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第七章

  1

 天井の高い道場に、乾いた音が響き渡る。今行われているのは軽い材質で造られた模造剣を用いる競技で、昔は「剣道」と呼ばれていたらしいが、今ではただ「剣」と言われている。
 レイは「剣」が好きだった。模造剣の交わる音や足が大きく踏み込むときの音。とても気持ちがいい。
 目の前では椿と他の生徒とが試合をしていた。防具をかぶっているため、顔は分からない。彼らのうち、勝った方がレイと試合になる。明らかに椿は苦戦していた。椿が弱いのではなく、相手が強いのだ。
 椿は避けるときに左に跳ぶくせがある。多分椿は気付いていない。だが、相手も気付いていないようだった。一方、相手は、もっぱら右から胴を狙ってきている。
 レイはどんな競技中にも熱くなることがない。相手をじっと、冷静に観察することができる。だからこそ、人の癖や思考パターンを見抜くのが得意なのだろう。そして彼女は――強い、と言われる。
「…………」
 彼女はただ、静かに彼らの試合を見守り続ける。――と、レイの背後から聞き慣れた声がした。
「やってるみたいだね、皆」
「……邑悸さん」
 意外な人物の登場に、辺りが少しざわめき、緊張感が走り抜けた。彼らにとっては直属の上司であり、そして社内ではトップの地位にあるといってもいい重役である。傍らには研究所長である一貴が控えていて、今の不穏な社会状況を考えれば、何かあったのかと勘繰っても無理はないところだ。
 レイを見下ろした邑悸は、そんな空気を無視して少し首をかしげ、彼女に尋ねた。
「次は君かい?」
「はい」
 柔らかな笑みを浮かべ、彼はちょうど良かったと頷く。
「じゃあ、ここで見ているよ」
「え?」
 驚いて目を見開くレイに、邑悸は笑った。
「僕、『剣』が好きなんだ。特に竹刀の響く音とか、足と床がたてる音とか」
「……私もです」
 レイが微笑んだとき、前の試合が終わった。椿は負けたらしい。防具を脱いだ彼女は、汗ばんだショートカットの髪を軽く手で整え、レイに向けて肩をすくめてみせた。
「次、レイ=白瀧!」
 防具を付け、模造剣を片手にレイが進み出る。
「オモロイもんて何や」
 一貴が邑悸に耳打ちすると、
「まあ、すぐに分かるさ」
 邑悸は微笑を浮かべながら、歩み出るレイの背中を見つめた。

  2

 ――警戒されてるのかな。レイは面の下で苦笑を浮かべる。椿との試合では積極的に打ってきていた相手が、今は動かない。真っ直ぐ前に構えたまま、レイは相手の隙を探す。パワーや持久力では確実に負けるだろう。だからこそ……。
「ふっ!」
 呼気を吐き出し、相手が飛び込んでくる。レイは後退してそれを交わし、打ち込まれる刀身をすくいあげるように跳ね上げた。
 一瞬の交錯。
 あっという間に飛び離れた相手が、次は右から胴を狙ってくる。レイにとっては予想済みの動きだった。――この人には、右から胴を狙う癖がある。模造剣の軌跡の内側に体をずらし、胸を突いた。とと、っとたたらを踏ませることはできたものの、一本には程遠い。
 レイが模造剣を正眼に構え直したとき――。
 
 脳が晴れた。

「え……?」
 そう形容するしかないような、不思議な感覚がレイを包んだ。すうっと視界が広がり、周囲の空気が澄み渡ったような気がする。頭が明快に働き出し、全ての感覚が意味を持って組み合わさる。何より、相手の動きが酷く鈍く、遅く感じられて……。
 ――床に踏み込んだレイの足が、驚くほど大きく音を立てた。
「?!」
 突然攻撃に転じたレイに、相手が一瞬戸惑いを見せた、その隙が彼女のさらなる接近を許す。
 ヒュッ、と風を切り裂く刀身の音がはっきりと聞こえる。レイは自分の感覚が突然鋭敏になった事に戸惑いながらも、そのまま腕を振り切った。
 パン!!
 妙に時間がスローモーに動くように感じられる中、レイは模造剣を相手の左胴へと強く打ち込んでいた……。

 一貴がちらりと邑悸を見遣る。
「お前の言ってた、オモロイもんてのはこれか?」
 邑悸は肯定も否定もしなかった。ただ、ゆるく笑っているだけ。
「君は何度かレイの試合見たことあるよね? 分析のための記録もとってあるんだろう?」
「ああ。けど、こんなんは初めてや。レイちゃんは強かったけど、あんな動きはせんかった」
「だろうね。本人も戸惑ってるんじゃないかな」
「どういうことやねん」
 壁にもたれたまま、邑悸は笑った。
「君が前にレイの試合を見たとき、その場に僕はいたかな?」
「おらんかった……と思う」
「実際、僕はレイの体術の訓練の場に居合わせたことがない。というよりも、できるだけ行っていない」
「……なんでや?」
「君の眼で見ただろう? 『こういうこと』が起こるからだ」
「『こういうこと』?」
「君がしつこく僕がレイに拘るわけを聞くから、ヒントをあげたんだよ。後は自分で考えるんだね」
「考えてわかるもんなんか?」
「わからないと思う」
「お、ま、え、は……!!」
 怒気を露にする一貴にも、邑悸は笑みを崩さない。
「じゃ、僕は戻るよ。これでも僕は忙しいからね」
「退屈やとか言うてたんはどこの誰やねん」
 邑悸の後ろ姿を見送って、一貴は呆れたようにため息をついた。

