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第三章

  1

 リィ=スピアフィールドが辰川家を訪れたのは、春樹が男に拉致されてからちょうど三十二分後だった。春樹が意識を失う寸前、彼女に発した緊急事態とのメッセージ。それを受け取った彼女は、自分の仕事を大急ぎで切り上げ、彼の自宅へと向かったのであった。以前から渡されていた合鍵で、中に入る。実際にこの鍵を使うのは、初めてのことだった。
「おかえり! はるちゃん」
 妹のキラが飛び出してきた。ハニーブロンドの髪の、とても愛らしい少女で、春樹とはあまり似ていない、とリィは思う。。年齢以上に幼く見えるのは、春樹が過保護なせいだろうか。
「すまない、キラ。春樹じゃない」
「あ、リィさん」
 顔馴染みのリィの姿に、キラは微笑の質を微妙に変えた。きっと春樹の帰りを待ちわびていたのだろう。
「はるちゃんなら、まだお仕事だけど?」
「知っているよ」
 長い金髪をポニーテールにしたリィは、キラの目にはとても大人びて見える。春樹と組んで仕事をすることの多い彼女は、キラにとっては姉のような存在だった。そのリィが、キラをじっと見つめている。その表情の固さに、キラは緊張した。
「キラ、落ち着いて聞いてくれ」
「何?」
「春樹が何か厄介なことに巻き込まれたらしい」
「……えっ?」
 キラは聞き返す。リィは厳しい表情のまま、
「三十分ほど前、春樹からSOSメッセージが送られた。自分の身に何かあったことを、私に報せるためのものだ。すぐに連絡したが、全く応答しない」
「そ、そんな……」
 青ざめたキラを見て、リィは少し慌てたようだった。キラを泣かせたなどと春樹に知られでもしたら、大変なことになる。何とか元気付けようと、リィは彼女の肩を優しく叩いた。
「心配するな。私が何とかする」
「……うん」
 キラの蜜色の瞳に涙が溜まる。――ずっと二人で生きてきた兄妹だ。幼くして両親を亡くしてから、ずっと。
 春樹がいつも守ってきてくれたから、キラは今こうして生きていられる。春樹が居なければ、幼いキラなどこの街で生き延びられたかどうか、生きられたとしてもきっと、考えたくもないような悲惨な状況に身を落とさざるを得なかっただろう。
 リィはキラの頭を撫でると春樹の部屋へと向かい、所狭しと置かれたコンピュータを次々に起動させた。
「まずは」
 独り言を呟きながらファイルを探す。春樹は今日の取引相手の情報を必ず残している。
「……これか」
 プロテクトを数秒とかからずに解除する。
「…………」
 キーボートを叩きながら情報を検索するリィの横に、キラは紅茶を置いた。それが、今の彼女に出来る精一杯だとでもいうように。
「リィさん……」
 リィを信じるしかない。
「大丈夫だよ、キラ」
 リィは画面を見つめたままそう言った。
「相手は私を見くびっていたようだな」
 その口元には薄く笑みが浮かんでいる。リィがコンピュータを起動させてからまだ数分だが、彼女にかかれば大抵のセキュリティなどあっという間に突破されてしまう。今や春樹を攫った組織のことなど、リィにとっては手に取るように明らかだった。そして、春樹自身が自分で起動させた、自らの居場所を教えるGPS。
 後はどうやって彼を取り戻しに行くか。リィはじっと、それを思案するのだった。

