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第七章

  1

 ミーシャの家は下町の裏路地を何度もくぐり抜けたところで、街外れの水路のすぐ側にあった。スラム街ほどではないものの、決して良い住み心地の良い場所とはいえない。戦後は寒冷化したとはいえ、夏場には虫の類に悩まされていることだろう。
「ここよ」
 古びたアパートメントの螺旋階段を二階に上り、彼女は二○三号室の前で足を止めた。レイと硫平は黙って後に続く。結局、彼女を家まで送り届けることになった。別にどちらかがそう申し出たり、依頼したりしたという訳ではない。ただの成り行きだった。
「…………」
 レイは辺りを気にするように見回すが、人の目どころか気配すら感じ取ることができない。ミーシャがそんなレイに気付いたのか、ふ、と笑みをこぼした。
「大丈夫。ここに住んでいるのは私たち姉弟と、身動きのできないお年寄りだけ」
 硫平は眉をひそめる。
「そんなに治安が悪くなっているのか?」
「……とにかく入って」
 ミーシャは鍵を開け、彼らを招き入れた。薄暗い玄関は狭く、同時に三人が立つことなどできない。特に硫平はミーシャの買い物袋をぶら下げていて、身動きすらままならなかった。
 ミーシャは靴を脱がずにどんどん中に入っていく。
「あ……」
 レイと硫平は戸惑い、顔を見合わせた。一般にARMADAの支配区域である極東地域では玄関で靴を脱ぐのが一般的だが、ここではそうではないのだろうか。
 ミーシャが振り向いた。
「そのままでいいわよ」
「……お邪魔します」
 レイがささやくように言って、足を踏み入れる。ミーシャはくすりと笑った。
「どうした?」
「いえ」
 硫平の問いに、彼女は首を横に振る。
「意外だっただけ。ARMADAの『BGS』ってもっとおっかない人たちだと思ってたから」
「……そうか」
 硫平はそれ以上何も言わなかった。彼女の認識は一般市民の持つものと大差なく、今更それをどうこういうつもりはない。かわりに、別のことを聞いた。
「荷物、どこに置く?」
「キッチンならどこでも……ありがとう」
 硫平は頷いて、狭いキッチンに足を踏み入れた。不躾にならない程度に見回す。
 壁紙は汚れ、お世辞にも清潔そうには見えなかったが、それは古い建物のようだから仕方がない。ゴミや洗い物がたまっていないのは彼女の努力の賜物なのだろう。
 一方、レイはミーシャの後について奥へと向かった。
「姉ちゃん!」
 少年が走ってきて、ミーシャの腰に抱きついた。
「ルカ」
「おかえり」
 顔を上げたルカは、レイに気付いて顔を強ばらせた。恐怖と嫌悪。こんな幼い少年にまで、ARMADAの「BGS」は忌み嫌われているのか──。レイは顔を背ける。彼の視線が痛かった。
 ミーシャの声がする。
「大丈夫。姉ちゃんはあの二人に助けてもらったのよ」
「……そうなの?」
「ええ。命の恩人なの」
 レイはおそるおそるルカと呼ばれた少年を見下ろした。ミーシャと同じブロンドの髪と、エメラルドグリーンの瞳。年は春樹=辰川の妹よりも幼いだろう。ルカはレイと目が合うとぴくりと震えたものの、すぐに深々と一礼した。それが、姉の恩人に対する精いっぱいの感謝の表現なのだ。レイはそれで十分だ、と思った。
 キッチンから硫平が顔を出す。
「お前ら腹減ってるんだろ? 俺がなんか作ってやろうか?」
「貴方が?」
 ミーシャは目を丸くした。レイも同様の表情である。硫平は苦笑した。
「料理、得意なんだ。ちゃんと弟さんの口にも合うように作ってやるからさ。キッチン使っていいか?」
「え、ええ……」
 彼に押し切られたような形で、ミーシャは頷く。
「じゃあ、レイ」
 硫平は彼女に頷いてみせる。それ以上の詳細は口には出さないが、レイにはすぐに分かった。ミーシャから、少しでも情報を聞き出すこと。
 この街が、いや、この世界が、今どんな状況にあるのかを知らなければならない。ARMADA内部にいたのでは分からないことを、知ることができるかもしれない。真実に近づくために。、今は少しでも情報が欲しかった。
 「BGS」が一般人に話を聞くときは、一対一が原則である。最低限、「BGS」の数は一般人よりも少ないことが望ましい。さもなければ彼らは「BGS」を恐れ、委縮し、話など到底聞けなくなってしまう。ミーシャが女性であることも考慮して、硫平は自分よりもレイの方が聞き手に適していると判断したのだろう。
「ミーシャさん」
 レイは彼女に向き直る。
「なあに?」
 弟とそっくりな、綺麗な碧の瞳が瞬いた。
「教えて欲しいことがあるのですが」
「私に? 教えて欲しいって?」
 ミーシャはあっけに取られたように呟いた。レイは頷く。
「ARMADAの、『BGS』が?」
 再び首肯。
「何かしら」
 ミーシャは弟の肩に手を置き、古ぼけたソファに腰を下ろした。
 レイは立ったまま彼女を見下ろし、告げる。
「貴方がこの街で見たものを。教えて下さい」

