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第一章

  1

 夜半過ぎ。下町の、とあるアパートの一室の戸を叩く者がいた。一見しては分からないが、そこは診療所であった。もちろん診療時間外であるが、下町の医院によくあるように医師の自宅を兼ねている。とはいえ、この時刻では医師も当然眠っているだろう。
 返事がないにも関わらず、来訪者はしつこく戸を叩き続ける。深夜の静かな街に、その音は大きく響いた。
 数分が経ち、アパートの窓に灯りが点くとようやく音は止んだ。ドアが開き、不機嫌さもあらわに家主が姿を現す。スウェットに身を包んだ、三十代半ばの男――那岐であった。
「うるさい。今何時だと思ってん――」
 続く言葉は、喉の奥に飲み込まれた。玄関の前で膝を折っている男。彼の腹には、深々とナイフが突き立っていた。

 
  2

 ARMADA本社付設の病院内。那岐のアパートを訪れた男の手術は、数時間に渡って続いていた。
 那岐はスウェットのままの格好で、廊下のソファに座っていた。ぼさぼさの短髪に指を絡ませる。
「何だってんだ……」
 幾度となく繰り返した呟き。
 扉の前で倒れていた男には見覚えがあった。ただ、名前までは覚えていない。下町を我が物顔にのし歩いているちんぴらのうちの一人で、時折暴力沙汰に巻き込まれて怪我をしては彼の治療を受けていた。喧嘩っ早いが、今までそれほどの重傷を受けたことはない。
 彼の容態を一目見た那岐は、すぐにARMADAに救急コールをした。下町の人間として――そして那岐の「個人的な」事情からも、ARMADAに関わりたくないのはやまやまだったが、ひと一人の命がかかっている。わがままは言っていられない。
 ――命? 那岐ははっと顔を上げた。彼は、殺されかけたとでもいうのか? 殺人者のいない――いないはずの、この世界で。
「まあ、いないこともないが」
 那岐は組んだ手の中に顔を突っ込み、ぼそぼそと呟いた。
 たとえば二、三ヶ月前に起こった連続幼児殺害事件は、記憶に鮮明だ。春樹から伝え聞いたところによると、あの犯人は被害者と同じ年代の子供だったということである。どうやら組織的に薬物を投与されていたとか、いないとか。欲深い大人の犠牲になった、「BGS」の子供たち。いたたまれない気分になったのを覚えている。しかし……。
「それにしても」
 はあ、とため息をついて顔を上げた。
「ここには来たくなかった」
「それは何故です?」
 不意に横から掛けられた声。
 那岐は顔の向きはそのままに、視線だけで振り向いた。明け方だというのに、きっちりと着込まれたスーツにも、柔らかそうな髪にも寸分の狂いもない。笑顔までもが完璧に計算されつくしているように思えてくるのは、彼のその底知れぬ人格を少しは見知っているからだろうか。
 那岐から数歩の地点で立ち止まり、邑悸は穏やかに微笑んで一礼した。
「お久しぶりです、先輩」
「その呼び方はやめてくれないか」
 那岐は顔をしかめた。
「お前にそう呼ばれるのは、かなわない」
「そうですか?」
 邑悸は一歩近付く。
「貴方が大学を卒業した後、行方を晦ましてしまったから――僕、随分探したんですよ」
「別に、行方を晦ました訳じゃない」
 那岐はようやく邑悸の方を見た。
「それに、お前に探される道理もない」
「……まあ、それはそうなんですけど」
 邑悸はひょいと肩をすくめた。
「お変わりのないようで、何よりです」
「お前は随分変わったようだが」
 那岐は、奇妙な笑みを浮かべる。
「お前がARMADAのボスとはねえ」
「ボスではありませんよ。僕にも上司はいます」
「そりゃあ形式上のことだろう」
「買いかぶりすぎです」
 邑悸は少年のように微笑む。――こういう笑い方をするところは、変わっていないわけだ。この笑顔と話術で、この男は数多の人々の心を手に入れてきた。絆されてはいけない、と那岐は気を引き締める。
「ところで、貴方は一体今どこで何をしていらっしゃるのですか?」
「知ってるんだろう?」
 邑悸は反問され、苦笑を浮かべる。
「何故です?」
「俺を探したって、自分で言ってたじゃないか」
「ええ、まあ」
 那岐は眼鏡の奥の目を細めた。
「お前は」
 薄い唇が歪む。
「探しているものは必ず見つけ出す男だ」
「…………」
 邑悸は黙って那岐を見返す。
「そして欲しいものは手に入れるんだ。そうだろう?」
