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第六章

  1

 「BGS」に関する研究を行なっていた邑悸の両親は、彼らの息子が一般人と比較して、さらには「BGS」の中でも突出した能力値を有していることに気がついた。この能力を他の「BGS」に移植することができれば、効率良く有用な「BGS」を「生産」できる。
 非人道的な考え方ではあるが、そもそも「BGS」に対して人道的な扱いを求めるなど所詮無駄なことだったのだろう――それがたとえ自らの息子であったとしても。
 やがて、彼らは遺伝子操作を行って邑悸の能力値を移植した「BGS」のプロトタイプを作り上げた。
「それが――」
 邑悸はレイを真っ直ぐに見つめた。
「君なんだ。レイ」
「…………」
 彼女の眼が大きく見開かれる。
「え……?」
「君のご両親が誰なのかは、僕にも分からない……だが、僕の両親は禁じられていたはずの胎内診断を行い、君のご両親から匿名で『BGS』の受精卵の提供を受けて、遺伝子を操作した」
 言葉の一つ一つがレイを傷つけるのではないかと、邑悸はそれだけを恐れた。
「以前、僕が暗殺者に襲われたとき、君は僕の危機を察知して駆けつけてきてくれたよね? ああいう風に僕らの深層意識が『共鳴』するのは、部分的には双子といっていいほどの、他人ではあり得ない量の遺伝子を共有しているからだと思う」
「…………」
 レイが何も言葉を発しないことが気になる。彼女は一体、邑悸の言葉を、そして彼の存在を、どう受け止めるのだろう。邑悸は言葉を切り、じっとレイを見守った。
 暫しの沈黙の後、少し蒼白になったレイの唇が、静かに動く。
「邑悸さんは、私のこと――邑悸さんのご両親が作った私のことが、憎くはないですか」
「え? ……いや、全然」
 思いもよらないレイの言葉に、邑悸は慌てて首を振った。そんなことは考えたこともなかった。レイに興味を持ちこそはすれ――そして彼の両親の思惑に巻き込まれてしまった彼女の境遇を思い遣りこそはすれ、憎むなど。
「それなら、良かった」
 レイはそう言うと、安堵したように微かな笑みを浮かべた。
「私は――血の繋がっている人を誰も知らなかったから。ひとりぼっちなんだと思っていたから……少しでも自分と繋がっている人がいて、それもこんなに身近にいて。誰にも秘密にしている、大事な話をしてくれるくらい、信頼してもらえて。嬉しいです」
「レイ……」
 やはり、彼女は自分とは違う。邑悸は改めてそう感じた。両親を含めた何もかもを憎んだ――憎み続けている自分とは違う。レイは誰に対しての非難も口にしなかった。むしろ、邑悸への信頼と親近感を深めているようにすら見える。
 ――何故、君は……。邑悸はその言葉が漏れないよう、少し唇を噛んだ。
「……あれ?」
 レイが小さく声を上げる。
 邑悸ははっと顔を上げた。レイの白い頬を、ぽたぽたと涙が流れている。
「どうして……椿が、あのときも、泣かなかった……泣けなかったの、に」
 透明な雫が顎から次々に滴る。それはシャンデリアの光を受け、まるで宝石のように煌いた。
「………レイ」
 邑悸の胸に痛みが走る。レイから伝わる痛み。ずっと昔に失ったはずの、心の痛み。
「すまない……友人の死に動揺している君に、こんな話を」
「違うんです」
 顔を上げて、レイは首を横に振る。
「話してくださったことは、嬉しかったんです。それは、ほんとうなんです……」
 ――社会に決して認められることのない存在、「BGS」。さらに自分は人工的に「作られた」存在だった。
 不自然な生き物。不自然ないのち。なのに、死ななくて良かったはずの椿が死に、自分は生きている。自分はどうして生きているんだろう? 何のために生きているんだろう? 自分の居場所はどこにあるんだろう?
 わからない。もう、何も、わからない。
 溢れる涙は留まることを知らない。邑悸はそっとレイの肩を抱き寄せた。
「レイは、レイだから。そうだろう? 君と僕が似た遺伝情報を持っていても、僕は君じゃないし君は僕じゃない。君は君だよ」
「…………」
 レイは彼の腕の中で、身じろぎもしない。
「君にいつまでも本当のことを隠しておくのは簡単だった。でも、そうしなかったのは、君がこの事実をきちんと受け止められると思ったから。君は自分のことについても、『BGS』のことについても、一般人のことについても、日頃から深く考えてくれている。真実はきっと君の想いに応えてくれると――そう思うよ」
 自分の言葉などきれいごとに過ぎない。邑悸は良く分かっていながらも、それをすらすらと口にした。自分の想いに応えてくれるような、優しい真実などどこにもない。彼はそれを一番よく知っているのに――。
 それでも、彼女には存在するのかもしれない。存在して欲しい。彼女の涙の透明さに、その思いを強くする。
 邑悸はレイの濡れた頬を拭った。彼女の涙の滴は、熱い。
「勘違いしないで。泣くなって言ってるんじゃない。僕は両親を殺したときも――泣けなかった。だから……できれば僕の分も、泣いて欲しい」
 僕の中は憎しみでいっぱいだから、こんなに綺麗な涙は作れない。
「…………」
 突然、レイは腕を広げて彼に抱きついた。彼は少し驚いたように眼を見開き、やがて彼女をしっかりと抱擁した。あたたかい。触れ合った部分からじんわりと優しくほどけていく。
 こんなに近くで誰かと触れ合ったのは、一体どれくらいぶりだろうか。レイの腕に抱きしめられた胸の、その奥が甘くしびれるようだ。
 何故、レイにいま話を聞いて欲しいと思ったのか。その答えが、この腕の中にあると思った。小刻みに震えている肩を慈しみたい。この胸の中で存分に涙を流させて、そして濡れた頬を拭って、泣き笑いでもいい、笑顔を見たい。――こんな想いを表現する言葉を、彼は知らない。
 レイは彼の分身であり、彼とは全くの別人でもある。だが、遺伝子上近しい関係にある彼らが互いの能力を引き出せることは間違いないし、実際それは一貴に見せた通りだ。それはあくまで感情を差し挟まない理屈の上での話で、元々邑悸はそれを目当てにレイを重宝していた。彼女を自分の右腕として使うことができるようになれば、無二の人材となるだろうと。いつも通り、全てを自分のために利用するつもりで。
 ――それが、うまくいかなかった。
 レイは感情をあまり表に出さない。だが、彼女が胸に秘めている想いが邑悸には伝わってくるのだった。彼女が任務に出るたびに迷い、悩み、傷つく――彼女の心の動きが、邑悸に響いてくる。
 やがて、彼女は邑悸に少しずつ心を開くようになった。それが、ひどく嬉しくて。
 邑悸の中を満たしている憎悪は、決して消えないだろう。だが、それ以外の感情があっても構わないのかもしれない。そんなことで、彼の目的は妨げられない。
 きっと昔の自分ならさっき一貴を殺していた。そうしなかったのは、彼に「友情」にも似た、そんな感情を抱いているからだ。それは、レイが椿に抱いていたのと同じような感情だろう。だからこそ、レイの痛みを理解できた。
 レイが与えてくれた――気付かせてくれた。今、ここにある自分の心。レイが抱きしめてくれた、この胸の中にある。

