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第三章

  1

 那岐の指示に従い、レイは下町の路地にモビールを止めた。那岐は身軽にサイドカーから飛び降りる。
「……ここは」
 建物を見上げ、レイは小さく呟く。そのアパートメントに、彼女には見覚えがあった。――春樹=辰川の家のある場所。春樹が「BGS」のゲリラに拉致されたとき、そして解放された後、彼女はここを訪れた。あれからまだ、それほど時間は経っていない。
 快活な青年と愛らしい妹を思い出し、レイは小さく微笑んだ。暖かな家族。彼女には決して手に入らないもの。いや、彼女だけではない。全ての「BGS」にとって、望むべくもないもの。
 無論、「BGS」にも結婚は可能だ。だがそれは「BGS」同士に限られたことだし、己の境遇を思うせいか、子供を産むことを躊躇う夫婦が多いという。「BGS」は遺伝しないと言われていても、やはりそうは割り切れないものだ。「BGS」の両親から産まれた一般人が、普通に一市民として暮らせるだろうか? 答えは簡単――否だ。謂われない差別にさらされるのは、火を見るより明らかだった。
「ん?」
 那岐がレイの顔を覗き込んだ。
「どうかした?」
「いいえ」
 那岐はふうん、とつぶやき、そして独り言のように続けた。
「そういや春樹、前にARMADAの世話になったって言ってたな」
「…………」
 レイは静かに那岐を見つめる。彼は相変わらず底の読めない笑みを浮かべたまま、尋ねた。
「君、何か関係してた?」
「申し訳ありませんが」
 レイは固い表情で彼を見返す。
「任務内容は外部の方にお話できない決まりになっているんです」
「そりゃあそうだな」
 那岐は軽く頷き、春樹の家のインターフォンを押した。帰らなければならないと思うのに、レイは気がつくと那岐の後を追って、アパートメントの階段を上っていたのだった。――もう一度、あの兄妹に会いたい。
『はーい、どちら様ですか?』
 聞き覚えのある、明るい少女の声。
「俺。那岐だよ」
『あ、今開けまーす』
 扉が開く。
「こんにちは……ああ?!」
「どうした、キラ」
 彼女の頭上から兄がひょっこり顔を覗かせ――妹と同じく目を丸くした。そんな表情が妙に似ていて、レイは思わず笑みを零す。
 那岐は真面目くさってレイを紹介しようとした。
「レイさんだ。ARMADAの『BGS』の一員で」
『知ってる』
 兄妹は口を揃えて答える。那岐はさらに言葉を重ねた。
「俺をここまで送ってくれたんだ。……車壊れちゃってさ」
「あ、あの」
 レイは少し戸惑ったように二人の顔を見比べる。言葉を選び、迷い――結局、口にしたのは。
「お久しぶりです」
 そんな、ありきたりな挨拶だった。

