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第九章

  1

 ロベルトが眼を覚ますと、そこは真っ白な部屋だった。腕にかすかな痛みを感じて身を捩る。腕から頭上のボトルに繋がっていく細い管が、ちらりと見える。点滴というその名を、彼は知らない。
 ――僕は、一体……。
「気いついたか?」
 声に驚いて眼を上げると、ベッドの隣に置かれた椅子に、知らない男が腰を下ろしていた。鳶色の長髪と眼鏡。ベージュのハイネックセーターの上には、ややよれた白衣を着ている。
「あ、あの」
 出した声はかすれていて、ロベルトは少し咳き込んだ。
「声、出るみたいやな」
 男は安堵したように微笑んだ。
「良かったわ」
「僕……」
 戸惑うロベルトに、彼は朗らかに話し掛ける。
「俺は一貴。一貴=斗波や。君がロベルトくん、やな」
「カズタカ……」
「安心しい。どこも怪我はしてへんかった。ただちょっとショックが強うて精神的に参ってしもたんやなあ。二日間寝っぱなしやったで」
「二日間も……?」
 ロベルトは呟く。すると芒陽としていた頭の中が急にはっきりとしてきた。彼は思い出す――優しい兄妹に拾ってもらったこと、静に襲われたこと、女の人が助けに来てくれたこと。そして、静は――彼の目の前で――。
「……っく」
 ロベルトは小さくしゃくりあげた。一貴は慌てて腰を浮かす。
「ど、どないしたんや? どこか痛いんか?」
 ロベルトは激しく首を左右に振った。
 ――静はどうしてあの時武器を捨てなかったのだろう。ロベルトにはわからない。
 静に刃物を突きつけられたとき――死が目前に迫ったとき、彼は単純に恐ろしかった。死にたくない……ただそれだけを思って、怖くて怖くてどうしようもなかった。「BGS」が神に許されざる存在であったとしても構わない。神に背いてでもいいから、生きたいと思った――それなのに。
 あの時、静は自ら死を選んだ。
「ああ、どないしよ」
 一貴はうろたえながら、ロベルトの小さな肩をトントンと叩いた。涙目で見上げると、一貴はひどく悲しげな顔をしている。
「そない泣かんといてえな。俺まで悲しくなるわ」
「……カズタカも?」
「そうやで」
 彼は穏やかに微笑んだ。
「こんな小さな子供が小さい胸痛めて……見てられへん」
「……カズタカ」
 ロベルトは小さな声で尋ねた。
「僕……生きていても、いいの?」
「……何やて?」
 一貴は真顔になり聞き返す。ロベルトは怒られるのか、と怯えたように、小さな体を余計に縮めた。
「僕らは……『BGS』は、生きていてもいいの?」
「当たり前や」
 力強く彼は頷いた。
「生きててええとかあかんとか、そんなん誰にも決める権利はあらへん。命はな、誰に何と言われようと、生きるために頑張ってるんやで」
「生きる、ために……?」
 ロベルトは目を見開く。その頬を、一粒の涙が伝って落ちた。一貴はその頬をそっと指で拭ってやる。
「何も食べへんかったら、お腹が空くやろ。寝えへんかったら、眠なるやろ。どこか切ったら、血が出て痛い思うやろ」
「……うん」
「それはな、全部全部、体が『生きたい』て思てるシルシなんや」
「…………」
 ロベルトは目を見開いた。――生きたい、しるし?
「食べへんかったら、生きられへん。寝えへんかったら、生きられへん。血が出すぎたら、生きられへん。せやから命は体にSOSを出す」
「…………」
「それだけやないなあ」
 一貴はひどく優しい顔をして、ロベルトの頭を撫でた。
「君がずうっと寝てたんも、生きるためや。疲れた心を休めて、また頑張って生きていくためなんやで」
「…………」
 ロベルトは自分の体を見下ろした。――僕の体は、生きたがっている……?
「胸張ったらええ。人間はみんな、頑張ってる命を抱えてるんやから」
 一貴は力強くそう言うと、ロベルトに笑い掛けた。
「…………」
 ロベルトは布団を口元まで引き上げ、かすかに頷いた。だが、あまりにも一貴の言葉は心地良すぎて――ロベルトは警戒して体を堅くしてしまう。
 一貴は少し苦笑したようだった。
「まあええわ。しばらくはゆっくり休み。ほんで、元気になったら学校に入り」
「学校?」
 ぽかんとしたロベルトに、一貴は説明した。
「教会におった『BGS』はみんなARMADAに入ったんや。友達やろ? 君もARMADAでいっぱい勉強せなあかん」
「ARMADA……」
 この間までいた場所で、「司教様」が言っていた言葉を思い出す――ARMADAは悪魔の手先の集まりなのだと。それでも一貴の優しさは到底紛いものだとも思えず、ロベルトは少し混乱した。だが、選択肢はない。ここにいていいと言われるのなら、ここにいるしかない。子供心に、ロベルトはそう納得した。
「君を助けたお姉さんな」
 一貴は、窓の方を向いて言った。逆光で彼の表情はよく見えない。
「君が目え覚ましたら、お見舞いに来たいって言うてたわ」
「……あ」
 ロベルトは眼を見開く。
「ええか?」
「……はい」
 ――静が撃たれた後、あの場に響いた悲鳴。あの声は、まだ耳の奥に残っていた。

