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HE ONLY KNOWS

 それは寒い冬の日だった。暖房のほどよく効いたオフィスにいる邑悸でさえ、窓の外の凍てつく空を見て軽く眉を顰めたほどだ。
 ARMADAに入社して二年――既に彼はこの巨大企業におけるプロジェクトリーダーという地位を手に入れた。この時二十二歳。彼はあらゆる意味で異例な存在だ。最終戦争後の新世界で忌諱されるだけの存在だった「BGS」に目をつけたのが彼の大きな特徴だが、しかしこれは何も彼のオリジナルな発想というわけではなかった。人工遺伝子「SIXTH」のために人が人を殺せなくなった世界での唯一の例外である「BGS」が、かえって様々な分野で有能であることは彼の前にも何人かの科学者が指摘していたことだ。だがそれらの発表が受け入れられることはなかった。
 邑悸も元々は医学者である。しかし、彼は自らの持論を持って超巨大コングロマリットARMADAに入社することを選んだ。彼という存在が特異である所以は、その政治力を操る巧みさにあるといえよう。
 カリスマ性があるという者もいる。話術が巧みであるだけに過ぎないという者もいる。穿った見方をする者は、彼を新世界に波乱をもたらす悪魔だと陰口を叩いた。
 何を言われようと、邑悸はただ平然と自らの道を歩んだ。――だが、彼が何を目指しているのかを知る者は誰もいなかった。
 
 
 デスクの上に置かれた通信機器がアラームを鳴らす。邑悸は無造作に回線を開いた。
「僕だ」
 若い女性の声が応える。
『不審者がスクールに刃物を持って侵入、子供一人が怪我を負いました』
「何?」
 予想だにしていなかった言葉に邑悸は眉を顰めた。
『容疑者は既に拘束済。今身柄を取り調べています』
「分かった。それと、怪我を負った子供の名前は?」
『硫平=鈴摩。十三歳です。今病院棟で治療を受けています』
 その名が別の少女のものでなかったことに邑悸は安堵した。――「彼女」を失うわけにはいかない。
 邑悸は気を取り直し、オペレーターへと告げた。
「病院棟へ向かう。車を出すように言ってくれ」
『承知しました』
 邑悸はデスクから立ち上がり、傍らに投げ出してあった上着に袖を通す。――その表情にはいつもの温和な笑みの片鱗もうかがうことができなかった。

 容疑者の名は大樹=鈴鹿、二十八歳。彼は先日ARMADAを解雇されたものだった。解雇理由は無断欠席と遅刻・早退数の多さで、完全に自業自得と思われたが、彼は怒りの矛先を「BGS」へと向けたらしい。
 ――「BGS」のガキどもが、いい気になりやがって! その場に居合わせた者は、そう叫んだ彼の言葉をしっかりと記憶していた。
 邑悸がプロジェクトリーダーとなって以来、「BGS」の教育には一際力が入れられている。ARMADAが昨今発展したのは、ARMADAによって教育された「BGS」がそれぞれの分野でその才能を開花させたことによる部分が大きい。それを不公平な「BGS」優遇政策と見る者の数は多い。ただ差別されるだけの存在だった「BGS」が一転して大企業ARMADAを切り盛りするようになった――その事実へのやっかみも加わって、「BGS」は一般人からますます忌諱されている。そういった現状を反映したのが今回の事件なのだろう。
 邑悸は車のレザーシートに深々と腰を埋めて小さく息を吐いた。
「――やれやれ」
 無表情で呟く彼の眼は限りなく冷え切っていた。
 
