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第七章

  1

 頭上で誰かの声がしていた。懐かしい声音。
 レイは目を開けることなく、「枕」に頬を摺り寄せる。「枕」はいつも彼女が使っているものより固く、それでいて心地よくて暖かい。何かが髪に触れていた。大きくて優しい感触。それはほぼ一定のスピードで、彼女の髪を梳くようにゆっくりと動いている。
 もう少しここで寝ていたい。レイはそう願ったが、否応なく意識は覚醒に向かい、それに伴って次第に耳に入る音もはっきりしてきた。
「そう、指示通り発表して。分かったね」
「…………?!」
 聞き慣れた声。レイは弾かれたように身を起こした。ちょうど声の主と目が合い、にっこりと微笑まれる。手には通信機器。どうやら、回線を切り終えた後のようだった。
「おはよう、レイ」
 まるで恋人に向けるもののように、甘やかで心地よい邑悸の声。だがそれを聞いたレイの背中には、変に冷たい汗がどっと吹き出た。
「え?」
 視線を下に向けると、先程まで自分が「枕」にしていたのが彼の膝だと知れた。体には彼のコートが布団代わりなのか、すっぽりとかぶせられている。
「え……」
 顔に血が上った。声が上ずる。
「あ、あの、きのう、私……」
「ああ、あのまま君はここで寝てしまったんだ。疲れているのを起こすのもかわいそうだと思ったから、寝かせておいたんだよ」
 邑悸は何でもないことのようにそう言った。レイは真っ赤な顔で俯き、謝罪する。
「す、すみません……! その……邑悸さん、寝られなかったんじゃ……」
「大丈夫だよ。僕はどこでも、どんな姿勢でも寝られるから」
 本当は、昨晩は一睡もせずに様々な思考にふけっていた。だがレイの前ではそのような素振りは見せない。――寝顔はあどけなくて、可愛かったな。邑悸はくすりと笑った。眠るレイの傍らにいた一晩はずっと、かつてないほどの安らぎと幸せに満ちていて――レイが髪に感じた感触は邑悸の指だったのだが、彼女は気付いていないのだろうか。少し、残念だった。
 邑悸の、普段はきっちり締められているネクタイは外され、襟元も緩められている。それだけで随分印象が違って、レイを戸惑わせた。彼女は他の「BGS」と同じように、ARMADAの重役としての邑悸しか知らなかった。だが、今ここにいるのは肩書きを外した、プライベートな時間を過ごしている邑悸だ。そのことに気付き、レイは自分でも意外なほどにうろたえる。
「本当に、すみません……!」
「もういいよ。起こさなかったのは僕だ。ところで」
 口を切り、壁にかかった時計を見遣る。
「そろそろ戻った方がよくはないかい? 僕のオフィスから朝帰りなんて噂が立ったら、君、困るだろう?」
「は……はい、戻ります」
 邑悸はくすくすと笑う。普段が冷静沈着なレイの狼狽ぶりを楽しんでいるかのようだ。
「別に僕は困らないから、ゆっくりしていってもいいけれど」
「いえ、失礼しました」
 体を強張らせたまま、レイは礼をしてくるりと扉の方に向かう。その背中を見ていた邑悸は、レイがオフィスから出て行こうとした寸前、何故か――その腕を掴んでいた。振り向こうとするのを制止し、彼女の肩に腕を回す。そっと抱き寄せると、彼女の華奢な体はあっさりと彼の胸の中におさまった。
「……邑悸さん?」
「レイ」
 レイの肩口に顔を寄せ、邑悸は小さな声で囁いた。その声に茶化すような調子はない。それどころか、それはひどく真剣な――。
「君は、僕を裏切ったりしないよね?」
「…………」
 レイは一瞬口を噤んだが、やがて邑悸の腕の中で身を捩り、彼の顔を見つめた。
「はい」
 頷いて、笑顔を見せる。彼女の声はいつものとおり、優しく澄んでいた。
「私は、邑悸さんを信じていますから」
「…………」
 黙って邑悸が腕の力を緩めると同時に、レイはもう一度礼をしてオフィスを出て行く。
 残された彼は、ひどく当惑していた。腕に残る柔らかな感触と暖かな温度。とても心地良かった。あのままずっと、彼女を抱きしめていたいと思うほどに……。
 いや、そんなことが許されるはずはない。邑悸は軽く首を横に振った。
「僕は君の信頼に値するような人間じゃないんだけどね……」
 ――それでいながら何故レイにあんなことを言ったのか。邑悸自身、その理由は分からなかった。
 だが一つ、分かっていることは……。邑悸は唇を人の悪い笑みに歪めた。全てが彼の思惑通りに動いているということ。ただそれだけ。そして、彼にとってはそれで十分だった。