 
  2

「それで」
 レイは心配げに眉を寄せ、キラと春樹を交互に見遣った。
「急病って……」
「あ、いやいや」
 春樹は慌てて手を横に振った。レイは、春樹かキラが急病なのだと思っているらしい。
「那岐に用があるのは、俺たちじゃないんだ」
「そうなんですか?」
「ああ。さっき行き倒れてた子供を拾ってさ。まだ何者かもわからないんだけど、念のため医者に見せておこうかと」
 曖昧にぼかした言い方をする春樹に、レイは控えめにうなずいた。
「そうですか……」
 行き倒れていた、子供。時期が時期だけに気にはなるが、今自分が深入りすることは得策ではない。レイはそう判断した。
「では、私はこれで」
 レイは軽く会釈して背を向けた。ここに長居することは彼らの迷惑になる。ARMADAの「BGS」が辰川家に出入りしていると知れたら――彼らはもうここに住めなくなってしまうかもしれない。
「待って」
 そんな彼女をキラが呼び止めた。レイは肩越しに振り向き、首を傾げる。
「どうした、キラ?」
「ちょっと待ってて欲しいの」
 レイの代わりに尋ねた兄に答え、キラはキッチンへと走った。
「…………」
 残された三者は三様の表情で彼女を待つ。やがてキラは手に何か包みを持って戻ってきた。
「これ」
 くまの模様が描かれたラッピングフィルム。
「昨日作ったクッキーの残り。もらってください!」
「あ……ありがとう。でも」
 レイは春樹と那岐の顔を交互に見つめた。黒い瞳は何故か怯えているようでさえある。
 春樹は笑ってレイの肩を叩いた。
「遠慮なくもらってやって。余ってたんだし」
「うん」
 キラは笑って頷いた。
「お兄ちゃんは、昨日死ぬほど食べたから」
「……では、いただきます。ありがとうございます」
 レイは深々と礼をし、踵を返した。そのまま出て行こうとする彼女に、春樹は恐る恐る声を掛ける。
「なあ、お茶くらい飲んでいけば? 急いでんの?」
「…………」
 レイは足を止めたものの、今度は振り返らなかった。
「はい。急ぎますので、これで」
「……あ」
 何か声を掛けようとしたキラのその肩に、那岐がそっと手を置いた。見上げた彼女に、那岐は珍しく厳しい表情で首を左右に振る。春樹はぽつりと呟いた。
「……またな」
 その言葉がレイに届いたか、どうか。辰川家の扉が静かに閉まった。
「……なんで? 那岐先生」
 キラが呟いた。
「レイちゃんが『BGS』だから? だったら何? お友達にはなれないの? なっちゃいけないの?」
 那岐は少し困ったように微笑する。
「そんな、簡単な問題じゃないんだよ……」
「え?」
「そういえば」
 春樹の方を見遣り、彼は首をかしげた。
「お前らって、前からそうだったっけ?」
「そうって?」
「いや、『BGS』にお茶でもどうぞ、なんて。送ってもらった俺が言うのも何だけど、びっくりしたぞ」
「ああ……そうだよな」
 春樹は軽く頷いた。
「この前の――俺が連れ去られた時さ」
 彼は淡々と話す。彼を攫ったカイト=オズマのこと。彼を救った硫平=鈴摩のこと。そして、レイ=白瀧のこと。
 那岐は黙って耳を傾けた。
「で、俺は良く分からなくなった」
 春樹はため息をつく。
「今まで直に『BGS』と喋ったことなんてなかった。だからこっちにも勝手なイメージっていうか……さ。知らないうちに、偏見を持っていたんだろうな」
 ――でも本当の彼らは、俺達と何も変わらない、ごく普通の……。
「春樹」
 那岐の冷めた声が響いた。
「彼らに同情しすぎるのはやめた方がいい」
「え?」
「世の中、そんなに甘いものじゃないぞ」
「んなこた知って――」
「いや」
 那岐は軽く両目を眇めた。
「知らない」
「……な」
「お前は何も知らない」
 文句を言おうとした春樹は、那岐の視線に制されて口を閉じた。キラが緊張した面持ちで彼らを見ている。
 春樹は思った――やっぱり、こいつはただの医者じゃない。下町に流れ着く前、こいつはどこで何をしていたんだろう。もしかして、彼は何かから身を隠すためにここへ……?
 ――キイ。
 奥の扉が開き、ロベルトが顔を出した。そこにみなぎる緊張感に気付いたのか、びくりと体を震わせる。そして那岐に気付き、逃げるように扉の奥へと姿を消した。
 那岐はその小さな後ろ姿を見遣り、春樹に問い掛けた。
「患者ってあの子?」
「そうだよ」
「そうか」
 那岐の表情は、いつもの飄々としたものに戻っていた。
「じゃ、とりあえず診ますか」
「頼むぜ」
 春樹はそう言うと、ちらりと那岐の横顔を見遣る。――お前は何を知ってるんだよ、と詰問したい。けれど先ほどの那岐の鋭い眼差しを思い出すと、できない。
 こんなに胸騒ぎがするのは、春樹が既に何かに巻き込まれつつある自分に――そして自分はもう後戻りできないであろうことに、気付いているからかもしれなかった。

 
  3

 ――はあ、はあ、はあ……。

 息が上がっている。手の震えが止まらない。何度やっても慣れることなどできなかった。
 柔らかな手ごたえ。吹き出す鮮血。熱くて、そして徐々に冷たくなる体。
 包丁は頻繁に取り替えないと脂や刃こぼれで役に立たないのだと気付いた――そんなことまで、神様は教えてくれなかったから。

 神様。
 ねえ、神様。
 間違っていないよね。何ひとつ、間違ってなどいないよね――そう、間違っているはずなんてないんだ。
 ああ、そうだ。あの時、誰かに見られていた。きっとあれは……ロベルトだ。
 探さなきゃ。
 彼もちゃんと助けてあげるんだ。きっと楽になれる。何もかもから救われる。
 もう泣かなくていいんだよ。ちゃんと綺麗になれるから。
 神様はきっと許してくれる――。
 怖くなんてないのに、震えが止まらない。
 苦しいよ。
 とても、とても苦しいよ。

 誰か助けて――神様、助けて。

 
  4

 オフィスの窓際に立ち、邑悸は眼下に広がる街並みを見つめた。――この街のどこかに、十数人の子供を殺害したシリアル・キラーがいる。
「やれやれ……」
 それでもどこかに余裕を残した口調で、邑悸は小さく呟いた。
「そろそろこの下らない茶番も終わりにしよう」
 唇が薄く三日月状の笑みを刻んだ。白い歯が、ちらりと覗く。
「……この世界に、神などいないのだから」
 彼の呟きは外気を揺らすことなく、特殊強化ガラスに吸い込まれて消えていった。