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CHOOSE OUR MOMENT

 多分、自分は「選ぶ」ことがひどく苦手なのだ――彼女はそう思う。物心ついてからというもの、ほとんど自分で選ぶことなどなかったから。彼女が「BGS」として生まれてから、その言葉が意味を失った四年前まで――ずっと、彼女はほとんど何も選ぶことなく生きてきた。彼女だけではなくほとんどの「BGS」がそうだっただろうが、彼女はその中でも特に自意識が希薄だ、と指摘されたこともある。指摘したのは、彼女の元上司で今は保護者――家族となった男の、叔母にあたる女性だった。
 あれは、彼女が大学に入学した頃のこと。
「流されるだけじゃだめ。ちゃんと考えなさい」
 彼女は心からレイを心配していた。
「これからは貴方に命令する上司はいないし、貴方に任務を与える組織だってない。貴方は、貴方の人生を自分で決めなきゃ駄目なのよ」
「それは」
 レイは俯く。
「とても難しいことのように思えます、匡子博士」
 目の前の女性は、ふわりと表情を和らげた。やはり少しは似ている、とレイは思う。彼女の一番良く知る彼と、匡子=香月――彼らは親戚なのだから、当たり前だった。レイと彼の間にあるような紛い物の(えにし)ではなく、彼らは本物の血縁だ。
「命令はなくても、助言なら得られるわよ。相談だってできる」
「…………」
 レイは黙って匡子を見つめた。
「でも、そのためにはまず貴方が貴方自身の望みを、願いを知ることね――」
「私の?」
「そう、貴方の」
 匡子は頷く。
「貴方の叶えたい未来が何か一つでも視えるなら、そのための道のりを考えればいいわ。迷った時も、それを思い出せばいい」
「…………」
 レイは黙って瞬きを繰り返す。それが彼女の困惑した時の癖だと、すでに匡子は知っていた。
「邑悸――」
 その名を口にした瞬間、レイはびくりと体を震わせた。わかりやすい反応だと、匡子は微笑ましく思う。彼女の頬は、まるで熟れた林檎のように赤くなっていた。
「邑悸も、きっと貴方にそうして欲しいんじゃないかしら?」
「そうでしょうか」
 レイは呟く。ふるふると力なく震える唇。――本当は、邑悸に全て命じられていたい。彼の言葉に、その意思に従うことはとても甘美な誘惑で、一心に彼の示す先を見つめていられたら彼女はそれだけでいい。彼が必要とする自分になるために、彼女は進学先も決めたのだし――「遺伝子工学には、あまり先はないよ」と、彼は言った。「この分野の研究は『SIXTH』が頂点で、終点だ。これ以上は、今のところない」そして、彼はにこりと微笑んだ。「これからの世界に必要なのは、エネルギーだね。人口は順調に増えている――でもこのままじゃあこの世界は増えた分の人口を養えない。どうやってこれからの人類に必要なエネルギーを賄うか……そのための研究が早急に必要」その言葉で、レイは大学での専攻を決めた。そうすれば邑悸に必要としてもらえるのではないかと期待して。彼の仕事を支えたい。彼の側にいたい。彼にふさわしい人間になりたい――レイはただそれだけを願っている。
「まあ、そうは言っても」
 匡子はレイには聞こえないくらいの声で、小さく呟いた。
「邑悸は貴方の未来を手放しはしないでしょうけど、ね――」

 あれから三年が過ぎた。
 大学卒業を目前として、レイは悩んでいる。大学院に進むか、それとも就職するか――どちらでも彼女の成績なら問題ない、とは聞いている。しかし、その選択をすることが、彼女にはとても難しいことなのだった。
 もう少し研究を続けるのも、決して悪くない。むしろ、今辞めてしまえば研究の結論はやや中途半端になってしまうかもしれない――との教授の言葉も気には掛かっている。けれど、早くARMADAに入って少しでも邑悸に近付きたいような気もするのだ。
 どちらがいいのだろう。――邑悸は、どちらが望ましいと思うだろう。
 本当は、邑悸に決めて欲しい。でも、それではいけない。レイはひとり、キャンパスを歩く。相変わらず冬に閉ざされた世界は寒く、彼女は首に巻いたマフラーに顎を埋めた。彼のくれた、色違いでお揃いのマフラー。足に履いているブーツも、彼と一緒に選んだ――というよりも、選んでもらったものだ。鞄もそう。その中のモバイルコンピュータも、邑悸の薦めるモデルにした。彼女の世界はあまりにも彼でできている。そして彼女自身も、それを望んでいるのだ……。
 ああ、逢いたいな。
