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第八章

  1

「レイ!」
 駆けつけた硫平と春樹が目にしたのは、おびただしい血を流して倒れている一人の少年と、その足元で気を失っているロベルト、そしてその傍らで立ちすくんでいるレイだった。
「レイ、どうした」
 春樹がロベルトを抱き起こすのを横目で見遣りながら、硫平は常ならぬ様子のレイの肩に手を置いた。
「わ、……私」
 レイの声が震えている。その両手にいまだ堅く握られたままの銃を見て、硫平は全てを察した。
「……お前はすぐに戻れ」
「え?」
 レイが顔を上げる。その顔色は蒼白だった。
 硫平はもう一度告げる。
「先にARMADAへ帰って、邑悸さんに報告しろ」
「……で、でも」
 硫平は一句一句区切るようにして言った。
「お前がここで見たものを、した判断を、全て報告するんだ」
「…………」
 レイは茫然と硫平と見つめ返す。その瞳の中の虚無の色を、硫平は良く知っている。――これが、「最初の殺人」。
「事後処理は俺たちに任せて、行くんだ。いいな?」
 彼の優しくも厳しい口調にレイはようやく頷くと、ゆっくりと歩き出した。おぼつかない足取りを心配げに見守ってから、硫平は春樹へと視線をうつす。
「そっちの子の様子はどうだ」
「怪我はない。多分、気を失っただけだろう」
「そうか」
 硫平は出血している方の少年の方にしゃがみこみ、半ば無駄だと知りながらも手首で脈をとった。
「…………」
 眼差しで問いかける春樹に、硫平は首を横に振って答える。
「手遅れだ」
 傍らに落ちていた包丁の柄をハンカチで包み、硫平はそれを手に取った。
「これが凶器か」
「え、ちょっと待て」
 春樹はばっと顔を上げた。
「まさか、……まさかこの子供が」
「多分、そのまさかだろう」
 硫平は陰鬱な表情になって呟く。
「殺人犯は――この子だ」

  2

 レイが戻ってきた。その知らせを受けた邑悸は会議を中断することにした。レイを応接室で待たせるように秘書に言いつけ、彼は急いでこの会議を埋め合わせるための様々な指示を出す。
 実は、彼の元には硫平から先に報告が届いている。現在の会議もそれにどう対処するかについて話し合っていたもので、大まかな方向性は既に決まっていた。邑悸はそれにとても満足していたのだが……。
 ――レイ=白瀧の発砲により被疑者死亡。
「彼女の『最初の殺人』……か」
 邑悸は嘆息した。
 どの「BGS」も、初めて人に傷害を負わせたときはパニックに陥る。衝撃的な鮮血の色。人の呻き声。手に残る、発砲の反動――それは、訓練では決して感じることのなかった生々しい感触。レイはそれをすでに経験した。硫平とともに、DOOMの「BGS」との銃撃戦に巻き込まれた時だ。あの後、レイは比較的冷静だった。少なくとも、そう見えた。内心はわからない。
 人を殺す経験をした「BGS」はそれ以上に心に深い傷を負うことが多い。己が「BGS」として背負った業を、今更ながらに突きつけられたような想いをするのだ。
 その恐怖心を取り除くような精神訓練も理論的に可能ではあるが、それは行われていない。「BGS」が殺人を躊躇わないようになる、殺人に対しての抵抗心を失う――それは即ち、彼らがただの武器に成り下がるということだ。
 その代わり、というわけでもないが、「BGS」のカウンセリングには充実した体制が敷かれており、専門スタッフのほかに邑悸自らも参加している。レイには自分が話をしようと、邑悸は心に決めていた。しかし、うまくいくだろうか。彼女は頭のいい少女だから、上辺だけの、口先だけのカウンセリングになど何の意味も見出さないだろう。彼女の心のどこかはいつも冷静で、それでいながら更にその奥底には灼けるような感情の奔流を隠している。それに触れようとすれば、邑悸自身の秘した本心にも触れられてしまうかもしれない。それは避けたい――けれどそれは、同時に抗いがたい魅力でもある。
 それこそが、邑悸にとってレイの存在が「特別」なものである理由なのだから。

