instagram

第二章

  1

 ガタン、バタン、と物の倒れる音がして、春樹は眠りを妨げられた。まあ、あたりは閑静な高級住宅街ではなく、物騒な下町だから、やかましいのは仕方がない。春樹は寝返りを打ち、毛布を頭まで引き上げた。
 昨日――否、今朝、仕事を終えた彼が帰宅したのは朝の六時だった。今時計を見ると九時だった。カーテンの隙間から差し込む日の光を見ると、どうやら夜ではなく朝の九時らしい。
「騒ぐな、寝かせろ、頼むから」
 ぼそぼそ呟いて布団に潜り込もうとするが、再びガタン、と大きな物音。今度は家の中での音のようだった。
「…………」
 どうやら、キラが階下でばたばたと走り回っているらしい。普段、春樹が寝ている時には彼女は気を遣って静かに行動してくれるのだが。
 ガタン、とまた大きな音。――可愛い妹のすることだ、我慢しろ、我慢しろ……。
「はるちゃん、たいへんー!!」
 春樹はこめかみで何かが破裂する音を聞いた――ような気がした。我慢の限界である。
「何がだ!!」
 毛布を蹴り上げ、叫ぶ。
「眠い! 寝かせろ! 俺は寝たいんだ勘弁してくれ!!」
「でも!!」
 キラは彼の寝室の前で騒いでいる。
「子供が倒れてたの! うちのすぐ横の路地よ!」
「……なんだって?」
 子供と聞いてすぐに浮かんだのは、最近町を騒がせている例の殺人事件である。表沙汰にはなっていないが、噂は既に広まっている。そんなものに巻き込まれては大変だ、と慌てて飛び起き、ドアを開けたところでキラと出くわした。
「どういうことだ? 死んでたのか?!」
 キラは首を横に振った。
「ううん。今、ホットミルク飲んでる」
「……え?」
 聞き返す春樹に、キラは言う。
「さっき、外で物音がしたでしょう? 聞こえた?」
「ああ」
「それで、何かなと思って窓から覗いてみたの。そうしたら、子供が倒れてて」
 最初の音は、路地に積み上げられていたごみ箱などをひっくり返した音だったのだろう、と彼女は言った。
「とりあえずうちに連れてきたんだけど……何もしゃべってくれなくって……」
「しゃべらないくせにホットミルクは飲んだのかよ」
 こっそり毒づいてみるが、人のいいキラはそれに気付く様子もない。――単なるストリートチルドレンの行き倒れかもしれない。だがそうでないかもしれない。
「とにかく話聞いてみるか……」
 春樹はキラを寝室から追い出し、着替え始める。――眠気は、ひとまず去ったようだった。

