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COOL DOWN THE SWEETS

 「BGS」にまつわる時代の転換期から、既に数年が経過した。だが彼女、キラ=辰川の人生の「転換期」はちょうどその頃から始まった。
 ――これは、そんな冬のお話。

  × × ×

 キラ=辰川は両手に買い物袋をさげ、うつむき加減に路地を歩いていた。それは彼女のような若い娘には似つかわしくない姿勢だったし、特にふだんの溌剌とした無邪気な彼女の様子とは全く違っているといって良かった。市場の知り合いとのちょっとした会話を楽しむという日課さえ、今の彼女にはただ億劫でしかないとでも言いたげである。
 ことの発端は、彼女が幼い頃から姉のように慕っていて、いっそ義姉になってはくれまいかと兄・春樹=辰川との関係にかすかな期待を抱いている、リィ=スピアフィールドに久々の再会を果たしたことだった。リィは片手に品定め中のオレンジを持ったまま、何か物憂げな光をその青い瞳に宿していた。キラは持ち前の鋭さで、それが自分に関係するものだろうとすぐに見抜き、そして尋ねた。
「リィさん、どうしたんですか? そんなにぼうっとして」
「いや」
 リィは曖昧な微笑を浮かべる。
「春樹は元気か?」
「はるちゃんなら、ついこの間もリィさんと一緒に仕事をしたって話してましたけど」
「あ……ああ、そうだったかな?」
「りゅうちゃんは」
 キラはそのハニーブラウンの長い髪を指先でいじりながら、もうひとりの同居人を何の気なしに話題に出した。
「しばらく風邪気味でした。でも、今はもうすっかり元気です」
「…………」
 リィの表情の変化は、沈黙を雄弁へと変えてしまう力を持っていた。キラは首を傾げる。
「りゅうちゃんが、何か……?」
「あ、いや、別に」
 リィはまたしても不審な愛想笑いを浮かべ、手にしていたオレンジを軽く宙に放った。落ちてくるそれを受け止めながら、
「あいつもいつまでキラちゃんちに厄介になるつもりなんだろうね? もうすっかり兄妹の一員気取りなのか?」
 とやや強い口調でつぶやいた。キラは驚いて眼を瞬く。リィがそんなことを言い出すなどとは、夢にも思わなかった。
「どうしていきなり……? なんか変だよ、リィさん」
「変? 私が?」
 リィはびっくりしたように小さく叫んだ。
「変なのは私じゃない、あいつだ。硫平だよ! 何たって私は……あいつのデート現場を見たんだからな」