「そうでもありませんよ」
 邑悸は一瞬垣間見えた無表情を、すぐに微笑みで覆い隠した。
「僕は貴方をARMADAに迎え入れたかった……一貴と同じようにね。それはかないませんでした」
「一貴がいれば十分だろう? あいつの方が俺より扱いやすいはずだ」
 ――だから俺を諦めたんだろう。言外に込めた意味を汲み取ったのか、邑悸は首を横に振る。
「違いますよ。僕は気付いたんです」
「……何にだ」
「貴方は」
 不意に、邑悸の顔から完全に笑みが消えた。暗い光を宿した瞳が、那岐を映す。
「既に僕の探していた答えを手に入れていた……」
 怜悧な表情は研ぎ澄まされた刃物のように、那岐の喉元に言葉を突きつける。那岐は余裕を失い、その顔から血の気が引いた。
「どういうことだ……?」
 からからに渇いた喉が、奥で粘つく。
「貴方は良くご存知のはずですが?」
 邑悸は再び笑みを浮かべたが、それは先ほどまでとは違って闇の匂いを纏っていた。
「貴方は気付いた。遺伝子『SIXTH』の正体に――」
「やめろ」
 那岐は声を上げる。
「それ以上言うな」
「貴方は真実を手に入れて怖くなった」
 だが、邑悸の柔らかな声は淡々と続いた。
「だから、逃げたんでしょう。研究の一線から退いて、下町の生活に引きこもった」
「何が悪い」
 那岐は鋭い視線を返す。
「俺はこの世界の秩序を掻き乱したくはない!」
「秩序によってつまはじきにされている者たちがいても、ですか」
 邑悸は「BGS」のことを差している。那岐はすぐに言葉を返した。
「どんな世界にもマイノリティは存在する。犠牲者の少ない道を選ぶべきだ」
「それは、貴方が独りで決定する事ですか?」
「…………」
 言葉を失った那岐に向かって、追い討ちをかけるように邑悸は言う。
「果たして、貴方にそんな権利はあるのでしょうか?」
「…………」
 那岐は黙ったまま俯いた。
「……まあ、いいでしょう」
 邑悸は意外にもあっさりと引き下がった。
「僕もまだ確証は得られていないし……満足するような答えは導き出せていないのですよ。さらなる研究によって実証が必要です」
「……お前」
「先輩。いえ、シモン=那岐」
 邑悸は那岐を遮り、唄うように言った。
「シモン=ウェルナードの名を継ぐ、天才の系譜たる曾孫……その才能を僕が手放した理由はね」
 穏やかな微笑み。那岐に、それは悪魔の笑みのように見えた。
 悪魔は唇を開き、毒を吐く。
「臆病者は、必要ないからですよ」
「…………!」
 頭にかっと血が上る。邑悸は面白そうに彼の表情を観察していた。
「せっかくの才能が台無しで、勿体ない。でもまあ、仕方がありません」
 那岐は煮えたぎるような眼差しを床に沈める。
 邑悸は軽い調子で続けた。
「僕は僕の力で貴方の得た真実に近付きます。そして」
 彼の靴が床とぶつかり、軽い音を立てる。それは、広く長い廊下に遠く響いた。
「貴方にできなかったことを……してみせますよ」
「…………」
 黙り込む那岐に、邑悸はちらりと視線を投げる。
「それはそれとして。あとであの患者のことについて聞かせてください。スタッフを向かわせます」
「……分かった」
 那岐が答えた直後、廊下にひとりの男が姿を現した。その服装から、医師だと――それも手術に参加していた医師のうちのひとりなのだろうということが知れる。
 那岐は腰を浮かせた。
「どうですか」
 邑悸の問いに、彼は重々しく首を横に振った。
「たった今、彼は息を引き取りました」
 つまり彼は――殺された、ということだ。今この瞬間、これは殺人事件になった。那岐の背中に冷たいものが走る。
 邑悸は口早に指示をした。
「各組織片からのDNAならびにRNAの抽出、半永久保存、解析の準備を。対象にメッセンジャーRNAも含めます」
「了解しました」
「それから同時に司法解剖も行って。第一段階の報告は明日の昼までに」
「はい」
「那岐先生」
 邑悸は振り向いて彼を見た。
「ご気分が優れないのでしたら、聴取は昼からにさせていただきましょうか?」
「いや」
 脂汗を拭い、那岐は毅然と彼を見返す。
「いつでも結構」
「では――朝食の用意をさせますので、その後お時間をいただきましょう。応接室へ案内させますので、しばらくここでお待ち下さい」
 てきぱきと指示を出し終え、邑悸は身を翻す。その背中を見送りながら、那岐はぎりぎりと音が立つほどに歯を噛み締めていた。