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第一章

  1

 邑悸=社暗殺未遂事件から、三日が経過した。彼は世間には全く知られることなく、未だ入院生活を続けている。慢性的に過労気味でもあったし、ちょうどいい休養になる。そう語った彼に、一貴は目を丸くしながらも頷いてみせた。
 入院しているとはいっても、彼はほぼいつもどおりに執務をこなしていた。「BGS」たちにはドラッグの流通に関しての調査を行わせ、スタッフには遺伝薬理的にドラッグを研究させている。ひっきりなしに上がってくる報告の全てに目を通し、チェックして、新たな指示を与えた。病室にこもっていられる分、かえって効率が良いくらいである。
 対外的に彼が表舞台に立たなければならない用事は、今のところない。邑悸は、この思いもかけない休息を楽しんでいるかのようにすら見えた。――だが、それはとんでもない思い違いだったのだと、後に誰もが悟ることとなる。

 退院を二日後に控えた午後、病室の扉がノックされた。邑悸には既に誰が来たのか分かっている。この病棟には最重要人物のみしか入院できず、警戒態勢もかなり厳重だ。病棟の入り口で目的の病室とアポイントメントの有無を確認し、邑悸に承認を求める。さらに虹彩の模様で本人確認をした後、病棟に足を踏み入れることが許される。それも病室までは付き添いとして警備スタッフがついてくるといった徹底ぶりだ。
「どうぞ」
 邑悸は軽い調子で促した。扉が開き、硫平が入ってくる――。
「ん?」
 邑悸は驚いて彼を――というよりも、彼が腕いっぱいに抱えている花束を見つめた。白のレース地のフィルムに包装された、ピンクのチューリップ。硫平は困惑した表情を浮かべている。
「……それ、どうしたの?」
 さすがの邑悸も、ただそう尋ねるより他になかった。
「あの……」
 硫平は困惑顔のまま答えた。
「その、春樹=辰川に妹がいるんですけど……今日はお見舞いに行くって言ったら『お見舞いには花束を持って行かなきゃだめ!』って、その、勝手に準備を……あ、ちょっと邑悸さん?」
 いきなりベッドの上で体を折り曲げた邑悸に、硫平は驚いて駆け寄った。
「く……くく……」
 苦しげな――笑い声。
「……邑悸……さん?」
「硫平君、似合わないよ、それ……」
 邑悸は微笑んでいることは多いが、声を上げて笑うのは珍しい。硫平の顔にさっと朱がさした。確かに、体格のいい硫平とピンクのチューリップは全くといっていいほど釣り合っていないという自覚はある。
 自分が思っていたよりもずっと、硫平は例の下町の兄妹とうまくやっているらしい、と邑悸は思った。
「そんなに笑わないでくださいよ……!」
「はは、ごめんごめん」
 邑悸は硫平に向き直り、笑いをおさめた。
「お花はありがたく頂こう。その子に宜しく言っておいて」
「はい。あの、勿論お見舞いの相手が誰なのかは言っていませんから」