  2

 リィが辰川家に現れたのとほぼ同時刻。邑悸はある報告をオフィスで受け取った。前々から目をつけていた「BGS」の反体制派組織、「FFA」――「Free From All」の略らしい――が街の便利屋の青年一人を拉致したらしい、というものだ。
 邑悸は静かに笑みを浮かべた。彼のチームである「BGS」たちには決して見せない、酷薄な笑み。
「ようやく尻尾を出したか……」
 実のところ、「BGS」の企業への隷属を拒絶し、社会への帰属を求める「FFA」たちの存在は、市民からもよく思われていない。「BGS」と社会との共生を叫ばれても、一般人にとっては迷惑以外の何ものでもないのだ。現状では、「BGS」は一般社会で生きていくことなどできない。それを何とかしたい――「FFA」の切なる願いは邑悸にも理解できるが、理解できるからといって支援してやるつもりは毛頭なかった。むしろ、その逆だ。
 邑悸は静かに笑みを深める。
「……レイを使ってみるチャンスでもあるな」
 邑悸はU-20チームの中から実戦経験のある幾人かの「BGS」たちを選び出して召集した。セルマ=ランティス。硫平=鈴摩。()香龍(カオラン)。最も戦闘能力の高い彼らを筆頭に、数名。
 「FFA」はそれほど大きな組織ではない。多くて二十名程度だろう。
「彼らで十分相手できるだろう。……それと」
 邑悸は最後にレイを選んだ。
「彼女には、春樹=辰川の自宅に行ってもらうことにしようか」
 さすがに、実戦経験のない彼女をいきなり「FFA」と接触させることはできない。――レイにもしものことがあったら、非常に困る。
「さて」
 彼らを召集した小会議室へと邑悸は立ち上がった。
「さっそく面白くなりそうだ」
 上着に手を通し、邑悸は誰へともなく微笑する。その笑みの意味を理解できる者は、今はまだ、どこにも存在しなかった。

 その十数分後――最後に邑悸はレイを呼び、彼女に課せられた役割の内容を告げた。
「君は誘拐された春樹=辰川の家に向かってくれ」
「はい」
 大人しく頷くレイに満足げに微笑み、
「そこには彼の妹と、多分友人がいる」
「友人……ですか?」
「そう」
 どうやって調べたのだろうとレイは思ったが、そんなことはARMADAにとって簡単なことなのだろう。超巨大コングロマリットARMADA――その頂点に近い場所に居る邑悸。本来は雲の上の存在のはずなのだが、レイは何故か彼に親しみを感じる。いや、レイだけではない。多くの「BGS」たちが感じていることだ。天涯孤独の「BGS」にとってARMADAはホームであり、それを与えてくれた邑悸は親であり、兄であり、上司なのであった。
 邑悸は彼の武器のひとつでもある人懐こい笑みを浮かべ、レイに説明した。
「その友人は、下町では有名な情報屋なんだ。数分前、辰川家のコンピュータから『FFA』をクラッキングしているが、きっと彼女だろう。既に組織の概要を割り出している可能性が高いし、もしかしたら春樹=辰川と連絡を取っているかもしれない。彼女と情報の交換が出来れば、それに越したことはないからえ」
「私が行って……協力していただけるでしょうか」
 「BGS」である自分が、暖かく迎え入れてもらえるわけがない。そもそも彼女は、孤児院からARMADAに迎え入れられて以来、ほとんどARMADA本社の広大な敷地を出ていない。
 邑悸は彼女を安心させるように、その肩を軽く叩いた。
「君はARMADAの構成員だよ。それに『BGS』チームは社会に貢献していて、沢山の特権が認められている。そのことは君も知っているね?」
 レイは無言でうなずいた。
「友人の身を考えれば、協力してくれるとは思うけどね――もし、リィ=スピアフィールドが拒むようであれば最大限ARMADAの権威を振りかざすこと。君はあまり気が進まないかもしれないが、任務の遂行には必要なことだ」
「……はい」
 浮かない顔のレイに、邑悸は優しく言い聞かせる。
「もしどうしても協力してもらえないようなら、仕方がない。それは君の責任ではないから、気にすることはない」
「はい」
 レイは頷く。
「…………」
 邑悸はレイが何かを言おうとしているような気配を感じ、少し待った。しばらくの沈黙の後、レイが口を開く。
「どうして……『FFA』の人たちは誘拐なんて……」
「手段を選んでいられなくなったんだろうね。企業には属したくない。けれど、一般人と同じようにして生計を立てていくことはできないわけだから。『BGS』は市民証明書がとれないから普通に職に就くことはできないし、住宅だって借りられない。隠したり書類を偽造したりしたって、いつかはばれる」
「……ええ」
 レイの表情は憂いを含んで晴れない。
「彼らも同じ『BGS』だから、心苦しいのは分かるよ」
 邑悸は優しくレイに語り掛ける。
「けれど――同じ定めを持つ者だからこそ、彼らが道を踏み外したときには正さなきゃいけないんじゃないかな。一般人を誘拐したって、何の解決にもならないのは君にもわかるだろう?」
 レイは頷く。
「迷うなとは言わない。悩むなとも言わないよ。君の自由だ。君はロボットでも奴隷でもないんだからね」
 レイが顔を上げ、邑悸の目をじっと見つめた。その瞳の色に微笑みかけて、邑悸は言った。
「君は、『人間』なのだから」

