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第三章

  1

 その日は、朝から随分と冷え込んでいた。
 邑悸はオフィスであるデータの内容をあらためていた。先日ARMADAの病院内で息を引き取った殺人事件の被害者の、様々な検査結果が収められているものだ。
 邑悸はふと目を細め、外を眺めた。冷気を完全に遮断している大きな窓も、露に濡れ白く曇っている。――この街には夏がない。あの最終戦争によって完膚なきまでに破壊され尽くした世界は、死の灰に覆われ冷たい冬に閉ざされた。あれから早一世紀半が過ぎようとしているが、未だ気候は元に戻らない。復興の進んだユーラシア大陸でも北部に居住している人間は少なく、ヨーロッパを本拠とするDOOMの本社は地中海沿岸のローマにあるし、ARMADAも上海を拠点としている。四大企業の中ではBUISだけが例外でロシアに勢力を展開しているが、それでもシベリア地方の再開発にはほとんど手をつけていない。拓けているのは黒海沿岸など、比較的温暖な地域のみである。再び世界は繁栄の時を迎えることができるのだろうか。企業は皆、開発拡大の時を眈眈と待っている。しかし、邑悸自身はそこに興味はない。
 邑悸はデスクの上に置かれたコーヒーを啜り、その長い指をキーパッドに躍らせた。カップに隠された口元には、歪んだ笑みが浮かんでいる。
「……これは面白い」
 一貴が焦った様子で、しかも最高機密レベル扱いでこれを送りつけてきた理由はすぐに分かった。
 被害者の遺伝子「SIXTH」には異常な点があった。遺伝子に発現している様子がほとんど見られないのである。メッセンジャーRNAへの転写すらほとんど起こっていない。これはどういうことか。
 そもそも遺伝子が発現するまでには、細胞内で何段階かの手順を踏まなければならない。遺伝子の塩基配列をメッセンジャーRNAによって転写し、それをリボソームという細胞小器官が翻訳する。すなわち、トランスファーRNAが運んで来るアミノ酸を塩基配列が指定している通りの順番に並べるのである。アミノ酸がペプチド結合によって連なったものがポリペプチド、すなわちタンパクで、それらは他の細胞小器官によって修飾され、折り畳まれ、完全なタンパク質となる。
 細胞内ではそれぞれの細胞にとって必要な遺伝子だけが転写されている。心筋細胞にとって必要な遺伝子でも表皮の細胞には不必要なものもあるし、その逆も然りである。不必要な遺伝子は細胞分化が進むにつれ、不活化される。
 「SIXTH」が活性を持つのは主に脳であって、「BGS」以外の一般人では大脳皮質での強い活性が見られる。最も強く活性を持つ領域は性別や人種によって差があるが、それ以外の特徴はほぼ共通していた。人によっては脊髄皮質の細胞に強い活性を持つ者もいる。
 だが、この被害者は……。
 邑悸はほとんど瞬きもせずに画面を見つめた。瞳の中にアルファベットや数字が入り乱れる。
 「SIXTH」は人工遺伝子だが、転写を促すためのアクチベーターというタンパクは元々人が持ち合わせているものを使っている。アクチベーターが結合するためのプロモーター配列を組み込み、呼び寄せているのだ。アクチベーターは様々な遺伝子に対して共通で、プロモーターが存在する所に結合して転写を促進している。
 だが、アクチベーターにとある小型分子が結合して変性してしまうと、もうプロモーターには結合できなくなる。――被害者はまさにその状態だった。その小型分子の血中濃度が、通常の二十倍から五十倍だったのである。これは人為的なものだ、と邑悸は直感した。
「経口投与されたか、それとも……いや、しかしiv(静脈注射)sc(皮下注射)の痕跡はなかった」
 邑悸は呟いた。
 小型分子とはいえビタミンの一種だ。毒物というわけではないし腸からも吸収される。だが、普通の食生活をしていて大量に摂取することは考え難い。故意の結果と考えて間違いない。
 ――しかし、誰が? 問題はそこだ。
 「SIXTH」に関する研究業績は、ARMADAがほぼ独走状態で他の追随を許さないレベルである。一流の研究者のほとんどを擁しているし、施設への投資額も他社に比べて抜きん出ている。「SIXTH」の発現機構に関してもARMADAだからこそこれほど詳しく分かっているが、他の組織ではこうはいかないはずである。――いや、いかないはず、だったのだが。
 邑悸の口元から笑みが消える。この現実を見れば、明らかだった。――誰かが人為的に「SIXTH」の発現をブロックした。そのことによって、この被害者は加害者となり得た。この「一般人」だったはずの男には、殺人が可能だったのだ。
 つまり、これは「SIXTH」の出現以降初めて、一般人が「BGS」と同じように殺人能力を手に入れた。そういう事案なのだった。
 秩序が、壊れていく。「SIXTH」を基に作り上げられた仮初の平和が、乱れる。
 邑悸はカップをソーサーに戻した。
 一瞬目を伏せ、そして視線をディスプレイに戻す。電源を落とし、暗くなったそこに彼の顔が映っていた。
「面白い」
 邑悸は冷ややかに笑う。
「面白いよ、とても」
 人間はそれほどまでにして殺し合いたいのだろうか。――それならば、
「好きにすればいい」
 呟いた言葉は、不吉な響きを宿していた。

