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第七章

  1

「ずいぶん探したよ、ロベルト」
 その澄み切った眼に自分が映るのが何よりも怖かった。
「…………」
 声が出ない。せっかく治してもらったのに、また出なくなってしまった。ロベルトは一歩後退しようとして、壁に背中を押し付ける格好になった。
 滅多に人の通らないような狭い通路。逃げているつもりが、気付かないうちに上手く誘導されていたようだ。膝が震える。
 相対する人影は、ロベルトとの距離を一歩詰めた。
「さあ」
 その笑顔はさながら天使のようでいて、しかしどこか堕天使めいた退廃的な空気を醸し出している。
「『ざんげ』の時間をあげる。お祈りしなよ」
 ロベルトの脳裏に、あの歌が甦った。白い服を身につけた優しいおとな――確か、「しきょうさま」と呼ばれていた――が教えてくれた歌。「讃美歌」という名を、ロベルトは知らない。

 ――神様、どうか……。

 ロベルトの膝から力が抜け、彼は自然と跪いた。彼の唇から澄んだボーイソプラノが溢れ出す。

 ――罪深き私をお導き下さい。

 小さな両手を胸の前で組み合わせ、ロベルトは歌った。

 ――どうか、どうか見捨てることなく。貴方の御許へお導き下さい。

 ロベルトは胸元で十字を切った。

「Quo Vadis Domine」

 ――主よ、何処へ行き給う?

 
  2

 悪夢を見ていた。胸に残る十字の火傷が痛む。
「カイル様」
「何です?」
 ぐったりと身を預けていたソファから体を起こし、カイルは声を掛けた者を見上げた。施設のスタッフが、遠慮がちに彼を見つめていた。
「2-14、レイチェルがまた発作を起こしまして、我々では、もう制止がきかず……申し訳ありません」
「分かりました、すぐに行きます」
 カイルは立ち上がる。
 レイチェルはもうすぐ十歳になる「BGS」の少女だ。最近精神的に不安定な状態になり、頻繁に情動発作を起こしていた。カイルにしか、止められない。発作が邑悸に指摘されたCCX-131のせいかどうかはわからないが、否定もできない。ひとまずカイルは投薬中止を指示した。
 教会は、元より「BGS」の存在を許容していない。教会が目指すものは安定した恒久的な平和であって、平和を乱すものは即ち悪であり罪なのだ。「BGS」は、生まれながらにしてこの新世界を掻き乱す存在だ。すなわち、神に赦されざる存在――。
 カイルがこの極東で未登録「BGS」の子供を集めていることなど、他の教会の長老たちは知らない。知られれば破門されるだけでは済まないだろう。ただ一人知るのは彼の従兄弟にしてDOOMの重役、アレックスのみ――いや、これらは全て彼ら二人による計画だといっても過言ではない。
 カイルが我が子が「BGS」だと知って取り乱す両親たちに説いた言葉は、ただ一つだった。――私共が罪深き「BGS」を神の御許へ行けるように取り計らいます、と。
「レイチェル」
 カイルは部屋の扉をノックし、呼びかけた。彼らは大抵数人が共同で使う相部屋で暮らしているのだが、彼女は特別に今一人で過ごしている。
「はいらないで!」
 金切り声が響くが、カイルは構わずに扉を開けた。眩い光の中、床に流れる長い赤銅色の髪。
「レイチェル、私ですよ」
「……カイルさま?」
 顔を覆っていた小さな両手の隙間から覗き見える青い瞳には、薄く涙の幕が貼っていた。
「どうしたんです?」
 床に膝をつき、カイルは彼女の小さな体を抱き起こした。細い彼女の体は力を込めればあっさりと折れてしまいそうだ。
 レイチェルはカイルにしがみついた。
「あ、あたしね、見たの」
「何を見たんです?」
「……きっとあたしも殺されるんだわ!」
「落ち着いて、レイチェル」
 レイチェルの顔は涙と鼻水でどうしようもなく汚れている。カイルは袖からハンカチを取り出して拭いてやった。
「みんな、みんな殺される……」
 ハンカチの下からうわごとのように呟く彼女に、カイルは眉を顰めた。
「殺されるって、何のことです?」
「あたし、知ってるの。ここの子供が最近どんどん殺されてるんでしょ」
「…………」
 カイルの表情が険しくなる。その情報は、彼らに決して与えられるはずのないものなのに。
「それは、一体誰に聞いたんです?」
「誰って」
 レイチェルはくすくすと笑った。
「決まってるじゃない」
「誰?」
 根気強く問いかけると、レイチェルはどこか焦点の合わない双眸でくすくすと笑った。
「静よ。あたし見たもの。あの子がリアを連れ出していくの。朝になっても、リアは戻ってこなかったわ」
「……シズカ?」
 その名前を聞いたカイルの頭の中に浮かんだ人物は、ただ一人だった。――まさか……。しかし、リアとは三日前に殺されたばかりの子供の名だ。では、やはり静が……?
 カイルはレイチェルの体を離し、立ち上がった。
「レイチェル、お薬を飲んで寝なさい」
 机の上に置かれた鎮静剤を指差して部屋を出る。
「ふ……ふふ…っ…あははは……ははははは……! みんな、みんな殺される! 殺されるんだわ、あはははは!!」
 扉の奥から聞こえるレイチェルの哄笑が、カイルの不安を煽った。