 さらにその十数分後――ひとけのない女子更衣室に、レイは一人で居た。ベルトを締め、銃を装備してブーツを履く。ブーツの底にはエッジが仕込まれていて、人間の足の腱などそのつもりであれば簡単に切断できる。その他、戦闘タイプの制服には各種装備が備えられていた。レイは初めて身につけるそれらに緊張するが、与えられた任務を考える限りそれは使う必要がなさそうだった。
 ――レイは迷っていた。同じ「BGS」たちと敵対するのは嫌だ。けれど……。
「私は、応えたい」
 ぽつりと呟く。まだチームに入って間もないレイに今回の任務を任せてくれた――邑悸の信頼に応えたい。
 間違っているのかもしれない。これからチームに入り、任務に就けばさらに迷うことも増えるかもしれない。
「でも……私は、信じたい」
 レイは眼を閉じた。私に任務を与える――私に居場所を与えてくれる、邑悸さんを信じたい。
「…………」
 指先が銃を探り当て、安堵したようにやがて離れていく。
 間もなく任務の開始時刻。レイは更衣室を出た。

  3

 春樹が眼を覚ますと、ひんやりとした感覚が頬を通して伝わってきて、全身がぶるりと震えた。
「ん……」
 窓のない部屋で、彼は床に寝転がされていたらしい。痛む頭を抑え、春樹はふらふらと立ち上がる。
「ちくしょう!!」
 格子戸をがたがたと揺すぶる。
「おい、誰か居ないのか! どういうつもりだ、こんなことして!」
 叫ぶこと数分。春樹がいい加減疲れをおぼえてきた頃、彼の呼び声に応えるように靴音が近付き、やがて春樹の目の前に一人の青年が立った。
「お初にお目にかかります」
 柔らかく微笑むその青年は、黄金色の髪とエメラルドグリーンの瞳を持っていた。年は春樹より少し上だろう。白いゆったりとした衣服には金糸の刺繍が施されていて、それは春樹の見覚えのあるデザインであった。これは、教会関係者がまとうものだ。しかも、おそらくこの男は……。
「司教……?」
 春樹はぼんやりと呟く。まさかここで教会関係者に会うとは思わなかった。
 青年は頷く。
「私は旧北京市にある大聖堂の司教、カイル=エル=ムードと申します。お見知りおきを」
 格子戸を通して白い手が差し入れられるが、春樹は彼の顔を睨みつけたままその手を取ろうとはしなかった。
「なんで司教がこんなところにいるんだ。『BGS』の地下組織とお前と、どういう関係がある!」
 春樹は頭に血を上らせて言い募った。
「それに、教会といったら対『BGS』強硬論の急先鋒じゃないか!」
 カイルは気を悪くした様子もなく、ゆったりと頷いた。
「おっしゃるとおり。『BGS』は神の十戒に背く存在であるという我々の教義を、否定する気はありません」
「じゃあなんで……」
 カイルは差し出していた手をすっと移動させ、春樹の目の前に掲げた。春樹は押されたように黙り込む。
「『BGS』と我々の関係が今のままでいいと思っている人たちなど、どこにもいませんよ。敢えてあげるならARMADA関係者だけでしょう」
「…………」
 春樹はむっつりと黙り込んでカイルを見つめる。その視線の険しさなどには無頓着に、カイルは微笑みを崩さない。