 レイは思う。邑悸さんに、逢いたい。最近の彼は忙しいようで、深夜の帰宅が続いている。彼女自身も研究のために不規則な生活が続いていて、あまりゆっくり顔を合わせることができない。それでもオフィスに寝泊まりせずにわざわざ帰ってきてくれるのは、きっと以前そうしてくれるよう、彼女が頼んだからだ。そうやって彼が彼女の望みを尊重してくれることが、レイはとても嬉しい。帰宅した邑悸がそっと彼女の部屋を訪ね、額や頬に静かなキスを落としてくれていることも、本当は知っている。それなのに、いつも寝たふりをしてしまうのは何故だろう。
 逢いに行ってもいいだろうか。ふと、レイは考える。邑悸には忙しくて会えないとしても、一貴さんもいるはずだし――就職を考える上で、見学に行って悪いはずがないし――レイは思いつく限りの言い訳を並べ立てながら、キャンパスの出口へ向かって足を早めた。

 表向きは社員でもないレイがARMADA本社にアポイントなしで入れるのは、邑悸が以前から彼女をまるで彼専属の秘書か何かのように扱っているからだ。もちろんそれは学業に影響に出ない範囲ではあったが、それでもやはり周囲はレイを邑悸に属するものと見做し、そう扱った。そのことはレイに淡い喜びと、決して少なくはない戸惑いとをもたらしている。
「レイちゃん! 久しぶりやなあ」
 彼女を出迎えてくれたのは、邑悸の旧友である一貴だった。長い金茶色の髪は無造作に高くまとめられて、毛先が皺の寄った白衣の上で跳ねている。邑悸はやはり会議中らしく、彼のオフィスの中にある応接室で、一貴が自らコーヒーを淹れてくれた。
「最近レイちゃんが忙しくてかまってくれへんて、邑悸が拗ねとったで」
 そういう時にやつあたりされるのは、大抵一貴なのである。
「そんなこと、」
 レイは困ったように俯いた。
「邑悸さんのほうが、いつもずっとお忙しいですし」
「会議終わって戻ってきて、レイちゃんがここにいたら、あいつ喜ぶわ」
「そう……でしょうか」
 ご迷惑では……と呟くレイに、一貴はそんなわけあらへん、と首を横に振った。
「会いに来て、って言わんでも会いに来て欲しい相手が来てくれるやなんて、嬉しいに決まっとる」
「会いに来て欲しい……?」
 レイは首を傾げる。邑悸からそんなふうに呼ばれたことはない。用事があって「ARMADA」を訪れた時はいつもあたたかく歓迎してくれたけれど、ただ会いに行くなんて、そんなことはしたことがない。仕事の邪魔になってしまう。今回は本当に、特別なのだ。
 一貴はミルクと砂糖をたっぷりいれたコーヒーを、ティースプーンでかき回した。
「あいつなりに我慢してるんやろ。どうしても、邑悸の言葉はレイちゃんにとっては重いものになってまうからな」
 ――レイはいつまでも僕に敬語を使うし、そもそも年齢も十離れているし、上司と部下って関係性がなかなか消えないんだよね、とは邑悸が一貴に事あるごとにぼやいていることである。「僕は彼女に命令したいんじゃない。今じゃ導きたいとすら思っていない。ただ、隣にいて欲しいんだ」そう呟く邑悸の瞳は、ひどく優しいものだった。「ARMADAの悪魔と英雄」――その二つ名を持つ彼の隣など、そうそう歩めるものではないだろう。それはレイ以外に適任はいない、と一貴は思う。
 レイは邑悸に「隣にきて」「側にいて」と言われれば、すぐにその通りにするだろう。だが、邑悸の願いはそうではない。彼女が自分の足で歩くこと。そして、自分の居場所として彼の隣を選んでくれること。レイを縛ってはいけない、と邑悸は自分に言い聞かせているようでもあった。
 ほんま、厄介なふたりやで。一貴はやれやれ、と内心でため息をついた。レイももう二十歳になる。さっさとくっつけばいいのに、何をぐずぐずしているのか。邑悸の葛藤もレイの躊躇いも全部理解した上でそれでもなお、一貴はそう思わずにはいられないのだった。
 電子ロックの解除される音がして、扉が開いた。オフィスの主が戻ってきたらしい。レイはぱっと立ち上がる。
「来客があったって連絡があったけど、」
「あ、あの」
 応接室を覗いた邑悸が、レイの姿を捉えて目を大きく見開いた。一貴は、来客が誰なのかを伝えなくて良かった、と思う。伝えていたら会議は否応なしにあっという間に終わらせられていたに違いない。
 レイは邑悸の沈黙をどう解釈したのか、小さくなって俯いた。
「ごめんなさい、急に来てしまって……」
「レイ」
 邑悸は足早に彼女に近付き、その顎にそっと手を掛けた。
「いつ来てもらっても構わないよ。今日みたいに待たせるかもしれないけれど」
 レイと目を合わせ、邑悸は微笑む。
「僕は、君が来てくれて嬉しい。会議でくたびれていた気分がすごく良くなった」
