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第六章

  1

『キラ=辰川さま。お連れ様がお待ちですので、至急インフォメーションデスクまでお越しください。繰り返します――』
 キラは足を止めた。
「何だろ? お連れ様って……」
 押していたショッピングカートを止め、ロベルトを見下ろす。今日の彼女の連れ、ロベルトならここにちゃんといる。
「とりあえず行ってみようか」
 ロベルトが頷き――その表情が凍りつく。その視線は、キラの斜め後方に吸い寄せられていた。キラもつられて振り向くが、特に何かあるわけではない。買い物客たちがいるだけだ。
「ロベルト?」
「…………!」
 大きな眼がますます見開かれ、唇が細かく震えた。ロベルトは何も言わず、身を翻す。
「あっ」
 キラが止める暇もなく、彼は雑踏の中へと駆け出していた。
「ロベルト!」
 慌ててカートを壁際に寄せ、追いかけようとして、すでに彼を見失っていることに気付いた。闇雲に探そうとして、思いとどまる。まずは館内放送の呼び出しに応じたほうが良さそうだ。もしかしたら兄かもしれない。キラは大急ぎでインフォメーションデスクへと向かった。

 
  2

 カイルとの会談を終えた、わずか数分後。邑悸は一貴をはじめとする研究員、そして医療専攻の「BGS」チームを集めて会議を開いていた。
「全ての遺体からは同一の薬物が検出されました」
 報告書をまとめたスタッフが口火を切る。
「薬物?」
 一貴が怪訝そうに声を上げる。
「そう」
 邑悸は彼に向かって微笑んだ。
「君も知っているはずだ。CCX-131」
「…………!」
 案の定、一貴の表情に衝撃が走った。
「んなアホな……」
「事実です。血中濃度は0.7から1.1マイクログラムパーミリリットル」
 スタッフは淡々と数値を読み上げる。
 それはARMADAで適正血中濃度とされている値、0.05マイクログラムパーミリリットルをはるかに超えていた。
「CCX-131の働きは皆も知っていると思うけど」
 邑悸は一同を見回す。
「『BGS』に投与することで、彼らの潜在的な能力を活性化させることができる。具体的な作用機序は不明だが、一般人には効かないことから、『SIXTH』のノックダウンによって発現する、『BGS』特有のレセプターに結合する物質だと言われているね」
「でも」
 ARMADA遺伝学研究所の特別顧問、匡子=香月が口を開いた。彼女は一貴の前任、つまり前所長である。
「CCX-131は副作用が強い」
 邑悸は頷いた。
「そう。脳神経に影響を及ぼすと考えられることから、慢性頭痛や幻覚・幻聴作用、一時的な失語症に陥りやすくもなる」
「過去にはCCX-131の投与が原因で統合失調症を引き起こしたり、また激しい躁鬱症状を見せた者もいたとのことです」
「犠牲者全てに投与されていたということは、組織的にCCX-131を使用しているところがあるということだろう」
 一貴が口を挟んだ。
「それ、どこや?」
「……企業間では」
 邑悸は口調を少しゆっくりとしたものに変えた。
「『BGS』に限定して投与され得る薬物のガイドラインが作られている。一つ間違えば、ただの人体実験――彼らの人権蹂躙に繋がってしまうからね」
「ああ」
「数値はうちの――『ARMADA』のデータが使われていることが多い。CCX-131の場合も同じで、ガイドライン上では血中濃度が0.05マイクログラムパーミリリットルを超えるような量を投与してはならないことになっている」
「…………」
「企業間でガイドラインを破れば、その罰則は一つ」
 邑悸は淡々とした口調で言った。
「四大企業間相互条約補遺の四条が定めるとおり、全ての『BGS』を巡るビジネスから撤退しなければならない」
「貴方は」
 匡子が口を挟む。
「この件に絡んでいる『組織』は企業ではないと思っているのね?」
「ええ」
「ほなどこや? 民間か?」
「どちらでもない」
 邑悸はポケットからじゃら、と取り出したものを掲げて見せた。それはロザリオ。
「まさか……」
「教会……?」
 一貴と匡子が口々に呟く。
「これには」
 邑悸の声は静かに、しかし場を圧倒するように響いた。
「被害者の血液が付着していた。そして指紋も」
 鈍く輝くロザリオ。断罪の煌きを宿すその色に、一貴は不意に慄然とする。
「教会の名の元に違法な扱いを受けていた『BGS』――彼らを、救出しなければならない」
 邑悸はきっぱりと言い切った。
「そのためにも、この連続殺人事件を解決する」
 これで、事件は終わるのだ――邑悸のその口調に、一貴は根拠もなく確信した。言葉一つで人々の心を動かす力。それが、邑悸の持つカリスマ性の一端なのだろう。
「解決の糸口は掴めているの?」
 匡子の問いに、邑悸は頷いた。
「ええ。既に動いていますよ」
 彼の手足となって動く「BGS」。それはきっと、邑悸の最強の切り札だ。
 だが、邑悸は他にも切り札を隠しているのかもしれない。一貴はぼんやりとした、しかし確かな予感を胸に抱いていた。

