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第一章

  1
 
 イヤカフを通して、とめどない雑音。“セカンドフロアに敵、武装あり、五名、鎮圧、負傷者あり、拘束済み”
 彼女はそれを聞き流しながら、目の前の使い慣れない機械――ハードは古めかしいが、ソフトはかなり洗練されている――に指を走らせていた。先程「協力者」から提供されたデータにウイルスが仕込まれていないかを確認した後、接続していた自分の端末に移動させる。端末は片目を覆うゴーグル型で、彼女はそれを嵌めると、視線と瞬きとを組み合わせて操作を開始した。背後の「協力者」から向けられている無遠慮な視線には無頓着に、彼女はそのデータを目的のサーバに向けて送信する。
 “フォースフロアにロック、解析を。解析終了。解除完了。突入する”
 何人もの声が入り混じり、めまぐるしく呼応する。全ては離れた場所でのできごと。しかし、決して無関係ではないこと。自分の仕事は、あの戦闘場所のマップを手に入れることなのだから。
 “レイ”
 雑音の坩堝から、不意に全く異質な声が響いた。
「……はい」
 少し、返答が遅れた。声の主は気付いただろうか。
 いつの間にか、雑音は止んでいた。きっと、「彼」が回線を繋げ直したのだろう。マルチコンダクトモードからシングルモードへと。
 “今、君の送ってくれたデータを確認した。3D再構築もすぐ終わるだろう。前線(かれら)に送る”
「はい」
 「彼」特有の、低くつややかな、甘い声が耳元で言葉を紡ぐ。彼女は背筋を伸ばしたまま、「彼」の姿を思い浮かべた。均整のとれた長身。彼女と同じ、旧アジア系人種。穏やかな微笑みと、するどく煌く眼光。そして、その地位を思えば呆れるほどに――若い。
 “では、君の初任務は終了だ”
 「彼」はひどく親しげに、言葉少ない彼女に語り続けた。
 “帰っておいで”
「……はい」
 二度目の、遅延。
 帰る。私には、帰る場所がある。出迎えてくれる人がいる。
 彼女は――レイ=白瀧(しらたき)は通信を終え、イヤカフを引き抜いた。振り向いた先には、今回の彼女の協力者――ひとりの女と幼い少女。女は緊張した面持ちでレイを見つめており、少女は祈るように指を組み合わせている。
「ご協力感謝します、リィ=スピアフィールド、キラ=辰川(たつかわ)
春樹(はるき)は無事か?」
「申し訳ありませんが、それは私にはわかりません」
 彼を保護するのは前線のチームの任務だ。リィはため息を漏らした。レイは言葉を継ぎ足す。
「春樹=辰川が解放されれば、連絡があるかと」
「待つしかない、よね」
 幼い少女、キラは小さくつぶやいた。今回の誘拐事件の被害者、春樹=辰川の妹。
 春樹=辰川。下町の便利屋。何でも屋。非合法の、しかしながら違法ではない、ボーダーラインを歩く仕事人。
 殺されてはいないだろう、とレイは漠然と思っていた。それは、相手が一般人であろうが、「BGS」であろうが、関係がなかった。
 殺せるわけがない。人など、殺せるわけがない。
 彼女の身につけた戦闘服には、数多の武器が仕込まれている。銃もある。引き金を引きさえすれば、生命を吹き飛ばすことのできる武器が。
 それでもなお、彼女はすがるように、祈るように、思う。信じる。
 ――殺せるわけがない、と。
 
