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第四章

  1

 一通りの診察を終え、那岐は聴診器を耳から外した。心配そうな様子で見守っていた兄妹二人に向き直り、微笑む。
「大丈夫、体は完全に健康。何も問題はない」
 ロベルトは目を瞬きながら那岐を見上げた。その髪を那岐はそっと撫でる。
「……辛い経験をしたんだな」
「…………」
 少年の顔がくしゃり、と歪む。
「可哀相に」
 ロベルトの小さな体を優しく抱き寄せ、那岐はまるで父親のように抱擁した。
「……ぅえ……っ」
 小さな声。だが、それは確実にロベルトの声だった。春樹とキラが顔を見合わせる。次の瞬間、部屋はロベルトの泣き声で満たされていた。

 それから十数分後。泣き疲れて眠ったロベルトをキラの持ってきた毛布に包んで、彼らは居間を後にした。
 那岐は春樹の私室へと向かい、彼と向き合う。春樹は不思議そうに尋ねた。
「どういうことだ? 何で声が出るようになった?」
「あれは転換性障害の一種だな」
「え? 何だって?」
「心の中の処理できない葛藤が身体症状や意識障害をもたらす状態をヒステリーというんだけど、その中でも身体に障害が出るものを転換型と呼ぶんだ。声が出なくなったり、耳が聞こえなくなったり……器質的な異常がないにも関わらず、そういう症状が出る」
 那岐は軽く天井を見上げた。
「ロベルトの場合は一時的なものだったようだな。余程怖い目にあったとか、ショックを受けたとか……」
「なるほど」
「最近街で殺されている子供って、みんな彼くらいの年齢じゃないか?」
「まあな」
 勿論、春樹も例の事件とロベルトとの関わりが気になっている。きつく眉を寄せた。
「ロベルトがあの事件の関係者……ってか?」
「そこまでは分からないが……」
 那岐の固そうな短髪が揺れる。春樹は続けた。
「もしそうだとしても、今のロベルトにそんな話をさせるのは酷だろう。とりあえず、ゆっくり休ませてやりたいんだ」
「…………」
 那岐は、小さな眼鏡の奥で目を瞬かせた。
「春樹、お前分かってるのか? もしロベルトが例の件に関わっているとしたら、あの子をこの家に置き続けることでお前たちも巻き込まれてしまうぞ。……お前だけじゃなくて、キラちゃんも」
「俺が追い出すったってキラが承知しねえよ。それに」
 春樹の瞳に賢しげな光が煌く。
「さっきレイが家に着ただろう? 俺が子供を拾ったって話をした――その報告は、ARMADA上層部に行くんじゃないか。ARMADAは例の事件を躍起になって捜査しているからな。レイも捜査途中だったんだろう」
 那岐はお、と声を上げた。
「なるほど」
「もし向こうがロベルトを事件の関係者だと判断したなら……」
「身柄を確保しに来る、かもな」
「ああ」
「それを期待していると?」
「別に期待なんかしてねえよ。ARMADAがロベルトをどう扱うかもわかんねえし、そう簡単に引き渡せるもんか」
 春樹は険しい表情で腕を組んだ。
「けど、ARMADAはロベルトの安全を守ろうとするはずだ。もしかしたら重要参考人になるかもしれない人物だからな」
「ARMADAを利用して、自分の身を守ろうってわけか」
 那岐は微笑んだ。
「そういう発想は好きだ。お前らしい」
「だろ?」
 春樹は軽く片目をつぶり、おどけてみせた。

 
  2

 春樹の思惑は的中した。レイから辰川家に保護された子供の報告を聞いた邑悸は、すぐさま「スタッフ」らに辰川家周辺の調査を命じた。「スタッフ」とは、二十代以降の「BGS」数名で、実戦よりも実務に長けており、あまり表舞台には出ない存在だ。彼の私的エージェント、時に私物化された「BGS」、とも揶揄される。邑悸個人の指示でのみ動くことから、そのように評されるのだろう。
 邑悸は先ほど入ってきたばかりの情報を、頭の中で整理した。――辰川家に保護された子供。何者かはわからない。春樹=辰川は医者を呼んだらしいが、一刻を争うような様子ではなかったようだから、重傷を負っていたわけではないのだろう。あの辺りで子供が行方不明になったという事件の報告はない。
「彼の身柄はどうしますか?」
 尋ねたスタッフの一人に、邑悸は軽く首を左右に振った。
「今は辰川家に預けて置こうか。まだ彼が事件の関係者と決まったわけじゃない」
「はい」
「十三件の事件の発生現場をマップにマークアップして」
 邑悸の声に応じ、彼の目の前のスクリーンに市街地のマップが展開される。最新の事件現場を示す赤い点滅に邑悸の目が吸い寄せられた。春樹=辰川の家からは、かなり近い。
「……なるほどね」
 邑悸は手元で被害者たちが持っていたもののリストを参照した。
 どの被害者もたいしたものは持っていなかった。だが、一つだけ共通するものがある。それは、十戒の刻まれたロザリオ。細い首に掛けられていたそれは、どれも全く同じ作りだった。
「これに見覚えはあるかい?」
 そのうちの一つを手に取り、邑悸は「スタッフ」に見せた。邑悸と同年代のその「スタッフ」は恭しくそれを受け取り、見つめる。
「これは……」
 「スタッフ」が邑悸の表情を窺うと、彼は静かに頷いた。
「教会の配布するものだね」
「つまり、今回の件には教会が絡んでいると……そういうことでしょうか」
「…………」
 邑悸は軽く目を眇めた。それだけで彼の纏う雰囲気はがらりと違うものになる。
「何故未登録の『BGS』の子供が教会のロザリオを持っていたのか……加害者は一体どこの者なのか」
 それは「スタッフ」に聞かせるためというよりも独り言に近い。敢えて誰も口を挟まないでいるうちに、邑悸は俯いたままぽつりと呟いた。
「純粋さは、時として狂気に近い」
「…………」
「無実であろうとするがゆえに罪を犯す――とても興味深いパラドクスだよ」
 邑悸は顔をあげる。その口元には、いつも通りの笑みが刻まれていた。

