instagram

MEDICINE FOR YOU

「というわけで、お粥の作り方を教えてくれ」
「……はっ?」
 目の前でぐいと腕まくりをする邑悸を見つめ、一貴はぽかんと口を開けた。
「かゆ、て……お前が作るんか?」
 邑悸は真顔でうなずいた。
「言っただろう。レイが熱を出したって」
「そら聞いた」
「喉が痛くて普通の食事が辛そうだから、お粥を作りたいんだよ」
「それも聞いた」
「だから作り方を教えてくれと言ってる」
「…………」
 一貴はキッチンを見回した。調味料が並べられた棚、きっちりと仕舞い込まれた調理器具。ふだんここに立つのは一体誰なのだろう。不思議に思い、一貴は問い掛ける。
「ふだん、料理は誰がやってるんや?」
「レイが作ってくれることもあるけど、だいたいはハウスキーパーに頼んでいるね」
「ほな、今回も頼んだらええやないか」
 至極もっともな一貴の言葉を、邑悸はあっさりと却下した。
「それは駄目だ」
「なんで」
「愛がこもってない」
「…………」
「こら、勝手に帰るんじゃないよ」
 踵を返した一貴の襟首を、邑悸は素早く掴む。一貴は呆れ顔で振り返った。
「あのなあ。お前、ふだん料理せえへんやろ? お前がレイちゃんのためにお粥さん炊きたい思う気持ちはわかるけどな、無理せんとここはうまいこと作ってもろた方がええと思うで。何やったら俺が作ったってもええし」
「うーん……まあ君ならまだいいかもしれないけど……」
 邑悸はぶつぶつとつぶやいている。一貴は苦笑した。
「ま、今後のためにお粥さんくらいは炊けるようになっといても損はないと思うけどな」
「……君はどうやって覚えたんだい?」
「おふくろが姉貴に炊いてるのを横で見てて……やな」
 邑悸は複雑な笑みを湛え、一貴を見遣る。
「僕にはお粥を作ってくれる母親がいなかったからね」
「……あ」
 気まずげな表情になる一貴から目を逸らし、邑悸は淡々と続けた。
「生前も、研究研究で忙しくしていたし……それこそ風邪を引いた時の僕の面倒はハウスキーパーが見てくれていたよ」
「…………」
「お粥も作ってもらった。だけど……」
 あの味気なさは、きっと熱のせいだけではない。邑悸はそう思う。
「それはレイも同じ。今までは、熱を出しても看病をしてくれる家族はいなかったんだ」
 ぼんやりとした頭で見上げる天井は、いつもより高く見えるものだ。薄暗い部屋でひとりきり、ベッドで過ごす時間は長く――そして心細い。
「ああもう、わかったわ」
 一貴は金茶色の髪を掻き、やがてびしりと邑悸を指差した。
「ほなこれから俺がお粥さんの炊き方教えたる! しっかり覚えときや」
「うん、頼むよ」
 嬉しそうに笑う邑悸の顔に、一貴は心のどこかがほっとあたたかくなるのを感じていた。