  2
  
 
「…………」
 ミーシャはぐっと唇を引き結んだ。やがて、それを徐々にときほぐしていく。
「私は大したことは知らないけれど……ひとつだけ、言えることがあるわ」
 ルカが不安そうに姉の顔を見上げる。その髪を優しく撫でつけながら、彼女は毅然とした口調で言い切った。
「誰もが殺せる。誰もが殺される。もうそんな時代よ、今は」
 レイは目を伏せる。腿の両脇で握り締めた拳が、軽く震えた。
「DOOMだっけ? ドラッグを最初に作っていたの……それが摘発されて」
 ミーシャは曇った窓から外を眺める。いや、眺めるふりをしているだけかもしれなかった。
「BUISとCROMにDOOMの支配権がうつった。だけど、街に流れるドラッグは増え続けたわ」
「つまり……」
「BUISとCROMも、結局は同じ。ARMADA憎しってところは変わらなかったのね」
 彼女の薄い唇に皮肉の笑みが浮かぶ。
「今は、どうやら二種類のドラッグが出ているみたい」
 彼女は一度ゆっくりと瞬きをして、視線をレイに戻した。立ったままの彼女に驚いたようだ。
「ごめんなさい。適当に座ってくれていいのに」
「いえ、いいんです」
 レイは首を横に振り、
「ところで、二種類のドラッグって……」
「一つは以前からあるもの。もう一つは、最近出てきたもの。呆れるほど安いのよ」
 ミーシャはソファの側の小さなチェストから小さな紙包みを取り出した。レイの目の前で開かれるそれ。ミーシャの手のひらの上に、数錠のカプセルが零れ落ちる。表面は真っ白で、中身は見えない。
「これよ」
 彼女はそれを見つめながら、固い表情で言う。レイは静かに尋ねた。
「貴方は、飲んだんですか」
 ミーシャは首を横に振る。
「飲めなかった」
「…………」
「だって」
 ミーシャは顔を上げる。
「これを飲んだら……」
 かすかに声が震えていた。
「これを飲んだら、私は認めてしまうってことだもの。殺せるようになる代わりに、殺されてもいいって……そういう社会を、私は認めることになってしまうような気がしたの」
「…………」
「私、誰も殺したくないし殺されたくない。ルカだって殺させたくない。ルカに誰かを殺して欲しいとも思わない」
 彼女の手は弟を固く抱いていた。
「……ミーシャ、さん……」
 レイは呟く。
「あの、教会から来た――そう、カイルとかいう男」
 ミーシャは顔を伏せたままだった。
「呼び掛けているみたい。神に帰属して、その上で力を奮えって。もし『人を殺せる力』が恐ろしくなっても、神という拠り所があれば大丈夫だからって」
 レイは目を細める。神に祈ったからといって、その神とやらが何をしてくれるというのだろう。神に祈れば、椿は死ななかったとでもいうのだろうか。そんなわけがない。
「まあ、その人から直接聞いたわけじゃないけどね」
「彼は今、どこに?」
「知らないわ。彼に賛同する人を集めてるんでしょ? ゲリラみたいにね。街はドラッグを濫用したチンピラたちと彼の作ったゲリラと、それとARMADA。三つ巴で戦争ごっこやってるわよ。私たちはいい迷惑」
 彼女は吐き捨てる。そして、不意に遠くを眺めるような目つきをした。
「もし、神様がいるのなら」
 レイは黙って彼女を見つめていた。
「私たちはこんな目に遭っていない。どんなに辛くても何もしてくれない、少しも助けてくれない神様なんて、どうやって信じればいいのよ」
 レイは、彼女に答える言葉を持たない。
「私……私、力が欲しい」
 ミーシャの小さなつぶやきをとらえ、レイは聞き返した。
「え?」
「弟を守れる力が欲しい。さっきみたいな奴、貴方みたいに撃ち殺してやれる力が欲しい! 自分を、弟を守れる力が欲しい! ……だけど、怖いの……怖いのよ……!」
 ミーシャの震える肩に、レイは手を伸ばしかけて――やめた。人殺しの自分には、その資格はない。
 力、なのかもしれない。彼女を見て思った。誰かを守る為に人を殺すなら、それは確かに力だ。無論、だからといって許されるべき行為ではない。それでも、せっかくそう生まれついたのなら。誰かを守る為に。
「メシできたぞ」
 硫平の声に、彼女らははっとした。
「ごめんなさい、見苦しいところを見せたわね」
 ミーシャは毅然と頭をもたげる。レイは首を横に振った。
「こちらこそ、無理にお話をしていただいてすみません」
「いいの。――あら、美味しそうじゃない」
 ルカを立たせて、ミーシャは硫平がテーブルに並べたパスタを見遣る。細かく刻まれたハムと玉ねぎをバターで炒め、調味料で味を調えただけのシンプルなもののようだが、香りはいい。
「食えるときにしっかり食っとかなきゃな」
 硫平はルカの髪をやや乱暴に撫でまわした。ルカはくすくす笑い、ミーシャは小さく噴き出す。
「それにしても貴方が料理上手なんて、びっくり」
「そうか?」
「私も、意外でした」
「お前まで」
 レイが物静かに同意すると、硫平は軽く彼女を睨んだ。
「いつか、教えてくださいね」
 レイはそ知らぬ顔でそう続ける。硫平は驚いたように彼女を見つめ、やがて口元を緩めた。
「ああ」
 ――そう、いつかこの全てが終わって、平和になったなら。その時には、きっと。
「じゃあ、そろそろお暇するか」
「え?」
 驚いたように振り向くミーシャに、硫平は手を振る。
「俺たち、そろそろ戻る時間なんだ」
「そ、そう……何だか悪かったわね。世話になりっぱなしで」
「いや、こちらこそ邪魔したな」
 その時、レイが口を開いた。
「ミーシャさん」
 ミーシャはレイを見つめ返す。
「私……」
 レイは少し逡巡したようだったが、やがてはっきりと言い切った。
「貴方は、強いと思う」
 ミーシャは驚いたように目を丸くして――やがて微笑んだ。
「ありがとう……レイさん」