 
 硫平=鈴摩が入院しているのは「BGS」専用病棟である。邑悸は出迎えに出た院長や事務員達に軽く会釈すると、真っ直ぐに彼の病室へと向かった。
 軽くノックすると、小さな声が返ってくる。
「はい」
「邑悸=社だけど。入っていいかな?」
「あ」
 少年の声が一瞬裏返る。
「は、はい。どうぞ」
 特に歳若い「BGS」たちの間では、邑悸は一種のカリスマ的存在である。硫平が緊張するのも無理はない。
 邑悸が一歩踏み出すと、自動ドアが開いた。白い病室の中、大きな寝台に埋もれるようにして硫平が寝ている。視認できる範囲でも、頭に巻かれた包帯が痛々しかった。
 邑悸は先ほど院長から渡されたカルテにさっと目を通す。刃物で体全体に数箇所の傷を負わされているがどの傷も浅く、内臓が傷つけられている様子はなかった。無論、精密検査は必要だろうが。
 邑悸は硫平のベッドの側に置かれた椅子に腰を下ろした。
「わざわざ、すみません」
 硫平は紅潮した頬でそう言う。
「君が謝ることなど何一つないよ」
 邑悸は優しい表情で首を振った。
「むしろ謝らなければならないのは僕の方だ」
「え?」
「セキュリティに穴があったわけだからね。君たちを守るのは僕の責任なのに」
「……俺たちを、守る?」
 硫平はきょとんとした表情を浮かべた。邑悸は笑みを深め、枕の上に零れた硫平の髪をそっと梳く。
「当然だろう? 君たちはまだ子供だ。子供を守るのは保護者の務めだよ。そんなこともできないなら、僕は親御さんから君たちを預かるべきじゃないな」
 ――それは現状とはあまりにも違う言葉。新生児診断で「BGS」と判定された子供は、親が進んでARMADAに引き渡すのだ。硫平も勿論そのうちの一人で、その事実などとうの昔に知っている。
 親でさえ、「BGS」を手元に置きたがらない。無論それは世間にある根強い差別のせいもあるだろう。他の兄弟が「BGS」ではない場合、彼らにまで類を及ぼしてしまうのだから。それでも――親に捨てられたという事実は、「BGS」の中に常に濃い影を落とす。
 だから、邑悸の言葉は嘘だ。嘘なのだが――。
「邑悸さん……」
 彼の言葉は硫平の胸にすうっと染み透った。
 邑悸は軽く身を乗り出し、硫平の目をじっと見つめる。
「もう二度とこんなことが起こらないようにする」
「……え、」
「君に約束するよ」
「…………」
 硫平の澄んだ眼が揺れた。
「だから、どうか……僕を許して欲しい」
「…………」
 硫平はふと邑悸の眼から視線をそらす。
「俺……、さっきすごく怖かったんです」
「うん」
 邑悸は優しく頷いた。
「たいした怪我じゃなかったみたいだけど、そのときはすごく痛くて……それにすごく驚いたし」
 硫平は自分の腕に巻かれた包帯をちらりと見遣った。
「でも……何か簡単に諦められるような気がした」
「うん?」
 邑悸は怪訝そうに眉を顰めた。
「どういうことだい?」
「あの男の人は『BGS』じゃないみたいだから、俺のこと殺せないんだろうけど……でも、もし仮に殺せたとしても」
 硫平の伏せた瞼を縁取る睫毛が、かすかに震えていた。
「仕方ないのかもしれない」
 ――「BGS」だから。
「硫平君……」
「だって」
 硫平は膝の上で拳を握り締め、そして開き、また握り締めた。その拳が案外と小さくて、まだ彼は幼い少年なのだということを思い出させる。
「俺もいつかは誰かを殺すかもしれない。だったら、今俺が殺されたって文句は言えない」
「…………」
「それに……もし俺がいなくなっても」
 邑悸は小さくため息をついた。――次に続く言葉が、彼には予想できる。
「誰も」
「もういい」
 邑悸は硫平の言葉をさえぎった。硫平が涙を溜めた眼で彼を見上げる。
「もういいよ」
 邑悸は硫平の肩に軽く腕を回し、彼の髪を指で撫でた。
「君は思い違いをしているよ」
「え?」
「『BGS』であるということと、殺人者であるということとは全く別のことだ」
「どういうことですか?」
「よく考えてごらん」
 邑悸は硫平の横顔を見遣る。
「例えば君が誰かがいなくなればいいな、と思うとしよう。理由は何でもいい。嫌いだからでもいいし、もっと下らない理由でもいい。好きな子をとられた、とかね」
「はい」
 硫平はくすりと笑って頷いた。
「いなくなればいいな、と願ったところで人は消えたりしない。無論、何かの理由で君の前から姿を消すこともあり得るだろう。でもそれがいつ起こるかわからないし、それを待っている余裕もない。そんなとき」
 邑悸の薄い唇が奇妙な笑みに歪んだ。
「この手で、その相手がいなくなるように仕向けよう、この世界から排除しよう――そういう思考に辿りついたら」
「……それは、」
「そう」
 邑悸は頷いた。
「それが殺意、だね」
「…………」
「『BGS』でなくても殺意を抱くことは十分可能だ。実際、君を襲った男は殺意に溢れていたわけだしね」
「…………」
 強張った硫平の体を解すように、邑悸は優しく語り掛ける。
「大切なことは、殺意をどう制御するかだと思うんだ」