 
  2

 春樹は下町の外れにあるビルに足を向けた。彼が思わぬ襲撃にあってから、既に十日ほどが経っている。
 暗く入り組んだ廊下を進み、表札もないひとつの扉を選んで、ノックする。部屋の主はすぐに姿を見せた。きっと、部屋の外についているカメラでこちらを見ていたに違いない。リィ=スピアフィールド。春樹の馴染みの情報屋である。
「よう」
 春樹を出迎えたリィの眉が、ぴんと跳ねる。彼の左肩には白い包帯が巻かれていて、首筋からそれが覗いていた。
「その怪我か。お前が妙な男に襲われた時の」
「さすが、耳が早い」
 春樹は頭を掻く。リィにはその一件は伝えていなかったのだが、やはり彼女は知っていたらしい。
「まあな」
 男言葉を使っても違和感のない、きりりとした水色の双眸。春樹は顔を引き締め、それを見詰めた。
「今回俺が頼みたいのは、ARMADAへのハッキング」
「…………」
 リィは取り出したたばこに火を付けてしばらくくゆらせていたが、やがてぽつりと呟いた。
「……高くつくぞ」
「やってくれるのか?」
 自分から切り出しておいて驚いたように言う春樹に、リィは苦笑した。
「とりあえず、欲しいネタを言え。無理なものは無理と言う」
「最近起きた、一般人が『加害者』になっている『殺人事件』――或いは『殺人未遂事件』の情報が欲しい」
「……なるほど」
 リィは頷く。
 そのような事件の存在は決して表沙汰にはされていないが、下町に住む情報通ならば既に誰でも耳にしたことくらいはある。信じるか信じないかは本人次第だが。
 春樹は自分が被害者になりかけた以上、信じないわけにはいかない。――あの男からは明らかな殺意を感じた。あれが殺意でないはずがない。間違いない。
「どんなことでもいい。とりあえずネタをくれ」
「何か商売でもやる気か?」
「そんな危ない橋、渡れるか」
 春樹は吐き棄て、
「ただ……気になるんだよ」
「気持ちは分かるが」
 リィは苦笑する。
「お前は自分から面倒事に首を突っ込む気か」
「いや、マジで気になることがあって」
「……一般人の『BGS』化、か?」
 春樹はぎくっと肩をすくめた。
「お前もそう思っていたのか?」
 リィは長い指を立ててくるくると回した。
「お前の考えている通り、遺伝子『SIXTH』をどうにかすれば殺人は可能になるかもしれない。遺伝子を発現させたり阻害したり、というのは今でも難病の治療目的で行われることだからな。『SIXTH』にだって応用は効くだろう」
「んな馬鹿な……!」
 憤怒の形相で睨みつける春樹を、リィはまあまあ、と抑えた。
「お前が怒ったってどうにもならんし、下手に動けばキラちゃんまで巻き込むことになるぞ」
「でも!」
 リィは春樹の言葉をさえぎって、淡々と言葉を進めた。
「近年、『BGS』ビジネスを基にARMADAは急成長した。まあ、それはここ十年足らずの間で、史上最年少の重役として邑悸=社という男が辣腕を振るいだしてからなんだが」
「詳しいな、お前」
「常識だ。……で、『BGS』の保護に乗り出していたARMADAの方針を管理に切り替えた。たとえば彼らを積極的に治安維持任務に就かせることで、犯罪検挙に貢献している。他の分野でもいろいろと成果は上げているらしい」
「それは別に悪いことじゃねえだろ?」
「皆がお前みたいに素直ならいいのだがな」
「……馬鹿にしてんのか」
「誉めているんだ」
 リィは肩をすくめる。
「面白くないのが他の三企業。それと……」
「それと?」
「一般人たちだ」
「……何で?」
「弾圧時代を覚えているだろう。『BGS』狩りと言われている、あれだ」
 春樹は思わず顔を歪めた。――人を狩る、というその発想。生理的な嫌悪感が浮かぶ。
「ああ。けど、あれってもう数十年前の話だろ?」
「あの年代の者だってまだ生きている。そういう奴等にとって、被差別階級であったはずの『BGS』の台頭は許し難いものだ。それに……」
 怪訝顔の春樹に、リィは苦笑して見せた。
「きっと嫉妬もあるんだろう」
「嫉妬……?」
「人は醜い生き物だからな」
 リィは口を噤み、再び煙草に火を点けた。春樹は立ち上る煙をぼうっと見つめる。嫉妬――リィの言葉を何度も反芻してみるが、彼にはぴんと来ない。そんな彼の表情を、リィは優しい眼差しで見つめていた。