 
  2
 
 三か月前、旧上海――「ARMADA」市とも呼ばれる。
 旧世界を完膚なきまでに叩きのめし、気候変動によって世界を冬に閉じ込めることとなった「戦争」。ここは荒廃から、辛うじて復興を果たした数都市のうちのひとつである。それぞれにはその都市を拠点とする「企業」の名がつけられている。それらはただの企業ではない。かつて声高に叫ばれたグローバル化の名残を残すように巨大化し、既に営利組織の枠には収まりきらなくなった企業群は、やがて大きく四つの系列に分かれた。それぞれの系列企業を統率するのは四大企業と呼ばれる巨大コングロマリットで、かつての国家――というよりも、多国間における共同体といったほうが正しいだろう――の役割を果たしている。それぞれの名を、ARMADA、BUIS、CROM、DOOMといった。勢力地域は順に東アジア、ロシア、中央アジア、そしてヨーロッパである。逆に言うと、他の地域は未だ死の灰に閉ざされたままだということだった。
 戦後初期には、戦前から軍事産業にも関わっていた大財閥であるDOOMの影響力が、経済的のみならず政治的にも圧倒的であった。しかしここ数年の間、極東の新興企業に過ぎなかったARMADAが急速に台頭している。
 その原因となっているのは、あるひとりの男であった。名は邑悸(むらき)(やしろ)。弱冠二十七歳という非常識なまでの若さでARMADAの重役の仲間入りを果たした彼が、この壊れかけた世界に再び波紋をもたらすこととなる。
 その彼は今、とある学校にいた。講堂に登壇し、わずか十数名の生徒たちを見渡す。このとある特殊な教育組織の理事長という名の職も、今や彼が両手に余るほど持つ肩書きの内のひとつなのであった。
「高等部へようこそ」
 彼らはこの学校の新入生たちなのだった。皆、きっちりと皺の伸びた、プレスの効いた制服を着用している。どこか緊張した面持ちで、それでも皆が少しずつ似通った表情で――邑悸への憧憬を秘めて、彼をじっと見上げていた。
 そこに、彼女もいた。
 レイ=白瀧。彼女の視線を、強く感じる。
 邑悸は敢えてその感覚を抑え込み、新入生たちに穏やかに語り掛けた。
「僕は、『君たち』こそが人間らしい人間だと思う。一般人は『君たち』を人間じゃないというけれど、それは間違いだ。人類という種族四百万年の歴史の間、『例の遺伝子』なんてずっと存在しなかったのだから。『君たち』こそが人間なんだと――僕はそう思っている」
 自分の声がこの空間に広がるにつれて引き起こされた、場の変化。それに彼はひどく満足した。少年少女たちの表情から、緊張が少し解けている。
 邑悸は張り巡らせる。この高等部にいる生徒たちの心を掴むための、信頼という名の甘美な響きを持つ糸を。今この瞬間から、否、もっと前から、織り始めている。
 ――この学校は「檻」である。そのことを、生徒たちは良く知っている。生まれた時から彼らに押されている烙印。「人工殺人遺伝子」、通称「SIXTH」を持たないという烙印。「BROKEN GENE SIXTH」――「BGS」であるという烙印。それを持つ、彼らのための檻である。
 邑悸もまた、そのことを良く知っている。だからこそ、語り掛ける――彼らのための言葉を、彼らのためだけに。
 そこに、レイもいる。彼にとって、特別な意味を持つ少女。
 初等部や中等部にいた頃に見た、彼女の成績を思い出す。ほとんどすべての学科と体術、実技で満点に近いスコアをキープしていた。その無表情でとっつきにくい性格からあまり友人もおらず、孤独な優等生として生きてきたらしい。
 邑悸は微笑む。ただ一人に向かって。
 大丈夫だ、君は孤独じゃない――僕には、君が必要だ。
 