  3

 辰川家にロベルトが身を寄せてから一週間。ロベルトは時々笑顔を見せるようになり、口数も徐々に増えてきた。
 キラは滅多に自分よりも年下の者と接する機会がないせいか、喜んで彼の世話を焼いている。その様子はまるで姉弟のようだ、と春樹は思った。
 三日ほど前にもう一度那岐に診察してもらったが、何も問題はなさそうだということである。春樹もキラもそれを聞いてほっと胸を撫で下ろした。
 その日、朝からネットワークで仕事の情報を集めていた春樹にキラは声を掛けた。
「はるちゃん、買い物に行ってくる」
「はいよ」
「ロベルトも一緒に行くって」
「…………」
 外に出てもいいのだろうか。一瞬不安がよぎったものの、結局春樹は止めなかった。ロベルトもたまには外の空気が吸いたいだろう。最近は例の殺人事件も起こってないし、そうそう危険もないに違いない。
「気をつけろよ。できるだけ早く帰って来い」
「うん」
 ちらりとロベルトを見ると、目深に帽子をかぶっている。元々はキラのものだが、紺色のそれは彼によく似合っていた。
「じゃ、行ってきまーす!」
「いってきます」
「行ってらっしゃい」
 春樹がひらひらと手を振ると、ロベルトはかすかに微笑んで手を振り返した。――あいつ、これからどうすんだろうな。ふとそんなことを思う。
 父母はいない。家と呼べるような家はないが大きな建物に住んでいて、周りに同じような境遇の子供たちが沢山いた――春樹はロベルトについてそんな断片的な情報しか得ていない。それも、聞き出したのはキラである。ロベルトはあまり自分のことについて話したがらない。そして、キラと春樹に対して年齢不相応の遠慮をしているのだった。
 ロベルトひとりくらい、養える。金銭的にはその程度の余裕がないわけではないし、春樹の性格上ロベルトを放っておくことなどできそうになかった。気に掛かるのは、ロベルトが「BGS」かそうでないかが分からないということなのだが……。
 ――突然鳴ったチャイムの音が、春樹の思考を途切れさせた。
「誰だ?」
 ぶつぶつと呟きながらインターフォンに出る。
「はい?」
『ARMADAの硫平=鈴摩だ。覚えてるか?』
「……あ」
 モニターを見た春樹は、声を上げた。忘れるはずなどない。彼が未登録「BGS」のゲリラ組織「FFA」に拉致されたとき、救出部隊のリーダーを務めていた青年だ。だが、今日は制服を着ていない。
 春樹はドアを開けた。
「久しぶり。どうかしたか?」
「お前の家に、子供がいるだろう」
 硫平は声を低めた。
「……子供?」
 警戒の表情を浮かべる春樹に、硫平は言葉を重ねた。
「別に連れ出しに来たわけじゃない。無事ならいいんだが、一応注意を促しておこうと思ってな。今どこにいる?」
「それが」
 春樹は苦笑した。
「キラと一緒に買い物に……」
「何だって?!」
 急に大声を出した硫平に、春樹は目を見開く。
「近所だから、すぐ帰ると思うけど……」
「そういう問題じゃないだろ」
 硫平は春樹の家にするりと入り込み、後ろ手に扉を閉めた。周りに聞こえるのを恐れるかのように、声を落とす。
「お前、分かってるのか?」
「何をだよ」
「多分、その子供は目撃してる」
「……まさか」
 春樹は息を呑む。硫平は重々しく頷いた。
「一連の殺人事件の、唯一の目撃者だ」