  3

 インフォメーションデスクの横で待っていたレイと椿の側に、長い髪の少女が駆け寄ってくる。
「レイちゃん!」
 レイは声の主を目にして表情を緩めた。
「キラさん」
「レイ、知り合い?」
 椿が不思議そうに尋ねる。一般人の少女が「BGS」に親しげに声を掛けるなど、考えられないことだ。
「ええ」
 レイは簡単に答え、泣き出しそうな顔をしたキラに向き直った。
「一緒にいた子は?」
「はぐれちゃったの」
 キラは蒼白な顔で小刻みに震えていた。
「さっきまで一緒だったのに、突然どこかに走って行っちゃって」
「分かったわ」
 レイは頷くとキラの頭にそっと手を触れさせた。
「その子供の名前は?」
「ロベルト。……ファミリィネームは知らない」
「はぐれたのはどこ?」
「そっちのお店……」
 レイはキラの指の指し示す方角を確認し、頷いた。
「レイ、どうするの?」
 椿の問いに、レイはきっぱりと言った。
「私はロベルトを探すわ。椿はここでキラ=辰川を保護していて。それから、邑悸さんに連絡を」
「了解」
「それじゃあ、また後で」
 レイは少し微笑み、キラに手を振った。キラは祈るように、両手を胸の前で組み、彼女の後ろ姿を見送る。――どうか、レイちゃんがロベルトを無事、見つけ出してくれますように。
 邑悸と通信を終えた椿は、遠慮がちにキラを見遣った。
「あの、キラさん……だったかしら」
「は、はい!」
 声を掛けられたことに驚いたように、キラは椿を見つめる。
「レイと知り合いなの?」
「あ、あの……」
 キラはどう説明していいか迷った。
「前にはるちゃん――お兄ちゃんが誘拐されたことがあって、そのとき家に来てくれて」
「えっと……」
 椿は少し考える。
「辰川……あ、貴方のお兄さんって、春樹=辰川?」
「そう!」
 キラは頷いた。
「すごく親切にしてもらったの!」
 素直な、真っ直ぐな笑顔。一般人から、こんな笑顔を向けられたことはなかった。椿は戸惑いながらも目を細める――それは微笑にも似た表情。
「……そう」
「キラ!」
「椿=水沢」
 背後から掛けられた声に、二人は振り向いた。硫平と春樹が駆け寄って来る。
「ロベルトは?」
「レイは?」
 口々に問うふたりに、椿は答えた。
「ロベルトは今所在不明。レイが探しに行っています」
「ちっ」
 すぐに駆け出そうとする春樹を硫平が止めた。
「よせ、危ない」
「けど、ロベルトは」
「聞いてなかったのか。レイが探している。俺もすぐ行く」
「…………」
「さっきロベルトが見たのは、犯人なのかもしれない。だから逃げたのかも」
 硫平は呟き、椿に目配せした。
「後は頼んだ」
「はい」
「…………」
 春樹は悔しげな表情で硫平を見送る。そのことに気付いた椿が、遠慮がちに、口を開いた。
「春樹=辰川……既に聞いておられるかもしれませんが、ロベルトを追っている人物は今回の事件の犯人だと思われます」
「……ああ」
「とすれば……それは」
「『BGS』だな。……俺たちは、敵いっこないわけか」
 春樹は唇を噛んだ。――何だろう、この悔しさは。硫平の背中を黙って見送ることしかできなかった、無力感。あのときも――「FFA」に拉致されたときも同じだった。自分の身すら自分では守れなかった。自分と同年代の少年少女たちに守ってもらっている――あまりの不甲斐なさに、情けなくなる。
 危険なことは全て「BGS」に任せ、それでいて一般人の社会は決して彼らを許容しない。多数派にとって都合のいい社会だといってしまえばそれまでだが、春樹はそれを無神経に許容できるほど、「BGS」について無知ではなかった。――いや、無知ではなくなってしまった。硫平に助けられ、レイと知り合い……そして今も、椿が側にいる。恐らくは、春樹とキラの身を守るために。
 立て続けに巻き込まれた事件の中で、春樹は「BGS」とそれなりに言葉を交わし、その人柄にも触れた。その印象はといえば決して悪いものではなく、むしろそれなりの教育を受けて社会に出ている彼らは、春樹などよりずっと大人びた物の見方や考え方をしている。そのことに彼は少なからず衝撃を受けた。
 「BGS」は確かに少数派で、社会の中では迫害されている。しかし実のところ、この社会には欠かすことのできない存在であり、間違いなく社会の一員なのだ。一般人はその事実に眼を背けて生きている。彼らを排除しても決して排除しきれないことなど、もう分かっているはずなのに……。
 「BGS」と一般人の間に、どうしてこんなに歪な関係が出来上がってしまったのだろうか。――「BGS」に殺されるのが怖いから? それとも……。
「春樹さん? 大丈夫ですか?」
 気遣うような椿の声に、春樹ははっと考えを中断した。
「いや、何でもない」
「…………」
 キラの小さな手が、彼のジャケットの裾をぎゅっと握る。
「ロベルト……大丈夫かな?」
「…………」
 あの、今にも泣き出しそうに潤む、青い眼を思い出す。あの子一人、俺は自分の力で守ってやることができなかった――俺は、無力だ。
「はるちゃん?」
 ――それでも。見上げる彼女の髪をくしゃりと撫で、春樹は微笑んだ。
「信じるしかねえだろ。あいつらを」
 ――それでも、キラは。キラだけは。
 そのとき、乾いた破裂音が辺りに響き渡った。春樹ははっと顔を上げる。この音には聞き覚えがある。
 椿の表情にも緊張が走った。
「銃声……?」
 思い出す。彼が「FFA」に捕らわれている間に起きたこと――何もできなかった、何も知らなかった、自分。
 同じだ。また、俺は……。
 春樹はキラをその場に残し、椿の制止の声も聞かずに飛び出した。――何も知らないままに終わるのは、もう嫌だった。