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第五章

  1

 レイの肩から包帯が外される。匡子は彼女の滑らかな肌に痕が残っていないのをみて、ほっと安堵した。若い女の子の体に傷を残したくはない。下らない感傷だ、と彼女は苦く自嘲した。話題を変える。
「随分と好かれているのね、レイ=白瀧」
「……好かれている?」
 レイは首をかしげ、匡子を見つめた。黒い吸い込まれそうな大きな瞳は、どこか空洞のような広がりを持っている。それでいて、その奥は他人が決して立ち入ることのできない領域だ。――邑悸に似ている。
 レイは解せないといった様子で聞き返した。
「何のことでしょうか」
「邑悸よ。邑悸」
「……邑悸さん? 邑悸さんが、好かれている?」
「逆よ」
 匡子は軽く手を振った。
「あの忙しい人がこの三日間、毎日ここに来ていたでしょう?」
 邑悸にとって負傷した「BGS」の見舞いは常のことだが、毎日とは異例だ。しかもレイの病室にいる時の邑悸はいつも上機嫌で、無口な彼女にも構わずあれこれと話をしていくのだった。そんな彼の様子には、匡子だけではなく周囲の医療スタッフ誰もが密かに首を傾げたものだ。
「邑悸さんは、優しいですから」
 レイはあっさりとそう答えた。
 ――優しい……のかしら。匡子は複雑な表情を浮かべる。
「確かに、彼は優しそうには見えるけど……」
 本当のところはどうかしらね。後半は、飲み込んだ。
「…………」
 レイは困ったように眉を寄せる。何と言っていいのか分からないのだろう。
「まあ、彼のことは良くわからないわね」
 匡子は独り言のように呟いた。――今ではもう唯一の肉親だというのに、邑悸は匡子を叔母として慕ってなどいない。彼の見せる親愛の情らしきものは、見せ掛けだ。彼女を利用するための、テクニックに過ぎない……。
 そもそも邑悸の父母、つまり匡子の姉と義兄の突然の死についても迷宮入りしたままなのだ。一応、火災による焼死ということになってはいるが、匡子は納得していなかった。彼らの死には不審な点が多過ぎる。それを敢えて追究しないのは、彼女が自分の身を守ることに決めたからだった。
「匡子博士?」
 レイが首をかしげて見上げている。――やはり、似ている。匡子は動揺を押し隠し、微笑んだ。
「ああ、ごめんなさい。もう行っていいわよ。次は一週間後に来て」
「はい」
 レイはベッドを降り、ドアの手前で振り向いて小さく会釈した。それに手を振り、匡子は再び己の思考の海の中に沈んだ。