 医療技術の進歩にも関わらず、案外風邪はしぶとく存在し続けている。生命を脅かすことのないかわり、特効薬もないのだから困ったものだ。レイはだるい体をベッドに沈め、ぼんやりと天井を眺めていた。
 邑悸は今この家にいるはずだ。先ほどまで側にいて、何かと世話を焼いてくれていた。傍らにある清涼飲料水のボトルにストローを差してくれたのも彼だし、額に張られた冷却シートも彼が用意してくれた。邑悸が側にいる時はたかが風邪に騒ぎすぎではないかと思ったものだが、こうやって部屋にひとり取り残されて見るとひどく心細い。熱のせいで気持ちまで弱気になっているらしい。
「……ふう」
 レイは寝返りを打ち、それと同時に頭を襲った痛みに眉をしかめた。
「風邪なんて、寝ていれば治るのに……」
 だからたいしたことはない。ただ寝ていればいいだけだ。明日になれば熱も下がるかもしれない。そうすればいつも通りの生活に戻れる。邑悸の側に、戻れる――。
 うとうととまどろみかけていたレイは、扉をノックする音にはっと目を開けた。
「レイ? 起きている?」
 控えめに問い掛けるのは、邑悸の声だ。レイはかすれた声で返事をした。
「はい。……どうぞ」
 あまり近付くとうつすかもしれない。レイは鼻と口をすっぽりと布団で覆った。
 部屋に入ってきた邑悸は、レイを見てやわらかく微笑んだ。その手には湯気の立つ茶碗の載ったお盆がある。
「レイ。お粥は食べれるかい?」
「……お粥?」
「ああ。薬を飲む前に何か胃に入れておいた方がいいからね」
「え……ええ。食べられると思いますけど……」
 一体誰が作ったのだろう。いつも掃除や料理をしにくるハウスキーパーだろうか。訝しげな眼差しに気付いたのか、邑悸はお盆をベッドの上のサイドテーブルに載せた。
「これ、僕が炊いたんだよ」
「え?!」
 レイは思わず布団から顔を出し、邑悸をまじまじと見つめる。邑悸はふだん料理をしない。若くして高い地位に上り詰めたせいか、自分の手で料理を作るという概念が欠けているのだと思っていた。そんな邑悸がキッチンに立つ日が来るとは……。
「そんな目で見なくても、ちゃんと味見はしたから心配しないで」
「……べ、別にそんなつもりじゃ」
 レイはあわてて身を起こし、くらりとめまいを起こして額に手をあてる。ベッドに腰掛けた邑悸がその肩に手を回し、支えた。
「熱いから、気を付けて」
 さじで粥をすくった邑悸は息をふきかけると、そのままレイの口元まで運んだ。
「……あの、自分で食べ」
「レイ、あーんだよ」
「……じ、自分で」
「あーん」
「…………」
「あーん」
 ちらりと邑悸を見上げると、有無を言わせぬ笑みが降ってくる。レイは観念し、口を開けた。木製のさじがレイの舌に触れ、中身をそっと置くと口外に戻っていく。とろりとした粥はほどよい塩味で味付けられており、たまごがふんわりと絡まっていて、たっぷりの水分がレイの喉を潤した。
「……おいしい」
 つぶやくと、邑悸は嬉しそうに笑ってふたさじめをすくう。
「そうかい? それは良かった」
 背中に回されている邑悸の腕があたたかく、レイは彼の肩に頭を預けた。それに気付いた邑悸は少しだけ目を見開き、やがて口元を微笑ませる。
「大丈夫だよ」
 粥を含んだレイが見上げると、邑悸は優しい眼差しで彼女を見つめていた。
「熱が下がるまで、側にいるから」
「……邑悸、さん」
 胸が、あたたかい。これは粥の熱のせいだけではないだろう。レイはパジャマの胸元で手をぎゅっと握りしめた。
「で、でも……風邪、うつしちゃうかも」
「うつったら、次は君が看病してくれればいい」
 邑悸は何でもないことのようにそう言った。
「困ったときはお互いさまだ」
 さじを差し出しながら、邑悸は笑う。
「だって、僕らは家族だから。そうだろう?」
「……はい」
 レイはうなずいた。邑悸は空になった椀を置き、レイの頭を撫でる。
「レイはいい子だね」
「…………」
 額に触れた邑悸の手はひんやりとしていて、レイは気持ち良さそうに目を細める。
「薬を飲んだら、また少し眠るといい」
「……はい」
 レイは素直に薬を飲み、ごそごそと布団の中にもぐりこんだ。邑悸は掛け布団の上からぽんぽん、とレイの肩をたたく。
「もしかしたら、君が目覚めた時僕はこの部屋にいないかもしれない。だけど、すぐに戻ってくるから」
「はい」
 レイはうなずく。その頬は熱のせいか、いつもより赤みを帯びている。まるでリンゴのようだな、と邑悸は思った。おいしそうなその赤に、唇を落とす。
「ゆっくりおやすみ……レイ」

 ――その頃、キッチンでは。
「こっぴどく鍋焦がしくさって……『後片付けは頼んだよ』て、どういうこっちゃ!」
 一貴が焦げ付いた鍋底と格闘していた。数分後、彼の横暴な上司が「リンゴをウサギの形に切りたいんだけど」と言いにやってくることを、一貴はまだ知らない……。