instagram

第一章

  1
  
 時は七年前に遡る。
 旧上海内の市街地に広大なキャンパスを有するARMADA第一大学。戦後に創立された他の大学と同じく企業によって設置されたものだが、本社近郊にあるということで一際レベルが高く、入学試験での倍率は年によって数十倍を優に超えていた。その競争を勝ち抜いて入学した学生は、その後も気を緩めることなく学業や研究に励んでいる。この大学で優秀な成績を収めれば本社への入社に便宜が図られ、将来の栄転までもが約束されるのだ。
 日が暮れる頃になっても、キャンパスから明かりが消えることはない。廊下に並ぶ数多い学生用ラボラトリのとある一室も多分に漏れず、煌々とライトが灯っていた。
「…………」
 一人の男子学生が黙々とデスクを片付けている。白衣はくしゃくしゃと無造作にたたまれて、椅子の上に放り投げられていた。引き出しを乱暴に開け、散乱するメモやレポートを取り出しては鞄に突っ込んでいる。分厚い書籍などは、まとめてダンボール箱へ詰め込んでいた。細面の顔は強張って、眼鏡の奥の瞳はほとんど瞬くことなく下を向いている。
「…………」
 最後にコンピュータにデータを全てデリートするパスワードを打ち込もうとした、そのとき。
「どうしても、気持ちは変わらないのかい」
 学生はびくっと肩を震わせて振り向いた。その様は、何かに怯えているようでさえある。背後に立つのは彼の所属していた研究室の教授――ジョセフ=サザーランド博士だった。年は四十過ぎ。二年前、異例の若さで教授に昇進したサザーランドが特に目をかけていた学生、それが彼だった。
「申し訳ありません……」
 学生は搾り出すような声で答える。
「でも、僕は」
「責めている訳ではない」
 サザーランドはゆっくりと歩みを進めた。痩せぎすの長身が、彼の隣に並ぶ。サザーランドの白衣からはいつも通り、薬品特有の匂いがしていた。
「それが君の希望だというのだからね……」
「……先生のご恩には本当に感謝しております」
「恩義など感じる必要はないよ」
 サザーランドは苦笑した。
「こちらこそ礼を言いたい。君と一緒に研究した三年間はとても楽しかった。できれば卒業後は君に助手になってもらいたかったのだが――」
「先生」
 彼はサザーランドの言葉を切るように声を押し出す。
 学生の目を見たサザーランドは、驚いて息を呑んだ。そこにあるのははっきりと――恐怖だった。
「僕は、駄目なんです。もう駄目なんですよ」
「何を……」
「僕は何を追いかけていたのか、一体何のために研究しているのか、分からないんです。きっと僕のしてきたことは罪だ」
「落ち着きたまえ」
 サザーランドの伸ばした手を避け、彼は叫ぶ。
「僕は真実に向き合うことが怖い……だから逃げるんです。怖くてたまらないから、尻尾を巻いて逃げるんです!」
「それは」
 サザーランドは訝しげに問いかけた。
「君の最後の研究に関係があるのかい? 確か、ヒトの『SIXTH』を組み込んだマウスを作っていたね?」
「…………」
「君は、一体何を見た」
「…………」
「何を知ったんだ」
 教授の顔が険しくなる。
「那岐君!」
「……失礼します」
 彼は――那岐は足元に置いていた鞄を掴み、サザーランドの側をすり抜けて足早に教室を出て行った。
「那岐君……!」
 サザーランドは追いかけようとしてやめる。ついたままのコンピュータにはいつのまにかパスワードが打ち込まれ、初期化を示す画面が点滅していた。――那岐の研究は、跡形もなく失われてしまったわけだ。永遠に。
 サザーランドは呟く。 
「シモン=那岐、か……」
 シモン=那岐。「SIXTH」を作り上げた男、シモン=ウェルナードの曾孫。第一大学卒業直前に失踪、主席だったにも関わらず卒業式には出席しなかった。それでも単位取得数は足りていたため、大学は彼を卒業扱いとした。
 その後の彼の行方を知る者は、誰もいない――。
 