 顔を引き締める硫平に、彼は頷く。
「君が守秘義務を怠るなんて、僕は思いもしていない」
 受け取った花を脇のテーブルに置き、邑悸は硫平に向き直った。表情は既に司令官のそれである。
「では、本題に入ろう」
 ベッドから手を伸ばし、スクリーンに地図を映し出した。
「先日からの君たちの調査から得られた情報を統合して、例のドラッグを生産しているプラントの位置を絞り込んだ」
 赤く着色されているところがそれだろうか。
「そのうち、一番あやしいところがこれなんだけどね」
 ポインターで指し示し、拡大する。
「ちょっとここを、潰して来て欲しい」
「……はい?」
 思わず間の抜けた声を漏らした硫平に、邑悸はにっこりと微笑んだ。しかし口にするのはあくまでも剣呑な台詞である。
「つまり、このプラントを所持している組織を根こそぎ潰してしまいたいんだよね」
「…………」
 硫平は緊張した面持ちでごくり、と唾を呑んだ。邑悸は淡々と言葉を紡いでいく。
「チームとしては、君と、レイ=白瀧と――あと数人、能力の高い者で編成するつもりだよ。チームリーダーは君」
「はい」
「春樹=辰川には引き続き協力してもらうこともあると思う。もっとも、実戦には参加させないけど」
 邑悸は春樹が何故他の市民のように「BGS」を毛嫌いしないのか、またどうして積極的にARAMADAに協力しているのかは知らない。不可解でないというわけではないのだが、この際利用できるものは利用するのみだ。彼の動向が、邑悸の妨げになることはないだろう。
「言っておくが、プラントの警備に当たっている人間や中にいる人間は、みんな例のドラッグの服用者と考えていいだろう。危ないと思ったらすぐに反撃して構わない。プラントで保存されているデータはできれば持って来て欲しいが、中に生きている人間が誰もいなくなった時点でプラントは爆破。いいね」
「はい」
 硫平は背筋を伸ばし、身じろぎもしない。
「最終的な詰めの打合せは今週中にやるつもりだ。準備しておきなさい」
「はい……あの、質問をしても?」
「もちろん」
 促され、硫平は胸に浮かんだ疑問を口に出した。
「プラントを爆破したら大騒ぎになりませんか? 市民を巻き込む危険は……」
「ああ、大丈夫だ。その点は安心していいよ」
 邑悸はくすりと笑って硫平に言った。
「プラントの爆破は『事故』として発表される予定だ。それに――」
 ぞくり、と硫平の背筋に悪寒が走る。邑悸の瞳に、ひどく昏い光が灯っていた。底冷えのする、凄みのある眼差し――だがそれはすぐに消えて、いつもどおりの彼の表情に戻る。
「メディア対策は広報の仕事だ。君が気にする事ではないよ」
「……はい」
「じゃ、ご苦労だけど春樹君と、あと情報屋の……リィさんだったかな? 彼女にも引き続き協力してもらってくれ。妹さんにはお花のお礼をことづけておくよ」
「分かりました」
 ――硫平は邑悸の病室を出て、その場で深呼吸をする。額に浮かんだ冷たい汗は、まだひく気配はなかった。