 
  3

 夕陽が辺りを染める頃。任務から帰還する途中のレイは、ふとモビールを止めた。道端に蹲っている人影がいたのである。この辺りは再開発の手が入ったばかりのスラム街で、決して治安は良くない。日が落ちると人通りはほぼないといっていいくらいであり、またこの近辺では例の「殺人事件」が頻発している。誰かは分からないが、こんなところに一人でいるのは危ない、とレイは思った。
「どうかしましたか?」
 怪我をしているのかもしれない。呻き声を耳にして彼女は眉をひそめる。
「具合が悪いのでしたら、お手伝いしますけれど」
「あ、ああ……」
 男は彼女の方をちらりと見た。随分と汗ばんでいるようである。
「あ、ARMADA……?」
 レイは注意深く彼の様子を見守る。「BGS」だと分かれば、たとえ善意の手であっても拒絶されるかもしれない。そのことは彼女も良く分かっていた。
「ちょっと……こっち来てくんないか」
「え?」
「手を貸して欲しいんだ」
 レイはゆっくりと歩み寄る。彼との距離が一メートルを切った時。
「――――!!」
 レイは驚いて飛び退った。彼女が一瞬前まで居た場所を、金属パイプが鋭い軌跡を描いて通り過ぎる。避けられたのは日ごろの訓練の賜物だろう。
「ちっ……」
 男はぺっと唾を吐き捨てた。立ち上がった彼はかなりの大柄で、レイよりも頭一つ分は大きい。レイは軽く踵を浮かせて彼を見つめた。
「傷害未遂、或いは殺人未遂罪。どちらにせよ現行犯ですから、確保します」
 レイの宣言を聞き、男はにやりと笑う。
「俺はおめえらみたいな化け物じゃないぜ?」
 「BGS」は化け物などではない――だが、レイは冷静に返答した。
「そんなもので殴られて、死なない人間がいるとでも?」
「人間?」
 男は嘲笑した。
「化け物のくせに人間を名乗るなよ!」
 レイはすっと目を細めた。パイプが再び大きな軌跡を描く。その内側に飛び込んだレイは、男の顎を抜き放った銃身で殴り付けた。
「ガハ……ッ」
 苦悶の声を上げる男のみぞおちに膝蹴りを埋めると、呆気なく男は地面の上に沈んだ。手早く拘束する。
「…………」
 本社に連絡を取ろうした、そのとき。
「……ぃつっ!」
 レイの左肩が真っ赤に染まる。レイは悲鳴を堪え、背中をのけぞらせた。振り向くと、もう一人の男が銃を構えている。照準は彼女の眉間に合わせられていた。旧式の、ARMADAの最新式のそれから比較すればおもちゃみたいな銃。だが数メートルもないこの距離ではどんなに男の腕が悪くても確実に当てられる。
 もう一人いたとは。自分のミスだ。
 男は下卑た笑いを口元に浮かべ、膝を突くレイに告げた。
「死にな、化け物」
 ――殺される……!! レイは茫然と銃口を眺める。頭の中は真っ白で、怒りも悲しみも何も浮かんでこなかった。ただ、レイは目を見開いたまま――。
 次の瞬間、パン、と乾いた音がして男の眉間に穴が空いた。
「レイ=白瀧!」
 男が崩れ落ちた向こう側から、聞き慣れた声がする。
「大丈夫か?」
「硫平さん……?」
 レイは未だ茫洋としたまま彼の顔を見上げる。硫平は険しい顔で二人の男を見下ろした。
「間に合って良かった。この辺は最近殺人事件が多発しているから、気をつけないと」
「すみません、ありがとうございます」
 硫平の差し出した手に掴まり、レイは立ち上がる。硫平は彼女の銃創を見て顔を歪めた。
「結構ひどい出血だな……早く戻ろう」
「はい」
「とりあえず、止血だけはしておくぞ」
 創をぐっと圧迫される。痛みに顔をゆがめながらも、レイは硫平のなすがままに任せた。
「モビールは後で誰かに取りに来てもらうから、とりあえず俺のサイドカーに乗れ」
「はい」
 レイはふらつく足で硫平の隣に座った。
「すぐに着くから、しっかりしろよ」
「……はい」
 硫平はモビールを運転しながら、邑悸に連絡を入れているようだった。
「…………」
 レイはどこか焦点の合わない眼差しで、ぼんやりと前を見ている。
 ――人間を名乗るな。化け物。
 だけど、そういう彼らの方がもっと化け物じみていた。どうして。
「レイ、大丈夫か?」
「はい」
 頷いて、レイは表情を引き締める。――私は大丈夫。
「私は、化け物なんかじゃない」
 呟きは硫平の耳に届くことなく、風に流れて消えた。