 
  2

 DOOMの首脳陣が入れ替わり、事実上BUISとCROMによって乗っ取られてから、一ヶ月が経った。意外にもそれほどの混乱がなくスムーズに経営陣が入れ替えられたのは、ARMADAの――特に邑悸=社の政治的手腕によるものだといわれた。彼の地位に並び立つ者は、既にARMADA内にはいない。
 ARMADAがDOOMの経営には一切関与しないという方針を打ち出した事を、疑問視する経済評論家もいた。だが、大衆は企業の経営規模をできるだけ横並びにしようという良識ある判断であろうと推測し、結局はARMADAへの評価に繋がった。実際、この措置によって四大企業――今や三大企業であるが――の経営規模はかなり均等に近付いた。世界の安定の為には、この方が良いだろう。
 だが、ある程度裏事情に通じる者は――特にドラッグ絡みの情報通は――何かARMADAには他に思惑があるのではないかと憶測を飛ばし合っていた。
 春樹=辰川も無論疑いを持ってはいたが、彼の場合憶測を飛ばす必要もなかった。というのも、ARMADA内部の人間、硫平が居候しているからである。疑問に思ったことは彼に聞けば良いのである。
 しばらくの間はARMADAに戻っていた硫平だが、「ドラッグ汚染地域における治安状況の監視」という新たな任務を与えられると同時に、また春樹の元へとやってきた。今回は辰川家に半ば住み込みの状況である。
 同僚の死に落ち込んでいるであろう彼に対して、どう接すれば良いかとはじめは頭を悩ませた春樹だが、硫平はまるで何事もなかったかのように振舞ったので、少々拍子抜けしたほどだった。――本当に、彼がその痛みを克服できたのかどうかは分からないが、せっかくの彼の気遣いを無にすることもない。
 春樹は毎日のように、硫平にARMADAの内部事情を聞き込んでいる。しかし、成果はほとんどなかった。
「知らんものは知らん」
 春樹の部屋の椅子に腰掛け、硫平は不機嫌にそう言った。春樹は唇をとがらせる。
「何でだよ。お前、ARMADA内の『BGS』っつったら超一級の超教育された超エリートなんだろ?!」
「超、超、うるさい。それと俺が上層部の動きを知るのとどう関係があるんだ」
「…………」
 春樹は首を傾げた。
「……そういうものか?」
「とにかく、俺は知らないんだよ」
 硫平は憮然としたまま、先程春樹が頼んでキラが運んできたコーヒーを、我が物顔に啜った。
「俺たちが今受けている任務は、大体が既に流通してしまったドラッグの摘発と廃棄、あとは銃火器の取り締まりだからな」
「へえ……」
 思い出したように、硫平が言った。
「そういえば、今日レイがこっち来るぜ。知り合いだろ?」
「お前と合流するのか?」
「ああ。だから、聞くならあいつに聞けよ。多分、今『BGS』の中で一番邑悸さんに近いのはあいつだからな。まあ、答えてくれるかは知らんが」
「え? 何で? 新人なんだろ?」
「…………」
 硫平が黙って答えないので、春樹は独り言のようにその名を口にした。
「邑悸=社……か」
 ――結局全ての鍵を握っているのはこの男なのか。弱冠二十七歳にして、彼は世界を掌握している。硫平の言うところによると、温厚な優しい男らしいが……本当だろうか。
「わからんことはいろいろある」
 春樹は人差し指を天井に向かって突き上げた。
「ARMADAはDOOMに対する告発以来、教会に対しては何も動いていない。何故だ?」
「それは俺に聞かれても分からん」
「ドラッグの摘発だって後手後手で、本当にやる気あるのか?」
「市民全員の身体検査なんて、できないだろ」
「それはそうだけど……汚染地域はどんどん拡大してるんだぞ」
「らしいな」
 硫平はどこか投げやりだ。
「治安の比較的いい地域でもたまに売人がうろついているっていうんだから、どうなっているんだか」
「買ってるやつは自己防衛の為って言うんだが……やられたときにやり返せるようにって感じなのかな。今じゃ割と普通の人間でも手に入れている」
 硫平は複雑な表情を一瞬見せ、やがて鼻で笑った。
「『やられたときにやり返せるように』? 正当防衛なら人殺しもやむなしってわけだ。俺たちの存在は許せないくせにな。随分と都合の良い話だな」