  2

 その子供はちょこん、とソファの端に腰掛けていた。身奇麗ではあるが上着は着ておらず、足には靴下のみで靴も履いていない。春樹が挨拶がてらに片手を軽くあげると、子供は怯えたようにびくりと体を震わせた。少年とも少女とも付かない風貌。肩の辺りで切りそろえられた金髪と碧眼は、この辺りには珍しい。旧ヨーロッパ大陸の出身なのだろうか。
「落ち着いたか?」
 春樹が笑みを浮かべて見せると、子供は少し安堵したように体の力を緩め、こくりと頷いた。
「この人、私のお兄ちゃんなの。怖がらなくていいから」
 春樹の後ろについてきたキラは、そう言って子供に微笑みかけた。
「あ、ミルク全部飲めたんだ。良かった」
 キラがそっと子供の手からカップを受け取り、テーブルの上に置く。
「さて。喋れるか?」
 春樹が尋ねると、子供は少し俯いた。
「……喋れないのか? 俺の言うことは聞こえてるんだよな?」
「…………」
 子供は頷き、何かを訴えるように春樹をじっと見つめた。唇がぱくぱくと動くが、声は出ない。やがて子供は何かに気付いたように、小さな指先で空中に何か文字を書いた。声が出なくても、筆談ならできるということだろうか。春樹はキラに言った。
「キラ、紙とペン」
「はい!」
 春樹は彼女の手からそれを受け取ると、子供の前に差し出した。
「まず、名前を教えてくれ」
「…………」
 大きな読みにくい文字が紙の上を躍る。春樹はそれを読み上げた。
「ロベルト……」
「……男の子だったんだね」
 キラが的外れなところに感心している。
「で、だ。何があった?」
「…………」
 ロベルトは俯いた。紙の上でペンの先が小さく震えている。
「どうして話せない? 生まれつきか?」
 彼は黙って首を横に振った。
「どこから来た?」
「…………」
「ねえ」
 キラが春樹の袖を引いた。
「一度お医者様に見せた方が良くない?」
「医者ったってなあ……」
 春樹は言葉を切って、ロベルトを見遣った。彼は喉に左手を当て、右手で文字を綴った。
「『まえは、しゃべれた』……」
 春樹は文字を追う。
「『けど、いまはしゃべれない。りゆうはわからない』……」
「ね、ね、はるちゃん」
「うーん」
 春樹は軽く腕組みをした。精神的なショックで一時的に声が出なくなることがある、というのは聞いたことがある。とはいえロベルトが何者か全く分からない以上、下手に医者を呼べば無関係な人間を厄介ごとに巻き込むことになりかねない。しかし……。
「……あ、あいつならいいか」
 春樹はぽん、と手を打つ。
「あいつって……?」
「いやそりゃ勿論あいつだよあいつ」
 春樹はにやりと笑った。
「あいつならややこしいことに巻き込んでも全然気にならねえ」
「……それって、那岐(なぎ)先生?」
「そう」
 那岐、とは下町に診療所を構える医師の名である。数年前のある日、突然ふらりと町に現れ、そのまま居ついてしまった。誰も彼のファーストネームを知らない。彼が下町に来てすぐに知り合った春樹でさえ、だ。
 キラは唇をとがらせた。
「那岐先生、いい人だよ?」
「そりゃあ表の顔だ。あいつ、実はな……」
 兄妹の会話に完全に取り残されながらも、ロベルトは怯えたように辺りを見回すことをやめなかった。

  3

 四大企業のトップたちが顔を連ねる「サミット」。二度目の出席となった邑悸を待ち受けていたのは、やはり「連続殺人事件」関連の詰問だった。殺人事件の現場がARMADA本社付近に限られていることもあって、他企業の重役たちは揃ってARMADAを非難した。
「そもそも貴企業の施策が『BGS』たちを付け上がらせているのではないのか」
「『BGS』チームは『治安維持』の名目で組織されたのではなかったか。早く犯人を捕まえてみせたらどうだ」
「そもそも犯人はARMADAの『BGS』ではないのか」
「…………」
 邑悸はどんなに激しい口調で詰め寄られても、微笑を崩すことはなかった。
「貴重なご意見、感謝致します」
 慇懃に会釈する。その余裕たっぷりな態度が、他の社の重役たちを苛立たせた。
「我々の質問に答えたまえ」
 彼とは親子ほど年齢の離れた他企業の重役たちは、自然と邑悸を見下すような言葉遣いをとる。このBUISの役員もそうだった。だが邑悸は穏やかな笑みを浮かべたまま、ゆっくりと首を横に振る。
「私の口からは何ひとつ申し上げられません」
「何?!」
 色めきたつ重役たちに、邑悸は淡々と告げた。
「私が今発言することは、非常に大きな意味を持ちます。お分かりですか?」
「どういうことだ」
「犯人が私の発言を聞き、捜査を撹乱するために自分の行動を変えるかもしれないということです」
 邑悸はゆっくりと会議場を見回した。
「この会議は原則非公開ですが、情報は洩れるもの。我々のような立場にあるものが不用意な発言を慎まなければならないのは、当然のことでしょう」
「しかし……」
 邑悸はもはや他人に口を挟む隙を与えなかった。
「ARMADAの『BGS』についてですが、彼らが犯人になることはあり得ません」
「何故、そう言い切れるのです?」
 発言したのは、邑悸より年上ではあるがそれでも一座の中ではかなり年若い男だった。DOOMの重役、アレックス=テラ=ムード。年齢のせいか、それとも近年のARMADAとDOOMの目に見える対立のせいか、何かと邑悸と比較される存在だった。
 邑悸自身も、そしてアレックスも――それを良く知っている。邑悸の笑みがより深くなった。
「私たちが彼らを完全に自由にさせているとお思いですか? 彼らには常に発信機をつけて管理しています。お望みならログの公開も可能ですよ」
「しかし、手落ちもあるかもしれません」
「我々の手の内を見せるわけにはいきませんからこれ以上は詳しく申し上げられませんが、しかし彼らがこんなふうに安易に殺人を犯すことはあり得ません」
「何故です?」
 邑悸はアレックスをじっと見つめた。闇色の瞳が、どこなく不思議な色に揺らめく。
「彼らは本当の殺人とはどういうものかを知っている。人が死ぬとはどういうことか。この手で人を殺すとはどういうことか。我々には知り得ない、その本当のところを知っています――」
 アレックスの喉がごくりと鳴った。他の重役たちも、息を呑んで邑悸を見ている。
 穏やかな表情。優しい声音。それでいて、彼はこの場を圧倒していた。
 邑悸は瞼を閉じ、小さく、強い声でつぶやいた。
「彼らは知っている――本当の罪とは何か、をね」