 邑悸は応接室の扉を軽くノックし、ゆっくりと開けた。ソファの端に座る華奢な背中。音に気付いているだろうに、振り返ろうとしない。
 邑悸は足音を忍ばせて近付き、背後から彼女の肩に腕を伸ばした。ゆるく巻きつけるように、腕を回す。
「む……邑悸さん?!」
 レイの背中が強張る。覗き込むと、驚いたように見開いているレイの目は、赤かった。泣いていたのだろうか。邑悸は静かに呟く。
「君が無事で良かった」
「…………」
 レイは黙って首を横に振り、やがて力なく項垂れた。
 邑悸はそれ以上何も言わずに彼女から離れると、レイと直角になる方向のソファに座り、彼女の横顔を見つめた。
「それで――何があったのか。報告して欲しい」
「…………」
 彼女の体は一瞬ぴくりと震えたが、すぐに顔を上げ、しっかりと頷いた。
「はい」
 彼女は訥々と語った。ショッピングモールでキラを呼び出したが、ロベルトとは既にはぐれてしまっていたこと。彼を追ううちに、被疑者とロベルトが対峙しているところに遭遇してしまったこと――。
「それで」
 レイの口調が急に遅くなった。
「被疑者が……ロベルトの喉元に凶器をつきつけていて」

 ――僕らは生まれてきちゃいけなかったんだよ。

「説得にも応じる様子を……見せなくて」

 ――生きてちゃいけないんだ。

「ロベルトを刺そうとして、それで」

 ――生きれば生きるほど、僕らは罪を重ねていくだけだから。

「それで……だから、」

 ――Quo Vadis Domine……。

 銃声。血。屍。
 脳裏に蘇る音と映像に、レイはぎゅっと目を瞑った。――報告しなきゃ。報告しなきゃ。報告、を……。

 ――それ、人を殺せるんだろ?