 
  3

 仕立のいいダークブラウンのジャケットを肩から滑り落とす。一貴と別れて自室に戻った邑悸は、それを無造作に自室のソファの上に投げ出した。
「……少しヒントをあげすぎたかな」
 微苦笑を浮かべ、呟く。
「一貴のことだ。ひょっとすると感づくかもしれないな」
 それでも構わない。邑悸は苦笑を深めた。いつかは知らせる事だ。彼への協力者となる者たちに――特に、一貴には必ず協力してもらわなければならない。
「レイや『BGS』の皆にはもちろんだけど……ね」
 見晴らしのいい窓から外を眺めていた邑悸の眼が、すっと細められた。――もう少し。もう少しで……。
「その前に」
 邑悸は素早く振り向くと、背後に視線を投げた。
「こっちを何とかする必要がありそうだな」
 どこに潜んでいたのか、黒い覆面で顔を隠した小柄な男がそこに立っていた。
「ここの警備網を突破してきたのは賞賛に値する――と言いたいところだけど、実際はそうでもない」
 邑悸はどこか楽しそうな口調でその男に語り掛けた。手に小銃を持った男は、黙って銃口を邑悸に向ける。
「退屈していたから、ここ数日わざと僕の周りの警備を手薄にしておいたんだよ。まんまとひっかかってくれたみたいだけどね」
 それに、内部スパイの存在も見逃しておいたしね――それも、今日までだけれど。邑貴は微笑む。
 男の手から、一条の衝撃。サイレンサー付の銃から放たれた弾丸が、邑悸の足下を焦がす。彼はそれを冷ややかに見下ろした。
「暇だから相手してあげるけど、はじめに言っておくよ――」
 顔を上げた邑悸の唇が酷薄な笑みに歪められた。
「君じゃ、僕には勝てない」
 男が二発目を放とうとしたとき、素早く接近した邑悸の手が男の顔面に伸びていた。
「ぐあっ……!」
 覆面をひきむしられると同時、鳩尾に膝蹴りが入る。
「久々だから調子が出ないなあ」
 邑悸はのんびりと呟きながら、手にした覆面を放り棄てた。その下から表れたのは、少年らしい面影を残した若者だった。薄茶色の瞳には、まぎれもない殺気がこめられている。
「どこの手の者か、教えてくれる――わけないね」
 青年の拳を肘で跳ね上げ、邑悸は独り言のように呟いた。
「教会が暗殺者を育成しているとは考えにくいな……ってことはDOOMかな?」
 青年の揺れる瞳が、彼の言葉を肯定しているようだった。邑悸はふ、と笑みを浮かべ、つかんだ襟首を支点にして青年の体を軽く跳ね飛ばした。DOOMが貴重な「BGS」資源をこのような捨て身の任務につかせるとは思えない。おそらくはドラッグ服用者だろう。
「くっ……」
 壁に激突した背中が軋み、青年は悲鳴を上げる。
「相手が悪かったね」
 邑悸は同情を込めた眼差しで見遣るが、青年はそれを睨み返して小銃を構えた。
「あ、そうそう」
 邑悸は銃口に向かい、無造作に歩みを進める。
「小銃は照準が合わせにくいんだ。手のちょっとしたブレがひどく照準を狂わせる。こういう仕事には不似合いだよ」
「煩い!」
 青年が初めて口を開くと同時に引き金を引き、弾丸が邑悸の頬を掠めて飛んだ。浅く裂けた傷から血が滲む。
 青年は弾かれたように起き上がり、邑悸にむかって突進した。

 
  4

 ――なんだろう、この違和感。
「どうしたの? レイ、なんかぼうっとしてない?」
 ARMADA施設内のカフェ。椿とともにフルーツジュースを飲んでいたレイの元に、突然「それ」は訪れた。
「ごめんなさい……なんか」
 レイはこめかみをおさえて呟く。
「すごく……嫌な感じがする」
 ――胸がざわざわする。まるで、任務についている時のような緊張感。不快な動悸。
「気分が悪いんなら医務室に連絡して……」
「椿、ごめん」
 突然レイは立ち上がり、椿の手にジュースを押しつけた。中身はまだほとんど減っていない。
 何が起こっているのかはわからない。だが、彼女が今どこに行くべきなのかは――誰の元に行くべきなのかは、わかっていた。
「え? え?」
 戸惑う椿に、レイは告げる。
「先に行く」
 本部の方にむかって駆け出すレイの背中を、椿は呆然と見送った。
「珍しい、レイがあんなに慌てるなんて……」
 彼女の残したジュースをストローでかき混ぜながら、椿は首を傾げるのだった。