  × × ×
  

「あれ?」
 傍らに座るレイの声に、邑悸はラップトップコンピュータの画面から顔を放した。
「どうかした?」
 車は今、信号待ちで動いていない。外からの視線を遮断する仕様のカーウィンドウだが、内側からは街の様子も良く見える。レイはウィンドウに顔を近付けていた。
「あれ、キラさんじゃ……」
「ん? キラ=辰川かい?」
「ええ。……久しぶりですね。一年くらいかな」
 ウィンドウの外を見ようと体を寄せた邑悸に、レイはわずかに赤面した。それに気付いた邑悸は口の端にうっすらとした笑みを浮かべ、やや不必要なほどに彼女に密着する。運転手のいる前部座席からはシャッターで区切られているし、ここにはうるさい一貴や匡子もいないから、遠慮する必要はない。さりげなく、レイの華奢な肩を抱いた。
「ああ、本当だね……。何だか重そうな荷物を抱えているし、ちょっと送っていこうか?」
「いいんですか?」
「ああ。今日はちょっとスケジュールに余裕があるんだ」
「そうですか」
 邑悸は運転席に繋がる回線で口早に何事かを指示した。車はするすると歩道に寄せられる。
 レイの大学が休みの日には、邑悸は秘書そっちのけで彼女を同行させることが多い。今日の教会主催の昼食会でもそうだった。おそらく、レイ本人以外の誰もが彼女を「邑悸=社のファースト・レディ」と認識しているのだろうし、何より邑悸自身がそう仕向けている。問題なのはいつまで経っても彼女が「邑悸の部下」という自意識しか持たないことだ。車のドアを開けてキラを招き入れるレイの横顔を見ながら、邑悸はどうしたものかとぼんやり思考に耽っていた。
「キラちゃん……どうかしたの、何だか元気ないけど」
 挨拶もそこそこに、レイは心配そうに眉を寄せて尋ねた。キラは以前見た時よりも大人びた表情で、ぼうっとレイを見つめ返す。
「私……元気ないですか?」
「うん、そう見えるけど……。あの、邑悸さん」
「なんだい?」
 邑悸は座席の上に起き直り、キラを見遣った。
「確かに顔色が良くないね……。」
 穏やかな笑みがやや陰りをみせる。大きな掌がキラの額に触れ、続いて手首を握って脈を取った。
「熱はないし、脈も特に速くはないけど」
「……あ、あの、私大丈夫ですから!」
 キラは慌てて邑悸の手から逃れた。彼が医師の資格を持っていることは以前硫平から聞いていたのだが、何となく邑悸に構ってもらうのはレイに悪いような気がする。だが、当の二人は心配そうに自分を見つめているだけだ。
「本当に……大丈夫ですから……」
 互いに良く似た深い色の瞳に見つめられ、徐々に小さくなっていく声。キラを見つめていた二人は、顔を見合わせた。
「邑悸さん、この辺りに美味しいケーキのお店ってありませんでしたっけ」
「え? レイさん?」
「ああ、あるよ。行きつけの……」
 キラの声を無視して邑悸は頷き、再び運転席に短い指示を出した。車は緩やかに加速していく。
「あ、あの私帰らないと……!」
「キラちゃん、悪いけどちょっと付き合ってもらっていいかい?」
 くるりと振り返った邑悸の笑顔に、キラは抵抗を断念した。――邑悸=社といえば、かつて世界を手玉に取った男だ。キラのかなう相手ではない。
「ごめんね。でも少しだけだから」
 俯いたキラに、レイが優しく微笑んでくれる。キラは涙腺が緩みそうになるのを感じながら、素直にうなずいた。
 ――りゅうちゃんが、デート。
 今でも信じられない。信じたくない。けれど、リィが嘘をつく理由など何ひとつない……。
 無意識の内に深いため息をつく彼女を、レイと邑悸は心配そうに見守っていた。
 