 
  2

 大聖堂の中の応接室で、カイルはむっつりと押し黙っている。その顔を見たアレックスは,、湧き上がりかけた苦笑を押し殺した。それは、幼い頃から全く変わらない表情だ。幼馴染としてこの顔は、もう何十回、何百回となく見ている。
「いい加減諦めろ、カイル」
「しかし」
 カイルは薄い唇を噛み締める。
「せっかく集めた『BGS』たちを全部ARMADAに持っていかれるなんて」
 それはARMADAが彼らに出した交換条件だった。――今回の事件の一切は全く明るみに出さない。その代わりに教会が保護していた「BGS」の子供たちは全てARMADAの保護下にうつされる。
 カイルにはその条件を呑む以外の選択肢は存在しなかった。
「仕方ない。CCX・131の件はお前の落ち度だ」
「…………」
「それに」
 アレックスは顔を引き締めた。
「本当に肝心な計画のことは、何も洩れていないだろう?」
「……そうですね」
 カイルは少し余裕を取り戻し、頷く。
「今のうち、あの男にはいい思いをさせておけばいい」
 アレックスは苦い笑みを浮かべた。今年、DOOMの業績は完全にARMADAに追い抜かれた。その差が「BGS」を手駒として使うARMADAと、まだ使い慣れていないDOOMという点にあるのは明らかで、DOOMの経営陣は歯噛みしたものだ。
「しかし」
 アレックスは呟く。
「何故『BGS』には有能な者が多いのだろう」
「さあ」
「不思議だな」
 首をゆっくりと左右に揺らすアレックスを、カイルは見るともなく眺めている。その表情は変に子供じみて、どこか寂しそうですらあった。

 
  3

 邑悸は画面に表示したデータを素早く上から下へ流し落とし、恐ろしいスピードでもって読み込んでいく。
 例の犯人の少年、静。ファミリィネームはわからない。教会で保護していた「BGS」の子供たちのほとんどは、ファミリィネームを保管されていなかった。つまり戸籍に未登録だったということ。新生児が戸籍に登録されれば、ARMADAから「BGS」検査を受けるようにとの到達が届くようになっている。これはほぼ強制であり、ARMADA統治圏内であればほとんどすべての地域で行き渡っている制度だ。だが、戸籍に登録される前に教会で極秘裏に「BGS」かどうかの検査を実施してしまえば、その時点で「BGS」とわかった子供をそのまま引き取ってしまうことは不可能ではなかったのだ。
 邑悸はこの一件以降、全ての病院に通達を出し、新生児が出生した場合すぐにARMADAに報告するよう義務付けた。今後、このようなことは起こしてはならない。
 邑悸は軽く息をつき、再びデータを眼で追い始めた。
 静は享年八歳。目立たない、無口で大人しい少年だったようだ。ただ他の子供たちに話を聞いたところ、宗教行事には異常なほど熱心に参加していたという。また、教会に住み着いた猫や犬の世話をする姿を何人かの子供が覚えていた。動物好きだったのだろうか。添付されている写真には澄み切った眼をした、愛らしい顔が映っていた。
 ――この子を、レイは殺したわけだ。邑悸は少し隈の浮いた眼をこする。そして、最近見る夢を思い――ため息をついた。

