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第八章

  1

 その日も硫平は辰川家を訪れていた。これほど頻繁に外出するのは硫平にとって初めてのことだったし、「BGS」でも異例中の異例だろう。
 ARMADAの本社は小さな都市のように整備されているから、社外に出なくても不自由なく暮らしていける。実際、「BGS」である彼らはARMADAの外へは出たくないのが本音だ。だから、特に外出制限がなくとも彼らは任務以外で外に出ようとはしない。――外は、怖いから。
 硫平はARMADAから持参した通信機器を辰川家のリビングテーブルに広げ、手に入れた情報を集めては次々に整理していた。定期的に春樹の元を訪れるようになって二週間。リィや春樹が提供してくれたデータも数多くあるし、逆にこちらから手助けをしてやる場合もある。全てオンラインでやりとりできれば硫平がわざわざここまで出向く手間が省けるのだが、春樹の家まで専用の特殊な回線を引くわけにはいかないし、一般回線では簡単にクラッキングされてしまう。それではリィの同業者である情報屋たちに、美味しいネタを自ら提供するようなものだ。
 それはともかく――硫平は、徐々に春樹らに馴染みつつあった。
「結構……いいやつだよな」
 硫平は呟いた。春樹の事である。
 今まで任務に出たときに向けられる視線は、いつもその人間の持ち得る最大限であろう悪意が込められたものだった。――人殺し。殺人兵器。神に背く者。
「生まれつき、なんだがな」
 だからこそ、厄介なのかもしれない。誰にもどうすることができない、という意味で。
 だが、春樹もキラも、そして最近ではリィも、そういう目で自分を見ない。知らず知らずのうちに、硫平はずっと胸に抱いていた疑問を声に出していた。
「何でだろう……」
「何が?」
「わっ?!」
 不意に背後から顔を覗き込まれて、硫平は声を上げる。振り向くと春樹の妹、キラが立っていた。彼女は硫平をもう一人の兄のように慕っている。人を疑うことを知らない、無垢な少女だ。きっと春樹が過保護に育てているからだろう、と硫平は皮肉っぽくそう考えている。
「びっくりした……」
 手元のディスプレイをさりげなく消す。キラはしゅん、と眉を下げた。
「ごめんなさい。でもりゅうちゃん、真剣な顔で何か考えていたから……」
「…………」
 硫平は少し目を伏せた。
「キラに、聞きたい事があるんだけど」
「なあに?」
 澄んだ瞳の色を避けるようにしながら、硫平は口を開く。
「俺たちのこと……『BGS』のこと、知ってるんだろ? 人を殺せるってことは」
「う……うん」
 キラは少し困ったような表情で、おずおずと頷いた。
「じゃあ何で、怖がったり嫌がったりしない?」
「…………」
 キラは一瞬黙り込んだが、やがて小さな声で言った。
「前は、怖いと思ってた」
「…………」
「でもね」
 キラは思い出すように目を細めた。
「はるちゃんが誘拐された時、レイちゃんが家に来てくれて」
「ああ」
 硫平もそのことは知っていた。もう数ヶ月前になるか、レイの初任務のことである。
「泣いていた私を、ぎゅってしてくれたの」
 硫平は不思議そうにキラを見つめた。――あの、レイ=白瀧が?
「レイが?」
「うん」
 キラは微笑む。
「その時ね。何となく、お母さんみたいな……優しい感じがしたの。あ、お母さんは随分前に死んじゃったから、私は憶えてないんだけどね」
「…………」
「それにはるちゃんを助け出してくれたのは、りゅうちゃんたちだったでしょう?」
「……あ、ああ」
「この間もりゅうちゃんに助けられたのにお礼が言えなかったって、はるちゃん言ってた」
 案外律儀な男だ、と硫平は苦笑する。それでいて未だに面と向かって硫平には礼を言って来ない。照れがあるのだろうか。
「だからね。怖くないよ」
 キラは硫平の腕にそっと触れた。やわらかな、小さな温度。
「同じ人間だもの」
「…………」
 硫平は息を呑む。――同じ、人間。本当に?
「ね?」
 キラに念を押され、硫平はゆっくりと頷いた。
「……そうだな」
 ――同じ人間……か。本当に、そうなのだろうか。そう思って、いいのだろうか。
「そういえば」
 キラは思い出したように口を開いた。
「レイちゃんはどうしてるの? 元気?」
「この間ちょっと怪我したけど、それはもう治ったから心配いらない。元気だと思うよ」
「良かった」
 キラは微笑む。
「まあ」
 硫平は苦笑した。
「あいつはちょっと変わってるからなあ」
「変わってる……?」
「ああ」
 硫平は一人ごちた。
「いつも冷静で、無口で、何考えてるかわかんないんだ。任務で嫌な事だっていっぱいあると思うんだけど、全然何ともない顔してて」
 誰にも心を開かないというように泰然としている彼女に、時折何故かいらいらさせられる。邑悸の信頼は篤く、何らかの理由で贔屓されているのではないかと疑ったことさえある。
「でも」
 キラは少し首をかしげた。
「我慢してるだけかもしれないよ?」
「…………」
 考えもしなかった可能性に、ふと胸が衝かれた。――彼女が初めて人を殺害した時のことを思い出す。相手は年端も行かぬ少年だった。あの時、彼女はただ子供のように震えるだけだった……。
 あの時のことなど嘘のように静まっている、レイの深い色の瞳を思った。瞳の奥からはこちらをすべて透かし見ているようで、こちらからは決して何も窺い知ることはできない。まるでマジックミラーのような瞳。
「俺はちょっと、苦手だ」
 それだけを言って、硫平は苦笑を浮かべ誤魔化した。