  4

 その日も事件の捜査に出ていたレイは、手分けして現場の再調査に当たっていた。モビールを街角に止め、三時間以上粘ったが、新しい証拠は得られそうにはなかった。地面に膝をついていたレイが嘆息と共に立ち上がったとき、大きな声が彼女を呼び止めた。
「ねえ、そこの人!」
「…………」
 周囲を見回すが、辺りには彼女以外誰もいない。声の主はもう一度繰り返して彼女を呼んだ。
「いや、そこの人だって。黒髪の黒服さん」
「……私?」
 レイと目が合うと、その男はにやりと笑って見せた。短い茶髪にグラス部分の小さな眼鏡、ラフなジャケットを着込んでいる。三十代半ばほどの男だった。
「ちょっとさ、そのモビール乗せてくれない?」
「は?」
 レイは面食らって聞き返す。
「確か、ARMADAのモビールってサイドカーがついてるんじゃなかったっけ?」
「ついてはいますけど……」
 ――でも何故私が? そもそもこの人は誰? レイは戸惑いもあらわに男をじっと見つめた。男はその視線の意味に気付いたらしく、小さくあっと叫んだ。
「あ、そうか。俺のことなんて知らないよな。そりゃ失礼」
 男はにこにこと愛想良く微笑みながらレイに右手を差し出した。
「俺は那岐だ。君は?」
「レ……レイ=白瀧」
 完全に彼のペースに巻き込まれ、レイは大きな黒目がちの眼を瞬くばかりだ。
「レイ、レイさんね」
 那岐はうんうん、と頷く。
「実は俺、医者でね。急患の知らせをもらったんだが、車が壊れてて困ってるんだ」
「そ、それならそうと」
 レイは慌ててモビールに手をかけた。手際よくサイドカーを取り付ける。
「早く言ってください」
「あれ、あっさり信じてくれるんだね」
 レイは驚いて那岐を見上げた。
「嘘なんですか?!」
「いや本当だけど」
「じゃあ、乗って下さい。……ただし」
 レイはすっと眼を細めた。その顔から、表情が消える。
「明日から街を歩けなくなっても知りませんよ」
 「BGS」と堂々と関わった――それだけで、市民から白眼視されるには十分すぎる条件だ。だが、那岐は軽く笑って首を横に振る。
「大丈夫だよ、うちほど腕のいい医者はそうそういないから」
 レイはそれ以上彼の言葉には取り合わず、モビールを発進させた。
「あ、そこ左」
「はい」
 レイはスピードを上げる。向かい風に煽られながら、那岐はレイを見上げた。
「ご親切にどうも。お礼は何がいい?」
「お礼なんて要りません。お気遣いなく」
「はは、いい教育をしてるねえ」
 那岐は乾いた声を上げて笑う。
「その辺も彼の薫陶なのかな? ARMADAの英雄、なんて呼ばれている……」
「邑悸さん、ですか?」
 その二つ名は、レイも耳にしたことがある。どこか、誇らしい気分になったことを覚えていた。
「そうそう。その、彼だよ」
 那岐は意味ありげな視線をレイの横顔に投げた。
「実は俺、彼の大学の先輩なんだ。……って言ったら信じる?」
 レイは呆れた。
「信じて欲しいんですか。それとも信じないで欲しいんですか」
「うーん、まあどっちでもいいや」
 レイはちらりと那岐を見た。軟派な口調の中に、何か別の思惑が見え隠れしているような――本当にこの男は医者なのか。まあいい、乗り掛かった船だ。レイはとりあえず、那岐を彼の言うとおりに運んでやることにした。