「違う!」
 レイは膝の上で体を折り曲げた。苦しい。頭ががんがんと鳴り響く。痛い。
「違う……!」
「レイ、」
「私、殺したくなんてなかった!」
 それは悲鳴にも似た呻き。
「包丁を――凶器を離してって言っても、聞いてくれなくって」
「…………」
「神様神様って何だか良く分からないことを繰り返すばかりで」
「…………」
「でも子供だし、……子供だったけど、でも」
 ――貴方を、私に殺させないで!
 祈ったのに。私はあんなに祈ったのに。願ったのに。叶えられることはなかった。
 彼女の喉がぐっ、と音を立てた。邑悸はレイの目の前にかがみこみ、その膝にそっと手を置く。
「吐き出してごらん。全部」
「…………」
 レイが顔を上げて邑悸を見つめた。その瞳は、涙で濡れている。そこに映る邑悸は、ひどく優しい表情をしていた。
「僕が、聞いているよ」
「……あ」
 レイは目を見開いた。
「側にいるから」
 嗚咽が漏れる。
「あ、あ……私」
「…………」
 レイは差し出された邑悸の腕に、掴まるようにしてしがみついた。
「ごめん……なさい……」
 その一言を吐き出すと、彼女は背中を震わせた。
「……え?」
 邑悸は思わず、聞き返した。その単語は、彼の予想にはないものだった。――レイは、誰に謝っているのだ?
 レイは聞いているのかいないのか、祈るように呟き続けた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさ……」
 邑悸はそっと彼女の背中を叩き、優しく問いかけた。
「レイ……誰に謝っているの?」
「……あの子に」
 レイは呼吸を落ち着けようとしているのか、何度か深呼吸を繰り返した。
「私が、殺した、あの子に」
 邑悸は息を呑んだ。
「何度謝っても許されないことだけど、それでも……」
「レイ」
 邑悸はレイの髪を撫でる。
「彼が、十数人の命を奪ったことは覚えているよね?」
「……はい。でも」
 レイは肩を波打たせながら、それでも静かな口調で言った。
「その制裁だなんて、思えません。そんな、神様の代弁者みたいなこと言ったら」
 ゆっくりと体を起こし、レイは邑悸を見つめる。
「あの子の理屈を肯定したことになっちゃう」
 ――これは僕が神様に課せられた使命だから。そう言って笑っていた少年。自分が彼を裁いたなどと、そんな風には思えない。そんな権利は、私にはない。
 だから、彼の罪は罪として、私が彼を殺してしまったこともやはり罪なのだ。彼に公式な、法的な裁きを受けさせる機会を奪ってしまったという意味でも。
「じゃあ、君はどうやって」
 邑悸は知らず知らずのうちに呟いていた。
「どうやって乗り越えるつもり?」
 通常「BGS」が傷を――「最初の殺人」のトラウマを乗り越えるとき、「秩序を守るため」という社会的な使命を盾にし、やむを得ないことだったのだと自らを守る。誰かがやらなければならない汚れ役なのだ。それを割りふられているのが「BGS」なのだと、そう考える。――だから、人を傷つけることも、時には殺人も、仕方がないのだと。そうやって、処理をしなければ潰れてしまう。
 だがレイはそれを拒絶した。罪は罪なのだと、彼女はそれを認めるという。
「……あの時私が撃たなかったら、ロベルトは死んでいました」
 レイはぽつり、と言った。
「……そうだね」
「私は一人の命を奪ったけれど、一人の命を救った。そういうことにして自分を納得させるしか、ない……そう、思います」
「それだけじゃない」
 邑悸は優しく付け加えた。
「彼がこれから殺したかもしれない人も、君は救ったんだ」
「…………」
 レイは少し黙って、やがて頷いた。
「はい……」
「…………」
 邑悸はしばらく彼女を見つめていたが、やがてその肩にそっと腕を回して引き寄せた。そうせずにはいられなかった。レイは少し身じろぎ、困ったように邑悸の名前をつぶやいた。だが、振りほどきはしない。
「レイ」
 レイの肩越しの邑悸の表情が、彼女の背後の鏡に映っている。――それは、どこか泣き笑いにも似ていた。
「君は、そうやって抱えていくのかい」
 触れた場所から、伝わる温もり。
「君が殺した人たちのことを、そうやって……忘れずに、過去に流してしまわずに」
 二人の鼓動が、混じり合う。
「君の罪として、ずっと連れて行くのかい」
 邑悸の声は、何故か苦しげだった。まるで――自分の罪を懺悔しているかのように。
「…………」
 レイは躊躇うことなく、頷いた。邑悸の頬に、彼女の柔らかな髪があたる。
「いつか、君のそれが重くなり過ぎたら」
 邑悸は囁いた。
「僕が手伝うよ」
「……ありがとうございます」
 レイは目を閉じ、彼のスーツを涙で濡らした。
 邑悸は目を閉じ、歯を食いしばった。――伝わってくる。彼女の胸の痛みが、心の疼きが。伝わってくる。それは彼にはもう、ないはずのもの。レイだけが彼に与えられるもの。
 邑悸は少しだけ力を込めて彼女を抱きしめた。何故か、そうしたかった。先ほどからずっと彼を突き動かすものがあって、どうしても彼女に触れないではいられないのだった。理由は、彼にも良くわからない。ただ、寄り添いたい。抱きしめたい。それだけだった。
 レイはぴくりと震えたが、すぐに邑悸の腕に身を任せた。邑悸を疑う理由など、どこにもないとでもいうように。
「…………」
 彼を信じ切っている様子のレイを見下ろし、邑悸はやがて静かに――満足げな微笑みを浮かべた。先程までの痛みは、既にない。自分の心に麻酔をかける術なら、邑悸は十分に良く知っていた。