「…………」
「……すまん」
 気まずげに黙り込んだ春樹に、硫平は小さく謝罪した。
「お前に言っても仕方ないな」
「いや……そう、気になるといえばもう一つある」
「何だ?」
「ここ一週間ほど前から、別口で格安のドラッグが出回ってる。並み居る情報屋が本気になって出所を探してるんだが、それが全然掴めない」
「それは初耳だ」
 硫平は興味を示したように片眉を跳ね上げた。ARMADAから回される情報の中にも、今のところそれについてのものはない。
「リィもお手上げだと言ってたよ」
「それは厄介だな……」
 情報屋としての彼女の手腕を、既に硫平は知っている。あのリィが手こずるとは、相当だ。
「たしか」
 硫平以外の誰に聞かれる訳でもないのに、春樹はぐっと声を低めた。
「『SIXTH』ってめちゃ不安定な遺伝子なんだよな?」
「ああ」
 硫平は苦笑した。春樹に聞かされるまでもなく、良く知っていることだ。彼らは「SIXTH」について最先端の知識を教え込まれている。というよりも、あらゆる分野において最高の教育を受けているといっていい。知識は武器だ、という思想は邑悸のものだと硫平は聞いている。己を知ること。他を知ること。それが自分の身を守るのだ。
「両親とも『SIXTH』保持者でも子供は『BGS』ってこともあるし、逆もあり得る。『BGS』の発現形質は何故か遺伝しないんだ。つまり、もし俺に子供が生まれても『BGS』だとは限らない」
 思わず春樹は硫平と仲むつまじく新婚生活を送るキラの姿を思い浮かべ、頭痛を感じて手を額に当てた。――何故そんな図が浮かんだのだろうか。
 硫平はきょとんとして春樹を見ている。
「……どうした?」
「な、何でもない。とりあえず、そういうわけだから変なドラッグなんかを使ってると、マジで『SIXTH』が働かなくなる可能性があるんだよな」
「そうだな。不可逆的に、な。もう元には戻らないかも」
 あっさりと頷く硫平に、春樹は怪訝そうな目を向けた。
「お前はものすごく冷静だけどさ、実はこれってかなりヤバいことじゃないか?」
「そうか? 別に俺はそうは思わないけど?」
「何で?」
「たいしたことじゃねえんだよ。『SIXTH』があるかないかなんて」
 硫平はぎし、と椅子の背もたれをきしませた。
「そうかなあ……」
 春樹は納得しかねるようで、しきりに首をひねっている。
 硫平は真顔になり、春樹を見つめた。
「本当にヤバいのは、人間の中に誰かを『殺したい』という気持ちが生まれたときだ。今までは誰かを『殺したい』と思っても、一般人にはできなかった。けど、ドラッグを飲めばできるようになる。その時にその感情をどうやって制御するか。だから、俺たち『BGS』の中でも、感情制御が訓練の一番基本なんだ」
 硫平は訥々と語る。
「俺たちがARMADAの外に出ると嫌な思いばかりするからな。本気で『殺してやりたい』って思うほど頭にくることもあるんだよ。でも、やっちゃいけない。思うことと行動に移すことは違う。そうだろう?」
「……ああ」
「けど、一般人は今までそういう訓練を受けていない。むしろ、どれだけ暴力を奮っても『殺せない』のだから『死ぬことはない』と思い込んで、やりたい放題してきたやつもいる。俺が心配なのはそっちの方だよ。思うことと行動に移すことが直結しているんじゃないかって」
「…………」
 春樹は言葉を失っている。硫平は彼の緊張をほぐすかのように、小さく笑ってみせた。
「とりあえず、その格安ドラッグの件は邑悸さんに報告しておく」
「頼む」
「ああ。それじゃ」
 硫平は席を立って、春樹にあてがってもらった自室に戻っていく。コーヒーは、空になっていた。
「…………」
 春樹はぼうっとその背中を見送る。
 ――誰かを、殺したいと思う時……。今の彼にはそんな感情など想像できなかった。重い。とてつもなく重くて、暗い。
 だが硫平らは――「BGS」はそれとずっと向き合っている。ただ彼らが生まれもった遺伝子のために、ずっと。
「そりゃあ強くもなるよなあ……」
 春樹は天井を見上げて呟いた。――少しだけ、「BGS」の何かが分かったような気がする。ただの、勘違いかもしれないけれど。