「『BGS』が忌避される所以は、その力にある。人を殺す力、そしてその他にも――彼らは他の人間とは異なった能力を持つと言われています」
 カイルは春樹の目の前に掲げていた手を下ろし、両腕を軽く左右に開いた。
「『BGS』たちはPHY指数、PSY指数など様々な点で一般人よりも勝っている。その力を企業営利のために独占的に使用するから、余計に市民に嫌われる」
「……その、ファイとかサイとかってのは何だよ」
 話の腰を折る春樹にも、彼は嫌な顔一つしなかった。
「PHY指数とはフィジカル指数、体力を測る指数のことです。PSY指数とはサイコロジカル指数のことで、知力の方ですね」
「…………」
 春樹は視線で話の先を促す。さっさとここから出て帰りたいのはやまやまだが、この部屋から出る術がない以上、カイルの話を聞く以外選択肢がない。
 カイルは春樹の内心を知ってか知らずか、ゆっくりとした口調で――まるで信者に説教をするかのような調子で――話を続けた。
「神に背く力を持つ『BGS』であっても、知力や体力においては恵まれているというのです。それもひとつの神の思し召しなのでしょう。それならば、その恵まれた才能を持って社会に貢献すれば――市民たちは受け入れるのではないでしょうか?」
「あり得ない」
 春樹ははき捨てた。
「そんなことで上手くいくなら、『BGS』たちが企業に属して働いている今だって同じことじゃないか」
「違います」
 カイルは笑って首を横に振った。
「企業の為に使うのではない――人類の為に使うのです」
「は?」
「企業に決められた方法に拠って使うのではなく、自ら選び取った方法で」
「どうやって選ぶんだよ。そんな状況じゃないだろ、今は」
「今は……ね」
 カイルは意味ありげに微笑んだ。
「けれど、この組織にいる『BGS』は私の意見に賛同してくれています。自らの手で自分の生を掴み取りたいと。生き方を選びたい、とね」
 カイルは流暢に言葉を続ける。
「彼らが真に神に帰依すれば、彼らが生来神に背いた存在であることなど問題にはならない。ですから、私は」
「カイル様!」
 大声が廊下の向こうから響き、こちらに駆けてくる足音が続いた。カイルは言葉を切って振り返る。
「何事です?」
 カイルの目前で礼をし、男は口早に言った。
「ARMADAにここが勘付かれた模様です。早く聖堂にお戻りください」
 カイルはその形の良い眉を軽くひそめた。
「……そうですか。やはりこの男を誘拐したのはやり過ぎだったようですね。これは明らかな違法行為。ARMADAに、つけこむ隙を与えてしまいましたか」
 その口調には何の感情もない。
「分かりました、ここを出ましょう。この組織はもう……」
 カイルは肩をすくめる。男は再び一礼した。
「はっ」
「ちょっと待て!」
 春樹は声を上げた。
「俺はどうなるんだよ! このままかよ!」
「私はここの鍵を持っていませんので」
 カイルはくすっと笑う。
「大丈夫、すぐに助け出してくれますよ」
「誰が?!」
「ARMADAの狗……『BGS』たちがね」
 歯を食いしばる春樹を横目で見遣り、カイルは身を翻す。その後に男が付き従った。
「くっ……」
 春樹はその後姿を、じっと睨みつけていた。