  
  2

 その気持ちを何と形容したらいいのか、レイには分からない。ただ、知らないうちに大切な何かが失われてしまいそうな、どうしようもない漠然とした恐怖がそこにはあった。
 それに追い立てられるように、彼女は本社ビルの中に駆け込んでいく。
 「BGS」は邑悸直属の部下であるということもあって、ARMADA内では普通の社員よりもずっと高い地位にある。彼女の行動が見咎められることはなかった。
 レイはエレベータに乗り、最上階を目指す。そこはワンフロア全てが邑悸のオフィスとなっていた。「BGS」のカードを使えば、フロアまでは辿りつくことができるようになっている。ただしドアロックは内側からしか開けられない。
 焦燥感に胸を焼かれながらも、彼女はふと自問する。――どうして私、邑悸さんのところに行こうとしているんだろう?
「だって……」
 レイはぽつりと呟いた。
「私には、邑悸さんしかいないんだもの……」
 彼は、彼女をここへ連れて来てくれた人。ここにいる理由をくれる人。彼女にとって、唯一無二の存在。
 だから、今はただ邑悸に会いたい。彼の笑顔を一目みたい。そして、安心したい。
 ――邑悸さんなら、きっとこの恐怖を取り除いてくれる。レイはその根拠のない理由を何度も繰り返しながら拳を固く握り締め、エレベータのドアが開くのを待った。