  2

 邑悸は一貴の差し出したチップをコンピュータに差しこみ、データ図表に目を通しながら問い掛けた。
「わざわざドラッグ成分の流通ルートを調べてきたってのはどういうこと? ありがたくはあるけれど、それって別に君の仕事じゃないよね」
「わかるやろ?」
 一貴は腰に手を当てる。
「さっさとドラッグの製造元を特定して潰せ、ていうてんねん」
「それはまだ無理だ」
 真っ直ぐな一貴の言葉に、邑悸は苦笑を浮かべる。
「無理? なんでや」
「一般人にはドラッグの存在は知らせていないし、他の三企業にも知らせていない。――実はARMADA内でも極秘事項なんだよ。あまり大きくは動けない」
「お前が極秘にしてるんやろが」
「僕の一存でそんなことが可能だと? 随分と買いかぶられたものだ」
 邑悸は笑った。一貴は渋い顔をする。
「けど、このままほっといたらまずいんと違うんか?」
「放っておくとは言っていないよ」
 邑悸は一貴に向き直った。
「レイや硫平と接触のあった……春樹=辰川だったかな? いわゆる便利屋、らしいんだけどね? どうやらドラッグにも興味を持っているようだから、ちょっとその辺を探ってもらおうかと思っている」
「下町の便利屋が協力してくれるか? 普通大企業を嫌っとるやろ、そういう奴らは」
「大丈夫、勝手に泳いでくれるさ。というよりあちら側が放っておかないだろう」
 邑悸は肩をすくめた。一貴が眼を剥く。
「『あちら側』?! お前はもう目星つけてるんか?!」
「まあね」
「なんで?!」
「ま、ちょっとした想像力ってやつかな」
 邑悸は薄く微笑んだ。
「あれがおそらくうちの『BGS』への対抗手段として作られたものだってことを考えれば、すぐに分かるさ」
「…………」
 分かるわけがない、と一貴は思った。邑悸の思考回路をトレースすることなど、彼には逆立ちしたって不可能だ。
「春樹=辰川との交渉は硫平に任せるつもりだ。何度か接触したこともあるようだしね」
 しばらく、硫平を春樹の居留地の近くである市街地に住まわせることも考えている、と邑悸は言った。
「硫平を、か……」
 一貴は怪訝な顔をした。彼はチームU-20のリーダーである。それをひとつの、しかもARMADA外の任務に専属にしてしまって良いのだろうか。同程度に有能な「BGS」で、春樹=辰川と接触したことがあるといえば、たとえば――。
「レイとちゃうのか? まあ、そりゃレイは怪我したとこやけど……」
「レイは……」
 邑悸は微笑んだ。
「あまり長い間手放しておくわけにはいかない」
「ARMADAから遠ざけたないていうことか?」
「違うよ」
 邑悸は静かな笑みを揺らすことなく、答えた。
「『僕』から遠ざけるわけにはいかないってことだ」
「……なんでや?」
「何でだろうね?」
 邑悸は人の悪い笑みを浮かべて見せた。
「ヒントをあげようか?」
「お、おう」
「…………」
 邑悸はじっと一貴の瞳を見つめた。一貴はその闇色の目を見返す。好奇心に溢れた真っ直ぐな眼差しが、邑悸を射抜いた。微動だにしない。
 やがて邑悸はふっと表情を緩めた。
「やっぱり止めだ。また今度にしよう」
「なんやてっ?!」
 怒り出す一貴を見て、邑悸は面白そうに笑っていた。