 
  3

 キラがロベルトを見失ったあたりを探し回っていたレイは、足音と気配を消して奥の通路へと向かった。荷物の搬入用に使われているようだが、店の立ち並ぶ場所から少し離れているためか人通りはほとんどないといっていい。誘拐にはうってつけの場所だ、と彼女は思った。
 ――奥から、子供の声が聞こえる。
 レイはホルスターから拳銃を外した。息を殺し、速やかに前進する。

 ――お祈りはすんだ?

 通路の向こうから聞こえてくる声に、レイは息を呑んだ。彼女は銃を構えて通路から飛び出し、鋭く声をあげる。
「ARMADAの『BGS』、ナンバーダブルオー、レイ=白瀧です! 武器を捨てて下さい! さもなければ……」
 目の前に広がる光景に、レイは思わず言葉を途切れさせた。跪く少年の首元に押し当てられた、鈍い光。それが刃だということに気付くのに数秒かかった。
「あなた、だれ?」
 そしてその包丁を持っているのは――子供? レイは我が目を疑った。
「じゃましないでよ」
 さらりとした黒髪、つぶらな眼。七、八歳くらいだろうか。年齢はロベルトと変わらない。その子供が、包丁をロベルトに突き付けている。
「ロベルトがせっかく救われようっていうのに」
「救われる?」
「そう」
 子供はにっこりと微笑んだ。行動とは似つかわしくない、あまりにも邪気のない笑み。
「あなたも『BGS』なんだね。大丈夫、ロベルトの後に僕が救ってあげるから」
「何を言ってるの……?」
 レイは眉を顰めた。彼の言っている意味が全く分からない。
「救うって何のこと?」
「僕らは生まれてきちゃいけなかったんだよ」
 彼は歌うように言った。
「神様に背いた子供だもの。生きてちゃいけないんだ」
「…………」
 ずきり、とレイの胸が痛む。
「だからね、僕が」
 ――神様の下に行けるように、
「救ってあげるんだ。生きれば生きるほど、僕らは罪を重ねていくだけだから」
 違う、と言いたかった。生きることが罪だなんて、そんなことはない。だが、レイは言えなかった。代わりに、無意味な説得を続ける。
「……とにかく、その包丁を捨てて」
「いやだ」
「お願いだから」
 レイは祈るようにつぶやき、唇をぎゅっと噛み締めた。この少年も「BGS」なのだろう。だとすれば、彼はロベルトを殺すことができる。そうなってしまったら取り返しがつかない……。
 だが、少年は繰り返した。
「いやだよ」
「どうして」
「これは僕が神様に課せられた使命だから。神様が、僕を呼ぶから……」
「神様、神様って」
 レイの手が小さく震える。
「何を言ってるのか分からないわ」
「ねえ」
 少年は不意に微笑んだ。
「僕を止める方法を、あなたは持ってるよね?」
 彼の視線は、彼女の持つ拳銃に向けられていた。
「それで僕を撃てばいいんだ。それ、人を殺せるんだろ?」
「あなたがそれを放してくれれば……撃たなくてすむの」
 お願い、私に撃たせないで。レイは願う。貴方を、私に殺させないで。
「じゃあ、どうしたら撃ってくれるの?」
 少年はかすかに首をかしげた。ロベルトは虚ろな瞳でぶつぶつと呟いている。恐怖の限界を超えてしまったのかもしれない。

 ――Quo Vadis……。

 ロベルトの声がレイの耳に届いた。
 
 やめて。私に、貴方を殺させないで。

 ――Quo Vadis Domine……。

「あ、分かった」
 少年は明るく叫んだ。
 やめて。
「こうすればいいんだ」
 ――殺させないで……!
 少年の手が軽く動いた。包丁の刃がロベルトの細い首に向かって突き出される。レイは咄嗟に引き金にかけた指を絞った。足を狙ったのではきっと間に合わない。訓練で染み付いた習慣で、彼女はとっさに照準を――。
 パン!
 少年の体はふわり、と浮き上がり、一瞬後には床に叩きつけられた。手から離れた包丁が、硬い音を立てて床を転がる。
 貴方を、私に――。
「あ……」
 殺させないで――。
 レイは目の前に倒れ伏す少年を見て悲鳴を上げた。彼女の銃弾は彼の胸部を正確に撃ち抜いている。おびただしい出血が、その傷は致命傷だと物語っていた。

 ――Quo Vadis Domine……。

 ロベルトはまだぶつぶつと呟き続けていた。

 ――Quo Vadis Domine……。

 少年はもはや身じろぎ一つしない。
 ――私が、殺した。貴方を。殺してしまった。
 あとずさった彼女の踵が音を立て、彼女はもう一度悲鳴を上げた。