  2

 街は騒然としていた。早朝にもかかわらず、である。通りすがりざまに勢い良くリィの肩にぶつかった者も、ひどく慌てているようであった。街中の皆が慌てている。焦っている。
 細い眉を寄せ、鋭い眼差しで真っ直ぐ前を見据え、彼女は歩く。目指すのは春樹=辰川の家だ。
 インターホンを鳴らすと、すぐに春樹が出た。
「私だ」
 声を聞かせるだけで誰か分かったのだろう、すぐに玄関の鍵は開けられた。
「よう」
 軽く片手をあげての春樹の挨拶に答えることもせず、リィはため息を吐く。
「大変な事になっているな」
「あれだろ?」
 居間のテレビを指差し、春樹は言う。それはこの早朝からずっと放映されている緊急ニュースで、そしてそれが街の混乱の原因だった。
 ――ARMADAがDOOMのドラッグ製造を告発。さらに、そのドラッグとは「SIXTH」の働きを抑制して殺人を誘発するものだと発表。硫平らが持ち帰ったディスク内に保管されていたDOOMの内部資料も部分的にではあるが公表された。当然、他の四大企業、BUISとCROMもDOOMに対する非難声明を相次いで発表、DOOMは窮地に立たされている。
 政治評論家たちの見通しによれば、恐らくDOOMはこのまま存続することはできず、他三企業によって実質的に乗っ取られる事になるだろうという。
 戦後初めて、世界の均衡は大きく揺らぎ始めていた。
「やられたな。DOOMは完璧にハメられたんじゃないか?」
「そういうことだろうな。ARMADAの方がうわてだったってことだ。ARMADA……というよりも、あの邑悸=社という男だろうが」
「それにしても、こんな大混乱を起こしてどうするつもりだ?」
 春樹は頭を掻いた。
 ARMADAの宣言は一般市民の中に大きな波紋を広げつつある。ドラッグ汚染地域に指定されている地区の住民はパニック状態といっていいし、その次に汚染度の高いとされた春樹たちの町でもほとんど事情は変わらない。
 この一世紀の間、「殺人」というものから遠く離れた世界で暮らしていた――少なくとも当人たちはそのつもりだった一般人にとって、その単語は刺激的すぎた。
「気になる事がある」
 ぽつり、とリィは呟いた。
「ARMADAは教会のことに全く言及していない。DOOMと組んでドラッグ製造にも関わっていた可能性が高いのに。いくらなんでも、片手落ちじゃないか」
「そういえば……」
 春樹ははっと息を呑む。リィは顎をつまむようにしながら天井を見上げた。
「大騒動が起きる事なんて、邑悸=社にとっては予想済みだろう。だとしたら、彼はこの事態を利用する気なのかもしれない」
「何にだ?」
「さあ……そんなことまでは知らないが」
 リィは肩をすくめた。
「そりゃあそうか……」
「そういえば、硫平は? 最近姿を見ないが」
 リィの指摘に、春樹は苦い表情を浮かべた。
「しばらくこっち来られねえってさ。昨日ドラッグ絡みの大きな任務があって、どうやら仲間がひとりドラッグ服用者に殺されたらしい」
「……ああ、ニュースにあったな」
 一般人として「BGS」には反感を持っているはずのアナウンサーも、さすがに十代の少女がドラッグ服用者に射殺されたというニュースには痛ましげな表情をしていた。だが、リィはそのことさえARMADAが世論を味方につけるための方策ではないかと思えてしまう。考えすぎかもしれないが……。
「それの責任を感じてるみたいでな。あいつ、リーダーだったみたいだし」
 それは、今朝春樹が何度か硫平とメールのやりとりをして聞き出したことだ。彼は当たり障りのない範囲で断片的にしか情報を漏らさなかったが、今日のARAMADAの発表と合わせれば春樹にも大体の推測はつく。
「『BGS』にとって、自分達が殺される側に回るってのは想像の範囲外だったか?」
 どこか皮肉っぽく言うリィに、春樹は違うと首を振る。
「そんなんじゃねえよ。あいつが悩んでるのは」
「じゃあ何だ?」
「あいつが悩んでるのは、きっと……」
 春樹は口を開いたが、また閉ざした。
「やめた」
「え?」
「俺はあいつじゃねえから、あいつの本当の気持ちなんて分からない。分からない事を分かったふりして喋るのは嫌いだ。勝手なことは言いたくない」
「そうか」
 リィは苦笑して頷いた。春樹は変なところで生真面目な奴だ。リィは、彼のそういうところが一番気に入っている。
 実際のところ、春樹にはある程度硫平の心理の想像はついていた。ずっと「殺す側」にあり、その行為の罪について悩み続けてきた自分達が突然「殺される側」に周った。そして、「殺す側」に立ったのは「BGS」たちの罪悪感の対象であった一般人だ。しかも新しく「殺す側」に立った者たちは、未だ自分たちの行動の意味が分かっていない。人を殺すという行為が人に与える、本当の痛みを知らないまま、ただ人を「殺す」ことのできる「力」だけを振り回している。
 思い出すのは別の「BGS」の少女の悲鳴だ。硝煙を吐く銃を手に震えながら立ち尽くしていた彼女の、呆れるほど小さな背中。レイ=白瀧が、初めて人を殺した日。
 リィが、不意に辺りを見回した。
「そういえばキラも見あたらないな?」
「キラ……は」
 春樹は途端にぷいっと横を向いた。
「硫平と話してる。オンラインで」
「……は?」
 リィはきょとんとした。
「何話してるんだか知らねえけどな! ARMADAは絶対盗聴か記録はしてるから、妙なことは言うなとは言ってある」
「……ふうん」
 リィは人の悪い笑いかたをした。春樹は眉をひそめる。
「……何だ」
「別に? お前こそどうかしたのか?」
「どうもしねえよ!」
 そういう春樹の眉はつりあがっている。
「ふん……」
 リィは形の良い顎をつまんで首をかしげた。
「いつのまにか、すっかり小舅だな」
「やめろ!!」
 春樹の叫び声を聞きながら、リィは可笑しそうに笑っていた。硫平が「BGS」であることを忘れたわけではない。だが、この兄妹にとっては既にそんなことはどうでも良いのではないか。少なくとも、春樹にとって硫平は友人なのだ。それは間違いない。それならそれで良い。リィはそう考え、そしていつの間にかそう思うようになっていた自分に対して驚いた。春樹らだけでなく、どうやら自分も変わったらしい。そんな自分を、リィは少し好ましく思うのだった。