「あ、お疲れですよね……お茶でもいれましょうか」
 真っ赤になって一歩下がろうとするレイの肩を捉え、邑悸はちらりと一貴を見遣った。その視線は、何故早く教えてくれなかったの、と責めている。
「お茶なら一貴が淹れてくれる。そうだよね?」
「わ、わかった」
 一貴はこれ幸いと隣の簡易キッチンへと逃げ出した。あんな甘い空気に巻き込まれたら、自分は窒息死してしまう。あの二人の間に流れる空気は変に濃密だから、その場に居合わせるとどうにもこうにも気恥ずかしい。
「あ……」
 申し訳なさそうに一貴の後ろ姿を見送ったレイに、邑悸は前髪同士が触れ合いそうな距離まで顔を寄せて囁いた。
「起きている君とこうやって話ができるのは久しぶりだね? 最近なかなか時間が合わなかったから……」
「え、ええ」
 ソファに並んで座り、邑悸はレイを自分の左肩に抱き寄せた。半身同士が重なり合う。
「大学はどう? 卒論は――」
「順調です」
「そうだよね、レイは優秀だもの」
 邑悸の優しい声を聞きながら、レイは知らず知らずのうちにうっすらと微笑んでいた。
「邑悸さん……」
「なに?」
 優しく促され、レイは口を開く。
 ――貴方が貴方自身の望みを、願いを知ること――
「私、大学を出たら就職しようと思うんです」
 口をついた言葉に、レイは我ながら驚いていた。
 あんなに悩んでいたはずなのに、迷っていたはずなのに、顔を合わせればこんなにも簡単に答えが出る。
 自分の希望なら、本当は自分自身が既に知っていたのだった。選んで、答えを出すことを躊躇っていただけ。怖がっていただけ。
「早く邑悸さんに近付きたい……もちろん、私みたいな新人が邑悸さんとは一緒にお仕事なんてできないでしょうけど」
 ここで仕事をするということは、少しでも邑悸に関わっていられるということだから――どんな僅かな繋がりでも、レイにとってはかけがえのない、愛しいものだから。
 レイは邑悸をおそるおそる見上げる。視線が合うと、邑悸は唇に安堵の笑みを浮かべた。
「良かった」
「え?」
 レイが聞き返す。
「レイがこのまま大学に残って研究を続けたいって言ったらどうしようかって……いや、君がそれを望むのならもちろん応援するつもりだったけど、でも」
 普段過ごす場所が離れると、どうしてもお互いにすれ違ってしまうから。邑悸はするりと彼女の手に指を絡めた。
「ここしばらく君が足りなくて……寂しくておかしくなりそうだった。同じ家に帰っているのにね、僕はだんだん欲張りになる」
「……えっと」
 レイは呆然と彼を見上げる。邑悸の紡ぐ甘い言葉は、レイの理解を超えていた。
「それは、どういう……?」
 邑悸は不意に口調を切り替えた。
「君が大学で身につけた知識は、今の僕が持たないもので――ARMADAでも未だ手薄な部門だけど、必ずこれから必要になる分野だ」
 邑悸は眼差しを鋭くし、毅然と語る。まるで「BGS」に指示を出していた時のようだ、とレイは思った。知らず知らずのうちに、背筋が伸びる。
「君の業績(しごと)に研究が必要なら、それが可能な環境は僕が作る。それと同時並行でARMADAでの仕事もしてくれればな、と思っていた」
 ARMADA幹部としての僕はね、と付け加えて表情を和らげ、邑悸は続ける。
「君の保護者としての僕は――ただ、君の希望が叶うように、と思っている。どんな道を歩むにしても、君が一番充実して、楽しくて、幸せであるようにと。そのためなら、ARMADAのことなんてどうだっていい」
 彼女の髪を撫でる手は、ひどく優しい。
「…………」
「だけど、僕の中には他にも居てね――」
 邑悸の瞳に、熱が灯った。
「どうにかして、君が欲しいって……君が全部僕のものにならないかなって、そんなことばかりを考えてしまうのも居るんだよ」
「…………」
 レイは絶句して邑悸を見つめる。その頬は真っ赤で、邑悸のそれとよく似た夜色の瞳は、まるでそこに光を溶かしこんだかのように潤んでいた。邑悸はそれを見下ろしながら、妖しく笑う。
「君を仕事上でもパートナーにすることができたら、いつでもどこでも一緒にいられるだろう? それってものすごい誘惑だ」
「いつでも、どこでも……?」
「そう」
 邑悸は頷き、うっとりと目を細める。
「レイは、どう? 僕と一緒に居るのはいや?」
「……邑悸さんと」
 レイは邑悸に抱き込まれたままぼんやりとした頭で、考える。今まで彼女が見てきた彼――彼女の知る彼――彼女がまだ「BGS」と呼ばれていた頃から、ずっとずっと追い掛けてきた彼――その隣に、自分が?
