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第九章

  1

 研究所内にある匡子=香月のプライベートオフィス。邑悸のものには遠く及ばないが、現存する最高の設備と研究環境が揃っている。だが、これは決して彼女が邑悸=社の叔母だからという、単純な理由で与えられたものではない。邑悸をはじめとする多くのスタッフが持つメディカルドクターライセンスのほか、彼女は数々のドクターを取得している。遺伝子パターン分析の分野においては匡子=香月は第一級のエキスパートであり、その腕を高く買われてのこの待遇なのだ。
 その匡子の愛弟子である一貴が、日頃にも似合わぬ深刻な表情でここを訪れたのは、邑悸が襲われたその日の事だった。邑悸の暗殺未遂事件は極秘裏に処理され、一部の「BGS」たちと邑悸のチームに属するスタッフたち以外には知らされていない。その邑悸は今、検査と手当てなどのためにARMADA内の病院のVIPルームに入院している。
「久しぶりね、一貴=斗波君」
 コーヒーを入れてやりながら匡子は言う。
「一体何の用……と言いたいところだけど、大体予想は付いてるわ」
 一貴が顔を上げた。
「え?」
 目を大きく見開いた彼の表情を横目で見遣り、匡子は微笑んだ。分かりやすい反応だ。彼女の甥よりも、ずっと。好ましい。
「邑悸とダブルオー、レイ=白瀧のことでしょう?」
「なんで分かりはるんですか? 俺、前にも言いましたっけ?」
「私も気になってるからよ」
 匡子は簡単に答えた。コトン、と音を立ててコーヒーの入ったカップを二つ置く。
「この前にレイが怪我で入院していた時、急にバイタルが乱れた時があったの。ちょうどそれは邑悸が見舞いに来ていた時――そして彼が少し何かをしたら、すぐに治まってしまった」
「何ですかそれ。あいつは一体何を」
「分からなかった。ただ、治療行為などではなかったのは確かね。――何か、耳元で囁いたようには見えたけれど。愛の囁きかしら」
「はあ?」
 匡子の冗談に、一貴は呆気に取られたように目を瞬いた。
「それから今日の暗殺未遂事件。一般職員は知らないでしょうけど、レイは今日は任務に就いていなかったでしょう。邑悸のオフィスを訪れる要件なんてなかったはずよ。現にアポイントメントは取っていなかったのだから」
「じゃあ、一体何で……」
 匡子は肩をすくめた。
「さあ? でも、まるで邑悸の危機を予知したみたいよね?」
 彼女はコーヒーに口を付け、一貴を促す。
「で? 貴方の話は?」
「実はですね……」
 一貴はこの前の訓練中に起こった出来事を話した。突然の、レイの変貌。「こういうことが起こる」と言い放った邑悸。
 匡子は険しい顔で耳を傾けていたが、やがてとため息をついた。
「そういうの、双子や近親なんかじゃ、時々みられる現象みたいだけど」
「『Sympathy』ってやつですね?」
「そこは、未だにはっきりとは解明されていない分野なのよね……」
 匡子はうさんくさそうに眉を顰めた。
 「Sympathy」――つまり「存在共鳴」と呼ばれる事象は、現在まで多岐にわたって報告されている。
 たとえば、次のような実験をした研究者たちがいた。双子の兄弟二人に脳波計を取り付け、兄の方は実験室に残して弟の方を外に連れ出した。弟を高速で移動する機械に載せ、恐怖で激しく振動する彼の脳波を記録する。同時に、実験室にいる兄の脳波を観察すると、弟と同じように激しく振動していたのである。その時、兄は自分の脳波に変化が起きたことを自覚したわけでもなく、弟が恐い思いをしているということを察知したわけでもなかった。――すなわち、意識を越えたところで兄の脳は弟の脳波の変化を捕えていたということになる。
 親子にもこのような現象が見られる例があり、この事象にまつわる報告では圧倒的に近親関係にある者たちに関わるものが多い。
「念のために教えていただきたいんですけど――邑悸はレイちゃんと血縁が?」
「いいえ。ないわ」
 匡子は笑って否定する。
「姉さんたち――邑悸の両親は、ARMADAの息がかかった私設研究所で遺伝子の研究をしていたらしいわ。研究内容は、良く知らないのだけど」
 それは匡子がARMADAに正式に入社する前のこと。彼女は社の意向で本社のある旧上海を離れ、欧州で研修をつんでいた。そんな彼女を引き戻したのは、姉夫婦の死の知らせ――。
「レイちゃんは孤児やということやから、そっちの手がかりはなし……まさか邑悸の隠し子でもないやろし」
 一貴は首を捻った。
「邑悸は飛び級で大学を十八ン時出て、そんでARMADAにすぐ入って――」
 あっという間に出世した。その手際はあまりにも鮮やかで、一体どんな手段を使ったんだろうかと周囲はいぶかしんだものだった。大学以来の付き合いである一貴にも、彼の用いた政治的な手法はよく分からなかった。
 旧日本を本拠にアジアに広く影響力を持つARMADA――邑悸が入社する前から世界の平和維持を請け負うと公言してはいたのだが、他の三大企業からは単なる民間軍隊だと批判されていた。その批判の理由の一つが、ARMADAが「BGS」の保護に乗り出したことだった。彼らは、いわゆる人間兵器として利用される恐れがある。
 だが、現実的には「BGS」が普通の社会で共に暮らす事などできない。数十年ほど前の、中世の魔女狩りにも喩えられる「弾圧期」すら、ほんの一例にすぎない。
 ARMADAに入社し、瞬く間に重要なポストについた邑悸は、「BGS」施策を一歩推し進め、「BGS」の「保護」を「管理」に切り替えると同時に、治安維持活動に積極的に参加させた。
 二三年ほど前から治安状態は急激に良好になったが、身近にいない「BGS」への偏見は弱まることはなく、ますます彼らは隔離された状態でARMADAに保護されることとなり、それがまたARMADAと他企業との軋轢を拡大させていった――。
「ま、何にしても邑悸とレイの接点はないわ」
「そうなんですよね……」
 一貴は眉を寄せる。
「一体どうなってるのか、全然わからへんのですわ」
「とりあえず、今がややこしい状況だってことは確か」
 そう言うと、匡子はスクリーンに先程放映されたニュースを映し出した。
「DOOMの取締役のうちの一人よ……あれ」
 スクリーンに映っているのは三十代半ばの金髪の男だった。
「いよいよ、DOOMがARMADAに敵対宣言したわ」
「え?!」
 一貴は慌てて音声に耳を傾けた。
『――ARMADAは「BGS」を保護すると述べながらも、昨今世界で多発している殺人事件に対して責任を取ろうとしない。我々はこのように「BGS」の管理を怠っている彼らを容認することはできない――』
 その台詞を遮るように、一貴は叫ぶ。
「ちょ、待ったってや。あの殺人事件は『BGS』やなくてドラッグ服用者が起こしてるもんやないか?!」
 匡子がため息混じりに指摘する。
「ドラッグの存在は対外的には伏せられているのよ。邑悸によって、ね」
「…………」
 一貴ははたと口をつぐんだ。
「だから、一般人は『BGS』がやってることだって考えても無理はないわ」
「……なんで邑悸はドラッグのこと伏せてるんですか?」
「さあ。でも……」
 匡子は真剣な表情で口元を引き締めた。
「あの子のことだから、やられっぱなしではないでしょうね。そろそろ反撃に出るんじゃないのかしら?」
 一貴はぶる、と身震いした。