「制御……?」
「憎しみという感情を一度も経験しない人間などいない。だからといって、相手を傷付けてもいいのか、どうか。よく考えなくてはいけない」
「……はい」
「僕は、君たちへの教育の中に感情の制御、というプログラムを導入している」
 状況を理性的に判断すること、自らを客観的に見つめること――ARMADAにいる「BGS」たちは幼い頃から気付かぬうちに訓練されているのだ。
「だから、君が激昂して人を殺してしまうなんてことはない。安心していいよ」
「…………」
「それにね」
 まだ納得できない様子の硫平に、邑悸は言葉を重ねた。
「一般人にだって人を殺すことはできるんだよ」
「え?」
 硫平の顔が驚愕に染まる。
「『BGS』だけが人を殺せる、というのは生物学的に見た殺人についての見解にすぎない」
「どういうことですか?」
「君が生まれる前の話だけど、『BGS』の弾圧期を知ってるよね? 歴史で習ったはずだ」
「はい」
 それは二十年程前のことである。「魔女狩り」にもたとえられるほど徹底的に「BGS」が探し出され、街から追放された。以来、「BGS」は市民権を持たない。
「あの時代、『BGS』の何割が殺されたと思う?」
「『殺された』……?」
 硫平はまだ飲み込めないように瞬きを繰り返した。邑悸は苦笑を浮かべた。
「七割が本当に死んだ。自殺、という形でね。で、残り三割は社会的に抹殺された。存在そのものを否定され、社会生活を営むことが不可能だったのだから。生きていても死んでいても誰も何も知らない、気付かない。彼らが生きた証などどこにも残らなかった。それでは本当に『生きた』とは言えないんじゃないかな?」
「あ……」
 硫平は大きく息を吐いた。人を殺せないはずの一般人が「BGS」を殺す――そんなことが、実際あり得るのだと、邑悸は言う。
「対『BGS』に限らなくても良いんだけどね。人を傷付ける力なら誰にだって存在する。傷害とか暴行とか、そういったものだけではなくて、もっと残酷な方法で……」
「…………」
 硫平はじっと邑悸を見つめた。邑悸の瞳の色が、どこか傷付いたような……そんなものになっている。伏せられた眼は何を見ているのだろう……。
 だが邑悸はすぐに表情を元の飄々とした笑みに戻した。
「だからね。先天的に人が殺せる、殺せない、という区別は現実的にあまり意味がないと思うんだ。あくまで僕個人は、だけど」
「……はい」
 硫平は頷いた。
「それから」
 邑悸は拳を握った状態から自分の小指だけを天に向ける。
「約束して欲しい」
「……何を、ですか」
「自分がいなくなっても誰も悲しんでくれない、なんて馬鹿なことを言わないこと」
 硫平は眼を伏せた。
「…………」
「勘違いしちゃいけないよ。僕は別に、誰にでも必ず悲しんでくれる人はいる、なんて言いたいわけじゃない」
 硫平は少し怪訝そうに眉を顰めた。
「悲しんでくれる人がいなきゃ生きていてはいけないのかい? 一人ぼっちで生きている人は生きている価値がないのかい? そんなわけないだろう?」
「……あ」
「この世界にはいろんな命の形がある。誰にも省みられないままひっそり終わる命もあるかもしれない。だからといって、失われた命に価値がなかったなどと言うことはできないよね」
 硫平はこくりと頷いた。
「……はい」
「それと」
 邑悸は言葉を重ねる。
「君はさっき諦めてもいいと言ったけど……それだと、君に向けられたあの男の殺意を受け入れることになる」
「……それは」
 硫平は首を横に振った。
「嫌です」
「なら諦めちゃ駄目だ。あの男の八つ当たりを君が受け止める意味なんてないよ。そうだろう?」
「はい」
「じゃあ、約束してくれるかな?」
「……はい」
 硫平はようやく笑みを取り戻し、邑悸の小指に自分のそれを絡めた。
「約束だ。もう、死んでもいいなんて言わないこと。諦めるなんて言わないこと」
「はい」
「よし」
 邑悸は安堵の表情で身を引き、時計を見た。面会時間に終わりが近付いている。
「じゃ、僕はそろそろ帰るね。明日からは友だちが来てくれるようだから楽しみにしておいで」
「邑悸さん」
 椅子から立ち上がった邑悸に、硫平は声を掛けた。
「何だい?」
「俺、強くなりたい」
「…………」
「守られるんじゃなくて……守れるように」
「……硫平君」
 硫平のブラウンの瞳は強い光を放っていた。
「諦めても良かったなんて、嘘です。あんなの、言い訳だ」
 ただ無抵抗に切りつけられるしかできなかった自分への言い訳。弱い自分を、諦めようとしていた。――けれど、
「俺は、強くなりたい」
「…………」
 邑悸は穏やかな表情で硫平を見つめ、やがてゆっくりと頷いた。
「きっと強くなれる。君は強くなれるよ」
 ――そのために、ARMADAは彼らを教育しているのだから。
 硫平の無垢な瞳は何も知らない。ARAMDAの目的も、邑悸の目的も。
 邑悸はそれでも平然と微笑を続ける。

「強くなれるよ」

 全ての真実は、禁じられた言葉――今は、まだ。