐに、リィが口を開いた。
「この前言ったろう。格安のドラッグが出回り始めていて、一体誰が流しているのか分からないって」
「ああ」
 春樹と硫平が頷く。レイは緊張した面持ちを崩さないまま、目を少しだけ見開いた。彼女にとって、それは初耳の情報だったのだ。
「それがいやに気になっていて、ずっと調べていたんだが……今日、ようやく確信が持てた」
 そこでリィは一瞬言葉を切り、眼差しを鋭くして硫平を見遣った。
「その格安のドラッグは、ARMADAが流してる」
「え……?!」
 声が重なった。
「そ……それ、マジなのかよ?!」
 春樹の問いに、リィは頷く。
「後で証拠を見せる。流出ルートを全て辿ったからな」
 その間も、彼女の視線はずっと硫平とレイの間を行ったり来たりしていた。彼らの反応を監視し、何かぼろを出すのを待ち構えているようだった。
「そんな、何かの間違いだって。そうだろ?」
 救いを求めるような硫平の視線に、レイも頷く。
「ええ。そんなはずがありません」
 うろたえる硫平と、表情ひとつ変えずにあり得ないと跳ねつけるレイ。リィはため息をついた。
「お前たちは本当に知らないのか……? だが、事実は事実だ。間違いない。何人もの仲介人と子会社を通して、いろいろと小細工はしてあったがな」
 リィはゆったりと腕を組む。
「また、あの男の主導か? 本当に食えない男だ……一体あの男の目的は何なんだろうな」
「あの男……って、邑悸さんのことですか」
 レイが小さな声で呟いた。
「他に誰がいる?」
「だけど、格安ドラッグを撒いたってARMADAには何の得にもならない。何故そんなことをしているんだ?」
 春樹の疑問ももっともだ。リィは肩をすくめた。
「私が知るわけない。こいつらも知らんのに」
 と、硫平とレイに険しい視線を向ける。
「レイ、お前何か聞いてるか?」
 硫平の問いに、レイは首を横に振る。
「いいえ、何も……」
 先日会った邑悸は、いつもと同じ。優しくて、暖かくて、心地よくて。何も、変わったことなどなかった。
「自分の部下にもこれか? 全く、呆れたな。まるで独裁者だ」
「…………」
 硫平は絶句している。僅かな付き合いではあるが、リィの情報屋としての腕前が確かであることを、彼は既に良く知っている。――信じたくない。けれど……。
「DOOMの騒動のときは善人面していたが、結局は同じことをしているんじゃないか。いや、こちらの方がたちが悪い」
「やめて下さい」
 際限なく言い募りそうなリィの言葉を、レイが遮った。ゆっくりと、言葉を続ける。
「邑悸さんが何を考えているのかは知りません……ひょっとしたら良くないことかもしれない。そもそも何が良いことで何が良くないことなのか、私には分かりません。でも……それでも」
 レイは真っ直ぐにリィの瞳を見つめた。
「今ここで、私の前で、邑悸さんのことを悪く言わないで下さい」
「……レイ?」
 硫平が驚いた表情で彼女を見つめる。
「…………」
 リィだけでなく、春樹や硫平までもが何か問い掛けたげな眼差しでこちらを見ている。気付いていたが、レイは黙って視線を逸らしただけだった。
 ――レイは、僕を裏切ったりしないよね? 邑悸の言葉と、あの目の色が脳裏に蘇る。悲しげで、寂しげな。それでも彼は、真っ直ぐに私を見ていた。
 今はまだ彼の口から何も聞いていない。だから――彼を、信じる。そう決めているから。
 
 彼は、もう一人の私。私ではない、私。
 
 気まずい雰囲気を打開せねば、とでもいうように春樹が口を開いた時、
「あー、ええと、とにかく、だ」
 困った表情をしていた硫平が、言葉を発した。
「任務には出なきゃならないからな。行くぞ」
「はい」
 レイは頷き、それから春樹とリィの顔をちらりと見た。
「…………」
 何か言いたげな顔で、しかし何も言わずに、レイは一礼する。そして硫平の後に続き、彼女は振り向くことなく立ち去った。