 
  × × ×

 キラが連れて来られたのは、彼女が来たこともないような高層ホテルのティーラウンジだった。それも、奥にしつらえられた個室の中。邑悸は当然慣れた様子だしレイも平然としているが、キラはきょろきょろと辺りを見回してしまう。ケーキを食べるというからてっきり行きつけの喫茶店のような場所を想像していたのだが、それはとんでもない勘違いだったようだ。
「キラちゃん、ここはアップルパイがとても美味しいのだけど、どうする? 他でもいいよ」
「あ、私皆さんと一緒で……」
 邑悸が差し出したメニューをちらりと見て、キラは絶句した。――何故ケーキ一個でそんなにも高額なのだろう。この間硫平と食べに行ったバイキングよりも高い。
「じゃあ、皆いっしょにアフタヌーンティセットにしようか。どう?」
「私はそれで構いません」
 レイの視線を受け、キラは慌てて頷いた。部屋の隅に控えていたウェイターがすっと歩み寄り、邑悸の手からうやうやしくメニューを受け取って出て行く。
「すごーい……」
 キラはほう、とため息をもらした。インテリアは華やかではあるが控えめで、しっとりと落ち着いている。頭上のシャンデリアはきらきらときらめいて、それでも眩しくはなかった。床に足を着くと、すっと吸い込まれるようなやわらかな絨毯が受け止めてくれる。――ここは私の知らない世界だ。そう思った。
 やがて運ばれたアフタヌーンティセットにキラは再び度肝を抜かれたが、口にしたスコーンはなめらかな舌ざわりとともにさらさらと口の中で溶けていって、彼女はいたくそれに感動した。
「おいしい……!」
「それは良かった」
「きっと、バターがとっても素敵なんですね」
 舌の上で成分を分析しようとするかのように味わうキラに、邑悸は微笑んだ。
「キラちゃんはお料理が上手なんだって? 前レイに聞いたよ」
 その言葉に、キラはふと表情を曇らせた。――彼女に料理を教えてくれたのは、硫平だ……。
「キラちゃん?」
 レイが気遣わしげに声を掛ける。キラはかろうじて笑みを浮かべ、顔を上げた。
「ごめんなさい。……私、大丈夫ですから」
「キラちゃん……」
 レイが顔を曇らせて邑悸を見つめる。その瞳には深い深い信頼の色があって、キラはますます肩を小さくすくめた。直接見た訳でもないのに硫平を信じられない自分が間違っているのだろうか。けれど、リィを疑う理由もない……。
「キラちゃん」
「は、はい」
 邑悸の静かな声に、キラは何故かぴしっと背筋を伸ばした。声に秘めた厳しさとは裏腹に、彼の表情はひどく優しい。
「下を向いていては、何も見えないよ」
「…………」
「見たくないものが見えてしまうこともあるだろう。それでも、目を凝らして良く見ることだ。何か勘違いしているのかもしれないし、状況が変化していくかもしれない。嫌なものほどしっかりと見届ける――一人では辛ければ、誰かに助けを求めればいい。きっと君の側には誰かがいるはずだし、僕らで良ければいつだって力になれるんだからね」
「……はい」
 キラはぐっと喉を詰まらせる。頬を涙が一滴、伝い落ちた。
「ありがとう……ございます……」
「まあ、さしあたって」
 邑悸は声の調子をがらりと変えた。軽い調子で続ける。
「今君に必要なのは僕らではなさそうだけれどね?」
 ノックの音に続いて、重厚な造りの扉が開いた。
「――失礼致します」
「え……」
 ウェイターに伴われて入ってきた人影に、キラは声を上げた。
「りゅうちゃん……?! 何でここに……?」
 声をあげるキラの目の前で、硫平は呼吸を整えるように大きく深呼吸をした。どうやら随分慌ててここに来たらしく、ダークブラウンの髪は風に乱れたままだ。
「俺は、邑悸さんにキラを迎えに来いって言われて」
「え?!」
 キラは傍らの椅子に座っている邑悸に目を向ける――だが、そこには空っぽの席があるだけだった。慌ててレイの席を見遣るが、それも同じことだった。彼らはあっという間に忽然と姿を消してしまったらしい。キラは泣きたくなって硫平に向き直った。
「どうして、こんな……」
「どうかしたのか? 何か、様子が変だぞ」
 硫平は心配そうに顔を曇らせ、キラに一歩近づいた。びくり、と体が震える。彼は訝しげに首を傾げ、足を止める。
「どうした?」
「……別に」
「別に、って……そんなわけないだろ」
 硫平の語気が強まる。
「それに、どうして邑悸さんたちといたんだよ。買い物に行くって出て行って、随分帰って来ないから心配してたんだぜ。一言連絡してくれよ」
「…………」
「なあ、キラ」
「……りゅうちゃんこそ」
 キラはぽつりとつぶやいた。
「私に何か、隠してない?」
「え?」
 硫平の顔色が変わる。キラはそれを見て疑惑が確信に変わるのを感じ――目頭が熱くなった。嫌だ。こんなところで泣きたくない。涙の理由なんて、自分にはわからない。それなのに、涙腺は容赦なく引き絞られる。
「お、おい」
 彼女の蜂蜜色の瞳が雫を零すのを見て、硫平は慌てたようだった。
「どうしたんだよ。何で泣いてるんだ」
「りゅうちゃんのせいだよっ」
 キラは椅子を蹴立てて立ち上がり、足を踏み鳴らした。分厚いカーペットは音ひとつ立てずに彼女の足の裏を包みこみ、そのことが彼女をさらに苛立たせる。
「みずくさいよ、りゅうちゃん。私たち、家族だと思ってたのに。どうして隠しごとなんてするの?!」
「え? いや……隠していたつもりじゃ」
「だって悪いことじゃないでしょう、隠す必要なんかないもの。私、一番にお祝いしてあげるよ」
 嘘だ。自分は嘘をついている。キラは泣きながら、どこか頭の隅の冷静な場所でそう思っていた。自分は硫平に隠しごとをされたのがつらいのではない。そんなことがつらいのではないのだ。
「キラ? 何を言って……?」
「ちゃんとはるちゃんや私にも紹介してよ。りゅうちゃんの、彼女――」
「はあ?!」
 大声を上げた硫平に、キラは思わず言葉を止めた。
「かのじょお?! 俺に?!」
「い、今更隠したって無駄なんだから! リィさんに聞いたもん」
「リィに? 何を聞いたって?」
 硫平ははあ、とため息をついて邑悸の腰掛けていた椅子に座りこんだ。
「あのオトコオンナ、勘違いしやがったな……」
「あ。言いつけてやる」
「すまんそれは勘弁してくれ」
 硫平はうつむいていた顔をあげた。口元は笑っている。キラは驚いたせいで涙の止まった目を、ごしごしとこすった。
「どういうこと……?」
「多分、リィが見たのは俺の妹だ」
「妹?!」
「うん。どうやら俺を探していたみたいでな」
 硫平の妹。「BGS」ではなく、一般人だと聞いていた。硫平は生まれてすぐにARMADAに引き取られたから、兄妹はお互いに顔も知らないということになる。
沙織(さおり)=鈴摩っていうんだ。今度紹介するよ」
 あっさりと言う硫平に、キラは拍子抜けした態で茫然とうなずいた。
「……う、うん」
 硫平は小さく笑い、ポケットからハンカチを取り出してキラの頬を拭った。
「まあ、確かに俺は隠しごとしてたけどな」
「え?」
 ――やっぱり……。再び頭をもたげた不安は、しかし硫平の次の行動ですぐに掻き消えた。
 手にしていた鞄から取り出した、小さな箱。キラの視線がそれに吸い寄せられる。
「俺、こういうのセンスないからさ。沙織にアドヴァイスしてもらったんだ」
 照れくさそうにしながら、硫平はそれを開ける。そこにあったのは――。
「わあ!」
 ネックレスだ。細いシルバーのチェインに通された小さなトップには、可愛らしいピンクの石。
「もうすぐクリスマスだろ」
 硫平は優しく微笑み、それを手にとってキラの首に腕を回した。キラの胸が高鳴る。
「ちょっと早いけど、まあいいよな」
「……りゅうちゃん」
「キラももう子供じゃないんだし、こういうのもたまにはいいだろ?」
 金具を留めると、硫平は赤くなってキラから離れようとした――だがキラはそれを許さない。
「りゅうちゃん!」
 昔と同じように、けれど昔とは少し違った気持ちで、硫平に抱きつく。彼はちゃんと、受け止めてくれた。
「ごめんね……それから、ありがとう!」
 再び溢れ出す涙。しかし、それは悲しみのためではない。きらきらした笑顔で自分を見つめるキラに、硫平はぼうっと見とれ……やがてはっと辺りを見回した。
「やばい、キラ。きっとこの部屋盗聴されてる」
「トウチョウ?」
「邑悸さんのことだし、絶対予測してるって。くそー、来週のクリスマスパーティで会ったら、絶対からかわれるっ!」
 彼女を抱えたまま天を仰ぐ硫平に、キラはくすりと笑いを漏らした。やっぱりいつものりゅうちゃんだ。もう一人の兄のように慕っていた、そして兄とは違う気持ちで大好きな、りゅうちゃん。
 ――ちゅっ。
「…………」
 頬へのやわらかい感触に、硫平は唖然とキラを見つめた。キラは赤い顔でうつむく。
 これならきっと盗聴されない。硫平は赤い顔のまま、彼女の額に口付けた。