 彼の手は銃を握っている。その銃口は震え、一点に定まらない。向こうに霞んで見える一人の子供。静だ。ぶれる視界に気持ちが悪くなる。
 ――耳鳴りにかき消されていた言葉が徐々にはっきりと聞こえるようになり、それに従って激しく揺れていた世界は秩序を取り戻していく。

 ――Quo Vadis Domine――

 銃声、真っ赤に弾け飛ぶ体、響き渡る悲鳴。

 ――貴方を、私に殺させないで……!、

 あの日、レイは邑悸の部屋を去る直前に尋ねた。
「クオ・ヴァディス・ドミネとは、何語ですか?」
 邑悸は一瞬面食らったものの、優しく返答する。
「Quo Vadis Domine――ラテン語だったかな。『神よ、何処に行き給う』ってね。もともとは聖書の外伝に書かれていた言葉だ」
「聖書……」
 レイが顔を上げる。邑悸は頷いてみせる。
「そう、現在の教会の教義の基になった、旧世界で信仰されていた宗教に関連した言葉だよ。……確か、ペトロ行伝だったかな? 大昔の小説のタイトルにもあったように思うけれど」
 邑悸は遠い記憶の糸を手繰った。
「まあ、伝承なんだけれど、ね……」

 使徒ペトロは神の子キリストの死後ローマへ宣教し、ネロの迫害下で逆さ十字架にかけられ殉教したとされている。何故、ペトロは一旦は離れたローマへと戻ったのか。
 ペトロがローマを背にアッピア街道を歩いていたとき、死んだはずのキリストが反対側から歩いてくるのが見えたという。彼が「主よ、どこへいかれるのですか?」と問うと、キリストは「あなたの代わりにローマへ」と答えた。

「それを聞いてペトロはローマに戻った。殉教を覚悟して」
「…………」
 レイはぎゅっと唇を噛み、やがて口を開いた。
「ありがとうございます」
「レイ」
 そのまま去ろうとした彼女の腕を取り、邑悸は言った。
「ちゃんと食べて、眠らなきゃ駄目だよ。それができないときは、連絡して」
「大丈夫です。ありがとうございます」
 レイは微笑む。だがその頬には血色がなかった。
 邑悸は尋ねる。
「その言葉、誰が言っていたの?」
「ロベルトです」
 邑悸の問いに、レイは即答した。
「殺されそうになっていたとき、祈りを捧げるような姿勢で……何度も、何度も繰り返して……」
「…………」
 邑悸が一瞬黙り込んだ隙に、レイは一礼して部屋を去る。――邑悸は、彼女を追わなかった。

「ペトロは戻った。しかし」
 邑悸は呟く。
「神はいなかった」
 彼の耳には聞こえるようだ。ローマに戻った後、神の姿を捜し求めたペトロの声が。
 ――Quo Vadis Domine――神よ、何処に行き給う。
 そして、彼は殉教した。
「レイが、早く悪夢から解放されるといいんだが……」
 邑悸はデスクに肘を突いて顎を手の甲に載せた。彼が見ているのは、レイの夢なのだ。間違いない。
 ――少しずつ、「共鳴」が強くなっている。不意に、邑悸の口元に笑みが浮かんだ。不敵で、不遜な。
「僕はアッビア街道を行く。ローマには、戻らない」
 ――だって、神様なんていないんだから。もう、どこにも。
 邑悸の手の中に握りしめられたロザリオは歪み、その形を失っていた。