  3

 春樹がリィに例の依頼を告げてから、約一週間後の昼下がり。辰川家のドアアラームが鳴った。
「はーい、どなたですか?」
 キラは春樹にいきなり扉を開けるなと厳命されている。覗き込んだモニタ画面に映っているのは、良く見知った顔だった。
『リィだ』
 彼女が兄の次に良く見知っている顔である。キラはほっとした。
「今開けますね!」
 開いたドアから、リィの長身が姿を見せる。
「春樹は?」
「奥にいるよ」
 リィは小型のモバイル端末を手に、春樹の部屋へと向かう。
 ――ネット上に氾濫する仕事情報を吟味していた春樹は、ノックの音に応じて顔を上げた。
「お?」
「私だ。リィだ」
「入れよ」
 入ってきたリィの姿を見て、春樹は片手を軽く挙げる。リィは唇の端で薄く笑った。
「とりあえず、手に入るだけのネタは仕入れたぞ」
「サンキュ。金はいつものとこに振り込んどく」
「ああ。ま、それはともかくだ」
 春樹の差し出す椅子に座って、リィは端末を開いた。
「最近妙なドラッグが出回っているという噂を耳にしてな。もしかして、と思ってそちらからも色々探ってみたんだが」
 リィの長い指がディスプレイをリズム良く叩く。そこには被害者となった者たちのデータが打ち込まれていた。「購入日」という項目に目を止め、春樹の眉根が寄る。
「購入……?」
「私が眼をつけたドラッグを購入した日だ」
「ほとんどが購入しているな。でも全員じゃない」
「そうなんだ」
 リィは髪を軽くかきあげた。
「最初はドラッグが原因で死んでいるのかと思ったが、そうじゃない。そもそも死因は刺殺や銃殺……」
「銃殺?」
「最近はどうも粗悪な銃が出回っているみたいだ。どこからかは分からないが……勿論ARMADAの『BGS』が使うものと比べたらオモチャみたいなもんだけどな」
「…………」
 春樹は思い出す――銃を構えた、硫平の姿。レイの姿。
「それで私が考えたのは」
 リィは画面から視線を外し、春樹を見つめた。
「ドラッグを購入したのは被害者側だけではなく、加害者もだとしたら……?」
「え?」
「たとえばチンピラ集団みんなが買ったとして。その中から任意に被害者と加害者が生まれたとしたら……」
「…………」
 春樹は息を呑んだ。
「ちょっと待てよ。それって……もしかして」
「ああ」
 リィは声を低めた。
「このドラッグは、一般人による殺人を可能にするものなんじゃないか……」
「な――!!」
「春樹」
 憤怒の形相で立ち上がった春樹を、リィが留める。
「これはもう、お前がどうこうできる問題じゃない」
「そんなことはわかってる、けど……!」
「私が手に入れた情報は全部お前にもやる。その上でお前自身が考えて、判断しろ。今言ったのは私の憶測に過ぎないんだからな。それと」
 リィは別のファイルを開いた。
「もう一つ、面白いデータを見つけた」
 画面に見覚えのある顔が現れる。
「レイ=白瀧。ARAMADA内『BGS』チーム識別ナンバーダブルオー。チームの指揮官は邑悸=社。任務内容は特Aのトップシークレット」
「ふむ」
「家族構成の登録はないから、恐らくは孤児だろう」
「それから?」
「それだけだ」
「それだけ?!」
「当たり前だ、これ以上クラッキングするとこっちの身が危ない。……いや、面白いのはこの情報じゃない。これくらいなら一般向けに公開されているものとほとんど変わらない」
 春樹はじれったそうにリィを促した。
「一体、何が言いたいんだ?」
「他の識別ナンバーの情報はともかく、レイ=白瀧のものだけ……というよりも、だ。ナンバーダブルオーの情報だけ、書き換えた跡があった」
「……書き換えた?」
「数年以上前だとは思うが、メモリには痕跡が残るからな」
「ふうん……」
 それが意味するところは結局何なのか。春樹は解せぬ様子で頭を掻いた。リィも、それはわからないという。
 部屋に満ちた重い空気は、しかし突然断ち切られた。
「はるちゃん!」
「?!」
 勢い良くドアが開き、驚いた春樹は椅子から数センチ飛び上がった。リィも少し目を見開いて硬直している。
 目の前に現れたキラの姿に、二人は同時にほっと息をついた。
「お前、いっつも部屋に入る時はノックしろって……」
 キラは悪気なく春樹の言葉を無視した。両腕を大きく振り、兄に訴える。
「お客様なんだけど、名乗ってくれないの。はるちゃんに会えないならすぐ帰るって言ってて」
「はあ? 今日は誰も来る予定なんかねえが……」
 ぶつぶつ呟きながら立ち上がる。リィには部屋で待っていてくれるように言い、階下に下りてモニタを覗いた。
「春樹=辰川だが?」
『お久しぶりです』
 モニタ越しに目が合い、春樹ははっと息をのむ。
 ――カイル=エル=ムード。かつて春樹が非合法の「BGS」ゲリラに拉致された時に遭遇した男だ。
「俺に何の用だ?」
 白い聖服を着た栗色の髪と淡い緑の眼をした男は、モニタの中でひどく穏やかに微笑んでいる。
『貴方のお力を借りたいのですよ。――神に背く者たち、「BGS」のことについて』
 カイルは何気なく言葉を続ける。
『春樹=辰川。この付近で一番の情報屋とも繋がりのある、貴方に』
 春樹は慌てる。周りの住民に聞かれていい話ではない。
「あんた、今一人か?」
『はい』
 追い払うのと、話だけでも聞くのと、どちらが賢明か――少し考え、決断する。
「じゃあ、とにかく中に」
 春樹は覚悟を決め、彼を招き入れることにしたのだった。