  
  3

 ぶつかってくる青年の体を軽く避け、邑悸は指先で頬の血を拭った。
「ま、少しは怪我してた方がそれっぽくていいかな?」
 痛みなど少しも感じていない様子で、青年の殺気に満ちた眼差しを笑って受け流す。
 ――その時、不意に来客を示すアラートが響いた。
 通常ならば秘書が応対するのだが、今の時間は休んでいる。いや、襲撃を見越した邑悸があえて休ませていたのだが……。
「誰だ?」
 邑悸は眉をひそめる。この時間には誰のアポイントメントも入っていない。突然尋ねてくる可能性が最も強いのは一貴だが、今は会議中のはずだ。
 ――ドンドンドンドン!! 彼の部屋の扉が震えた。誰かが力任せに叩いているらしい。
「?!」
 青年は慌てた表情を浮かべ、鍵のかかった扉をちらりと見遣った。完全に防音・防弾設計になっているこの部屋の中には外にいる人物の声は聞こえないし、こちらの物音も外には聞こえないはずだ。
 だがその時、邑悸の脳裏に直感――としか形容できないが、微妙にそれとは違う何か――が閃いた。
「レイ?」
 一瞬の隙。青年はそれを見逃さなかった。
「くっ……?」
 腕を撃たれ、邑悸がさすがに眉を寄せた。貫通したわけではないが、肉が深く裂けている。ぽたぽたと血液が床に落ち、やわらかなカーペットにどす黒い染みを作った。
「レイが来たのか……じゃ、そろそろ終わりにするしかないな」
 その呟きと同時に、青年は眉間に何か固いものが突き付けられるのを感じた。
「な――?!」
 ――パン。唖然としたその声が終わるより早く、彼の額の真ん中に穴が穿たれた。
 邑悸は崩れ落ちた彼を眼下に見下ろす。しばらく無表情に見遣っていたが、やがて口元に冷ややかな笑みを浮かべた。
「だから言ったのに。君じゃ僕には勝てないって」
 死体に講義をしても仕方がないな、と思いながら、とりあえず彼の持っていた銃に入っていた弾と自分のに入っていた弾を入れ替える。彼の頭蓋に残った弾と銃に入っていた弾が同じでなければ、「自殺」には見えまい。簡単な偽装工作だが、とりあえずはこの程度でいいだろう。
 邑悸は淡々と言葉を続ける。
「君たちみたいに『SIXTH』を無理矢理薬物で押え込んでも、先天的に『SIXTH』を持たないもの、つまり『BGS』には絶対勝てないんだよ。反射速度では特に決定的に劣ってしまう。ごく最近の研究で明らかになったことだから、君たちも……それに、君の飼い主も知らないんだろうけど」
 邑悸は何の感慨もない目で死体を見ている。
「『BGS』は――この一世紀の間に、既に進化を遂げ始めているのさ。一般人の迫害から、生き延びるためにね」
 ――それに、僕が「人を殺せる」だなんて誰も知らないことだし……。言葉には出さずに、そう付け加える。
 弾を入れ替えた邑悸は身を起こし、非常回線をつないで保安部を呼ぶと、扉を開けた。外には蒼ざめた顔をしたレイが立っている。
「すみません、あの……」
 と、腕の傷に気付いたのか、レイは口を開けたまま息を飲んだ。
「レイ、助かったよ」
 邑悸は扉にもたれ掛かり、弱々しく微笑んだ。
「君が来てくれたせいで暗殺者は自殺した」
「暗殺者……?!」
 レイの顔が引き攣る。
「あ、あの、怪我……!」
 慌ててレイの差し出した手に、彼はそっとつかまった。温かい。邑悸はそれを握りしめる。
「うん、今保安部に連絡したから、すぐに来てくれるさ」
 邑悸はレイの蒼白な顔を見つめた。
「で……君はどうしてここに? 何か用があった?」
 答えを予想していながら、彼はそ知らぬ顔で尋ねる。
「え……あの……」
 レイは困ったように俯いた。
「その、うまく言えないんですけど、嫌な予感がして……それが邑悸さんに関わってるような気がして……」
「勘、みたいなもの?」
「多分……」
 戸惑うように邑悸を見上げるレイに、彼は安堵させるための笑みを浮かべて見せた。レイの答えは、彼の予想通りだ。
「僕を心配してくれたってことだよね?」
「は……はい」
「だったら、嬉しい」
 腕をつかんでいた手を動かし、彼女の髪をそっとなでる。
「……はい」
 レイが控え目な、少し照れたような微笑を浮かべたことに邑悸は満足した。元々感情表現に乏しく他人に心を開かないといわれているレイが、自分に対しては別だ。それはとりもなおさずレイが邑悸に心を許している証で、自分が彼女の特別な存在になっているということ。彼女の寄せる無垢な信頼は、邑悸にはひどく心地良い。
 邑悸は軽く腰を屈めた。レイの肩にそっと額を置く。
「邑悸さん……? 大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫だよ。……重い?」
「い、いいえ……」
 口ごもるレイに、邑悸は笑みを浮かべた。
 ――もうすぐ、彼女に明かせるかもしれないな。邑悸は思った。僕のこと……僕の過去……僕の望み。
 小さく呼気を吐く。
 ――それから、君自身のこともね……レイ……。

 間もなく、保安部の職員が駆けつけた。血を流している邑悸とその側に立つレイを見て、彼らの目付きが変わる。
「邑悸チーフ! これは……」
 レイは視線を逸らし、床に落とす。
 保安部職員らがレイを疑っていることは、邑悸にはすぐに分かった。というよりも、彼らが来る前から予想できていたことではあった。ARMADAの職員だからといって、「BGS」に対する偏見がないというわけではない。
 邑悸はレイの肩口から頭をもたげ、怪我をしていない方の手で部屋の中を指し示した。
「部屋の中に、暗殺者が倒れている」
「暗殺者?!」
「僕を狙ってきたらしい。だが、レイが来てくれたお陰で自殺したよ。検死にまわして解剖、分析を頼む」
「了解」
 保安部の幾人かの職員が男の死体を運んでいく。
「ところで、何故ここにレイ=白瀧が……」
 邑悸を病院に連れて行こうとしていた職員が、口を開いた。レイが戸惑った表情で何か言おうとするより先に、邑悸がぴしゃりと言い放つ。
「レイの任務内容は特Aクラスの機密事項だ。君が知る必要はない」
「……は、失礼しました!」
 普段穏やかな邑悸の厳しい言葉に、辺りに緊張が走る。だが、それを和らげたのは彼本人だった。
「レイ。君は戻りたまえ。いいね?」
「はい」
 邑悸の優しい声に、レイは素直に頷く。
 
 ――部屋の床には、青年の血が黒く血だまりを作っていた。