  2

 病棟を出た硫平は自室で私服に着替え、春樹の家へと戻った。仕事がまだ残っている。
「おお、どうだった? お見舞い」
 春樹はいつも通り、コンピュータの前の椅子にふんぞり返っている。その揶揄するような口調に、
「春樹!」
 と、硫平は思わず声を荒げた。
「お前、あの花束は俺には似合わないって思ってただろ?!」
「かなりな」
 春樹は硫平とピンクの花束の組み合わせを思い出し、小さく噴き出した。
「なら言ってくれよ! 俺、お陰で先方に大笑いされたぞ?!」
「まあまあ。笑いは体にいいんだってさ」
「そういう問題か?!」
「まあまあ、落ち着けって」
 春樹はにやけ顔のまま、硫平に座るよう促した。ソファの真向かいに座らせると、春樹は人差し指を立てた。
「じゃあ聞くけどな。お前、せっかくキラが買ってきた花束を『似合わないから持って行かない』なんて言えたか?」
「う……」
 硫平は言葉に詰まる。そのキラは、硫平が戻ってくると同時にお茶とお菓子の準備を始めている。
「それもそうだが……でもお前は兄貴だろ? お前から何か言ってくれればいいじゃないか」
 いつも大人びた振る舞いを見せる硫平が、子供のように食って掛かってくる。その様子が面白くて、春樹は余計に笑みを深めた。
「いくら兄だからって……あ? どうした?」
 不意に、硫平の顔から表情が消えた。気付いた春樹が、気遣わしげに声を掛ける。
「いや……」
 硫平は苦笑を浮かべ、首を横に振った。
「なんか、ちょっと羨ましいなって思ったんだ。兄妹……っていうか、家族のいるお前らが。今更だけど」
 春樹は躊躇いがちに尋ねる。
「そういえば、お前の家族って……」
「知らない」
 硫平は首を横に振った。
「けど、話に聞いたところによると俺には妹がいるらしい。勿論会ったことはないし、向こうも会うつもりもないだろうけど。それにその妹も――俺の存在なんか知らないはずだ」
「…………」
 ――だから、こいつはキラに優しかったのだろうか。春樹はふとそう思った。硫平はぽつりぽつりと話を続ける。
「両親にとっちゃ、俺は『いなかったことにしよう』てなものだろうよ。俺だけじゃなくて、どの『BGS』もな」
「お前ら、それでいいのか?」
 春樹がためらいがちに口を開く。
「生まれてすぐに両親から引き離されて……ARMADAに管理されて、社会から隔離されて……」
「違う」
 硫平は苦笑を深めた。
「引き離されたんじゃない。両親はすすんで引き渡すんだ。確かにARAMADAの『BGS』引渡し要請に法的拘束力はあるけど、そうでなくても引き渡すさ。それに関して揉めたなんて話は聞かない。そうだろう?」
「…………」
 春樹は思わず口をつぐむ。
「俺たちには選択の余地なんかないし、他に居場所もない。ARMADAに属している現状に対して疑問なんか持ったら、辛いのは俺たちだ。下手に悩みなんか増やしたくない……他のやつらは知らねえけど、俺はそうだ。勿論、邑悸さんのことは信頼してるけど」
「…………」
 春樹には言い返す言葉もなかった。その暗く淀んだ空気を、キラの澄んだ声がかき混ぜる。
「お茶、入ったよ!」
「あ。サンキュ」
 キラにも、硫平の言葉は聞こえていたようだった。キラと春樹は目を見交わし、お互いの複雑な表情を見合う。やりきれなかった。世間で言われるように、「BGS」が怖いとか、人間ではないとか、化け物だとか、そうは思えない。皆、「BGS」のことを知らないだけのだ。ARMADAに管理だか保護だかされているせいで、一般人の前に姿を見せるときといえば治安維持の任務に当たるときだけ。それでは永遠に理解し合うことなどできないだろう。
 偏見が原因の隔離なのか、隔離が原因の偏見なのか――永遠のいたちごっこのように春樹には思えるのだが……。

  3

 任務の概要は、すぐにレイのところにも届いた。椿の元にも同じ内容のものが届き、レイは私室にやってきた彼女とともに、その守秘ファイルを読んだ。
 ――ドラッグ密造容疑プラントの摘発、廃棄。
 もし、これが単なる容疑に過ぎないのならばいいのだが……しかし、これは邑悸自身が本腰を入れて作り上げたプランだ。間違いなく、このプラントでドラッグが密造されていると考えていいだろう。そこにいる者たちがあっさり投降してくれるかどうか。――ドラッグ服用者でなければ、あるいは……。
「…………」
 レイは瞑目した。そんなことはあり得ない。きっと皆ドラッグに汚染されている。そう考えた方がいい。
 また、誰かを傷付けなければいけないのか。自分の手を見下ろす。徐々に、血の匂いが染み付いてきたような気がしていた。いくら洗っても取れることはない、赤。
「……怖い」
 隣に座っていた椿がかすかに呟いた。
「え?」
 レイは振り向く。
 椿の右手が、小さく震えていた。彼女は俯いていて、顔は良く見えない。
「私……怖い」
「椿」
「こういうの、初めてなのよね」
 椿は無理をして微笑もうとし、失敗したようだった。青ざめた顔は引きつっている。
「確かに、今までにも誰かと交戦したことはある。でも……それは不測の事態だったし」
 確かに、椿はこれまでほとんど対人戦闘を前提とした任務についた経験がない。
「今回は違う……」
 レイの言葉に、椿はこくりと頷いた。そして呟く。
「こんな、殺し合いみたいなこと……って………」
「…………」
 ――殺し合い。その言葉が重く圧し掛かる。二人の少女の肩は、それに耐えるにはあまりにも細すぎた。