 邑悸の腕の中で、いつの間にかレイの呼吸が深く、ゆっくりとしたものに変わっていた。
「……疲れたのかな?」
 泣き疲れて眠ってしまったらしい彼女を、ソファに横たわらせてやりながら呟くが、ふとそれは自分にも当てはまるのではないかと思った。両親がいなくなってから、彼はただひたすらに勉学に、研究に、仕事に没頭した。ARMADAに入社してからも、常に頭脳を駆使し、働き続けている。彼を囲む部下は増える一方だが、それでも彼は変わらず独りだった。たった独りで、戦い続けている……。
 もしかすると――今、この腕の中にいるのはレイでなくても良かったのかもしれない。邑悸は皮肉っぽくそう考えた。自分に良く似た人間であれば誰にでも好意を持っていたのかもしれない。レイでなくても――自分自身を肯定してやるために、受け入れたのかもしれない。
「まあ、そんな仮定をしたって仕方がないよね」
 邑悸は胸にしなだれかかる彼女の寝顔を見て、優しく微笑んだ。あどけない表情。頬に流れたままの涙の痕が痛々しいが、邑悸がハンカチでそっと拭ってやるとすうっと消えていった。
 今、ここにいるのはレイ。側にいるのはレイ。それは事実で、それ以上でもそれ以下でもない。邑悸はそのことに満足している。
 ――けれど……。
「君が僕の目的を知ったら、一体どうするんだろうね」
 レイに話していない唯一つの真実をまだ胸に秘めたまま――邑悸は彼女の髪に、頬を寄せた。

 
  2

『しばらくARMADAに留まる』
 春樹がその簡潔なメールを受信したのは、夜半過ぎだった。アドレスから硫平からのメールだと分かったが、いつもは欠かさない署名も今回はついていなかった。彼らの詳しい活動内容は、春樹には知らされない。だが、昨日に何か大きな動きがあったのだ。そうに違いない。
 ――何か、良くないことがあったのか……。春樹はいらいらと机の角を叩く。
「しばらく硫平来れないって」
「そっか……」
 背後で小さなため息が聞こえた。こんな時間まで、キラは眠らずに硫平からの連絡を待っていたのだ。彼がARMADAから来なくなって数日。キラは春樹が思っていたよりも硫平に懐いていたらしく、随分としょげ返っている。
 思えば外回りの仕事が多い春樹は自然と家を空けることが多く、その間キラの相手をしていたのは硫平だった。――これじゃあまるで、硫平がキラの初恋の相手みたいじゃないか。そんなこと……。
 ――そんな、こと? 春樹は自分の口元を抑えた。
「今、俺……」
「はるちゃん?」
 怪訝そうな妹の声を聞き流し、春樹は頭を抱える。今、俺は何を思った? 何を考えた?
 ――硫平は「BGS」だ。「BGS」に妹をやれるか。そう思った。――「BGS」を巡るゴタゴタに巻き込まれるのはごめんだ、と。
「……これじゃあ変わらねえ」
 春樹はうめいた。
「俺だって、『BGS』を差別してるんだ……」
 いつもは意識にものぼらない。だが、それは本当の意味で自分に関わることではないから。こういったときにふと顔を覗かせる、本当の心。醜い、卑しい考え。
 「生まれながらに罪が在るなんて、おかしい。俺には納得できない」――かつて教会の大司教、カイル=エル=ムードに言った言葉。それは、ただの建前に過ぎなかった。こんな形で、自分の本心を思い知らされるなんて。
「硫平……」
 クールを装いながらも、どこか人懐っこい表情の青年を思い出す。年齢も近く、仲良くなれそうだ、事実少しずつ仲良くなってきた、そう思っていた。その気持ちに嘘はない。嘘はないのだが……。
「ごめん」
 春樹はつぶやいた。そして、贖罪のようにただ祈る。どうか、硫平が無事でありますように――と。