 レイはまだ、何も知らない。

  3
 
 人工殺人抑制遺伝子「SIXTH」には、たかだか百年程度の歴史しかない。だが、それは有史以来ずっとひとにあったものであるかのように錯覚され、社会はそれを受容していた。
 「SIXTH」――それは人類が自らに嵌め込んだ楔であると言われる。
 あの戦争からようやっとの思いで生き延びた人間たちは、二度と殺し合いが起きないよう画策した。その中で生まれた最大のプロジェクトが「SIXTH」であり、それがそのままそのプロジェクトで生み出された遺伝子の名前となった。前世紀最高の科学者、シモン=ウェルナードがその生みの親である。
 人間と他の動物とでは、同種族に対する「殺害」の持つ意味が違うのではないか――彼はそう考えた。動物たちも殺し合うことはある。特に自己の遺伝子を残すためには雄が他の雄の子供を殺すなど、人間から見ると残虐に思われるような殺戮行為も行われている。だが、それには「自己の遺伝子を残すため」という大義名分があり、自然界はそれを認めている。そうやって生き物は進化してきたのである。
 しかし人間は違う。宗教の違い、人種の違い、民族の違い、意見の違い、利害の対立、そういった問題が戦争に――殺し合いに結びついてしまう。誰の生存も脅かされてはいない場合でさえ、殺し合いが起きる。
 一方で自然界なら淘汰されてしまうであろう弱者を守り、一方で必要のない殺人を繰り返している――人間は矛盾した存在だ。本能を凌駕する理性の為せる業といえばそれまでだが、その結果がこのざまではそうも言っていられない。――ならば、人類自らが自身に欠落した本能をプログラムしてやればよいのではないか。このような経緯を経て「SIXTH」が全人類の螺旋構造の中に配置され、直接的な殺人は起きなくなった。
 一体「SIXTH」はどういった機構で殺人を予防するのか。そのことに多くの人々の関心が集まったが、ウェルナードは何も言わなかった。それが明らかになれば、人間から「SIXTH」が取り除かれる日が来るかもしれないと危惧したのだろうか。
 しかし、すぐにそのことから人々の関心は薄れた。生き延びるためにそれどころではなかった、という理由もあるし、何よりようやく訪れた平和を誰も手放したくなかったのだ。仕組みがどうであれ、平和になったのだからそれで良いではないか――。
 だが、どのようなプログラムにもバグは存在する。この場合のプログラムの齟齬は、「BGS」、「BROKEN GENE SIXTH」と呼ばれた。すなわち、先天的に「SIXTH」を持たない者たち。
 圧倒的少数である彼らが新世紀において認知されるには時間がかかったが、認知されてしまえば忌み嫌われ、社会から爪弾きにあうのは、ある意味当然のことであった。彼らは「殺すことができる」――正確には「殺してはいない」。だが、「きっと殺すだろう」「殺すに決まっている」「殺したようなものだ」と見做される。弾圧期などとも呼ばれる魔女狩りのような悲惨な時期を経て、現在「BGS」のほとんどは四大企業群によって保護されるようになった。さもなければ「BGS」と判明した時点で子どもたちは、あるいは赤子たちは、社会で生きていけなくなる。
 レイは、まさにそのような経緯を辿ってARMADAに辿りついた。すなわち、両親は不明。新生児の頃に遺棄され、市内の民間孤児院で育ち、やがてARMADAへ。周囲の子供らは出生時診断で「BGS」と判定されてそのままARMADAに引き取られ、社内の施設で育ったものが多いのに比べると、あまり恵まれているとは言えない環境であった。
 孤児院は、レイを「殺してはいない」ものとは見做さなかった。「いずれ殺すもの」と捉えていた。
 あの頃の経験が自分の感情の発達を妨げたのだろう、とレイは冷静に自己を分析している。感情が動かない。動かし方がわからない。笑われようが、怒られようが、詰られようが、皮肉を言われようが――どこか遠くの出来事であるかのように、ぼうっとしている。何かに遮られ、直接感じることができない。
 だからどうということはない。自分はそういう人間だ、ということだった。
 友人が少ないのも仕方がない。むしろ、自分のような人間に友人と呼べるような存在がいるだけ奇跡だと彼女は思っていた。
 椿(つばき)水沢(みずさわ)。レイと同じ、高等部の新入生であった。
 中等部入学以来の三年間、椿は常にレイの側にいた。自分などと一緒にいて何が面白いのだろうと訝しく思ったが、本人がそうしたいのならとそのままにしておいた。結果、少しずつ二人の間での会話が成り立つようになり、その時間が徐々に長くなり、そうして今では友人といって言えなくはない関係くらいにはなっているだろう――とレイは解釈していた。
 椿もそう思っていてくれるといい。レイはふと、そう思った。椿もまた、私を友人だと思ってくれるといい。