 それはとても幸せな空想で、しかし同時に強い緊張をも伴った。レイはぽつりと言う。
「が、がんばらないと!」
「うん?」
 邑悸は意外そうに瞬いた。レイは言葉を続ける。
「邑悸さんの足を引っ張らないように――邪魔をしたり、迷惑掛けたりしないように」
 拳を握りしめ、レイは眼差しに力を込める。
 そんな彼女を見下ろしながら、邑悸は微笑んだ。――レイのそういう真面目で一生懸命な、真っ直ぐなところが、きっと僕はどうしようもなく好きなんだ。たとえ彼がどれほど甘やかそうとも、きっと彼女の芯はぶれないし、彼に寄りかかることを良しとせず、自分の足で立ち続けるだろう。その強さがとても眩しくて、美しい。
「がんばります、から……」
 レイは邑悸を見上げる。――誰にも、レイが邑悸の隣に立つことを疑問に思われないくらい、昔のよしみの贔屓だなんて言わせないくらい、がんばってみせるから。
「だから――側に、いたいです」
 邑悸の手を、強く握りしめる。
「邑悸さんの、隣にいきたいです……」
「もう、いるよ?」
 邑悸はくすりと笑って、彼女の顔を覗き込んだ。レイをポーカーフェイスだなんて言ったのは誰だろう。馬鹿じゃないだろうか。こんなにも彼女は表情豊かで、感情を示してくれるのに。今もそう、こんなにも真っ赤な顔で、不安げに、じっと彼を見つめている。
 ああ、可愛い。邑悸はレイを強く抱き寄せた。可愛くて、欲しくてたまらない――もっと、欲しがらせたい。
「ほら。レイは、僕の隣にいるでしょ?」
「……はい」
「ここは、レイの場所だよ」
 邑悸は囁く。
「レイだけしか、ここには来られない。入れない」
 言葉もなくしがみついてくるレイを抱きしめながら、邑悸は微笑む。
 ――レイの隣だって、僕の場所だ。誰にも渡さない。誰にも入ることは許さない。彼女に――その本質に触れることだって、絶対に。
 レイの幸せを祈る気持ちに嘘はない。だが、自分以外の存在がレイを幸せにすることなど、彼は決して望まない。そんな存在(もの)は、認めない。
「会いに来てくれてありがとう、レイ」
 蜜を垂らすように、邑悸は彼女の耳元に言葉を囁く。
「いえ、私は……」
「もう少し、待っていてくれる? 急いで仕事を終わらせるから、一緒に帰ろうね」
 レイはこく、と頷く。
「いい子」
 髪を撫で、その唇にかすめるような口づけを落とす。名残惜しげに腕を解くと、レイの少し寂しそうな視線が彼を追った。邑悸はそれに微笑みかけて、一旦彼女から離れる。
「じゃあ、またあとで」
 応接室を出たところで、ティーカップを手に固まっている一貴と出会った。赤と青の入り混じった、紫っぽい奇妙な顔色で、ぶるぶると震えている。
 邑悸は不思議そうに言った。
「あれ、まだいたの」
「お前がお茶淹れて来い言うから淹れたんやないか……」
「そうだっけ?」
 やや長めの前髪を軽く指で流し、邑悸は上機嫌で笑った。
「それ、君飲んでいいよ」
「もう冷めとる!」
 あのピンクな空気の中に入る勇気はなかったわ、と一貴は呟く。
「そう――ま、邪魔されていたら、ただじゃおかなかったけどね」
 邑悸は顔色一つ変えずにそう言うと、にっこりと笑った。

 何もかもが邑悸の計画通りなのではないだろうか――ふと、一貴は勘繰りたくなった。
 レイが進路を決める頃にちょうど邑悸が多忙になって、すれ違うようになったのも、ただの偶然ではないのではないか。そもそもレイが専攻を選ぶ時も、卒業後に彼女を手放すことにならないようにと、彼にとって都合の良い方向に誘導したのでは……。
 ぞわり、と背筋が粟立った。
 ――かつて、世界に張り巡らされていた彼の計略の糸。それが今ではたった一人の女性に向けられている。そんなもの、逃げられるわけがない。
「まあ、ええか……レイちゃんも満更でもないみたいやし」
 一貴はそう結論付けて冷えた紅茶を啜り、ひとり噎せこんだ――まるで、立ち聞きの罰だとでもいうように。