 × × ×

「甘いよね、硫平は」
「邑悸さん……あの、いくらなんでも隠しカメラはどうかと思いますが」
「ふふ、巨大企業を仕切るにはこれくらいのことはしないと」
「企業はこの際関係ないじゃないですか!!」
 邑悸はくすくすと笑いながらレイを見遣った。根が生真面目なレイは、邑悸の見ている画面から目を背けている。――レイのそういうところ、僕は好きだな。邑悸はそうっとレイに近付き、背中から彼女を抱きすくめた。
「きゃあっ?!」
「レイ。左手を出して」
「はい?」
 言われるがままに手を上げるレイの指に――薬指に、邑悸は素早く指輪を嵌めた。そう明るくない部屋の中で、燦然と輝くそれは……。
「邑悸さん……? これ」
「クリスマスプレゼント、かな」
「ちょ、ちょっと早くないですか? 来週ですよ」
「じゃあ、違うのかもね?」
 邑悸はレイを煙に巻くようなことを言いながら、その手の甲にちゅっと口付けた。
「え? 邑悸さん……」
「レイにもしお兄さんが現れても、勝手に会ったりしちゃだめだよ。ちゃんと僕に了解をとること。君の今の家族は、僕なんだからね」
「は、はい」
「素直でよろしい」
 邑悸は含み笑いを漏らしながら、レイの体を百八十度反転させて抱きしめた。
「じゃあ、素直ついでに……」
 耳元に唇を寄せ、小さくささやく。

「          」

 レイは――小さく小さく、うなずいた。