  2

 広々としたその部屋は、医療器具が置いてあることとベッドが中央に据えてあることを除けば、とても病室とは見えなかった。
 白いベッドに半身を埋め、邑悸はスクリーンに映し出した映像に見入っている。そこで演説をぶっている若い――とはいえ彼よりは年上だが――男。
 見覚えはある。四大企業会談の際に会った。――名前は……何ていったかな。邑悸は記憶の層の中からその名前を引きずり出した。――アレックス=テラ=ムード。
「同姓だな」
 邑悸はぽつりと呟いた。
「……カイル=エル=ムード」
 数値データを読み上げるように抑揚のない声で呟くと、彼はそのまま唇を笑みの形に歪めた。
 カイルとは以前接触した。若くして司教の座についているだけのことはある、と評価した記憶がある。
「ドラッグをばら撒いていたのは、そういう訳か……」
 教会とDOOMが組んでいるのは周知の事実だが、どちらもARMADAを――ひいては「BGS」を目の敵にしている。
 邑悸は目を閉じて思考を巡らせた。――彼らの策は、こうだろう。ドラッグをばら撒いて殺人事件を多発させ、それを全て「BGS」――ARMADAの責任とする。単純といえば単純な発想だ。DOOMにとっては企業戦略上の敵であるARMADAを潰すまっとうな口実ができるし、教会にとっては教義上許すべからざる存在、「BGS」を社会から駆逐できる。少なくとも、今のように治安維持部隊として一般市民の優位に立つことはなくなるという読みだ。あるいは、一方的に犯罪者の検挙・拘束を繰り広げているARMADAに対しての、一般市民の中で燻りつつある反感の作用も計算に入れているのかもしれない。
「ま、悪くはないが……」
 目を開けた邑悸は喉の奥で低く笑いながら、スクリーンの映像をきった。その深い闇色の目は、少しも笑っていない。彼の頭の中では計算式が立てては崩され、また組み立てられては崩されている。その中で厳選されたものだけが実際に計算され、答えに到達することが赦されるのだ。
 彼らがドラッグの流出元を突き止められるリスクを考えていないとは思えない。しかし、彼らはこの時期に動いた。
 春樹=辰川への接触と懐柔、邑悸=社の暗殺、これらに失敗してなおかつ表明されたARMADAへの敵対宣言。――どういうつもりだ?
 
「まあいい」
 彼は眼を瞑る。傷の痛みは、もうない。後遺症も遺さず快復するだろう。
「今度はこちらが動く番だ」
 邑悸は瞼を閉ざしたまま微笑む。
「もう少し……楽しませてもらおうか」
 脳裏に浮かぶのは、一人の少女。
「おいで、僕の切り札」
 ――レイ=白瀧。
 彼女を想うと僅かに心が揺れるその理由。未だ、彼はそれを知らない。