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ANYTHING BUT ORDINARY

 邑悸=社。僕と同期でARMADAに入ったその男は、始めからひどく目立っていた。端麗な容姿とか年不相応に落ち着いた物腰とか、そんなものは理由のごく一部に過ぎない。とにかく彼は──違っていたのだ。
 邑悸は大学でメディカル・ドクターを取得していたらしいが、入社して所属したのは監査部だった。彼がそこにいたのはたった三ヶ月。僕が彼とともに働いたのは、その期間が全てである。
 監査部は、つまりARMADA配下に無数にある子会社や孫会社の監督が仕事なのだが、結局は接待がメインのようなものだった。僕は他の多数の者のようにあっさりそんなものかと納得したのだけれど、邑悸は違っていた。入社して二週間、たったそれだけの時間で彼は多重契約を行っている会社のリストを作り上げた──この企業支配の枠組みの中で、他の四大企業との契約は立派な裏切り行為。僕も後から彼の作った資料の実物を見る機会があったが、わずか二十歳そこそこの新人が作ったものとは到底思えない完成度で、彼はそれを淡々とひとりでやってのけたのだ。
 もちろん上司は慌てた──表沙汰になれば監査部の怠慢が明らかになる。必死にもみ消しにかかったが、邑悸はさらにうわてをいっていた。監査部長らの行きつけのバーに勤めていた女が企業スパイだったことを、既に突き止めていたのである。顔色をなくした部長に、邑悸はあくまで慇懃な姿勢を崩さなかった──らしい。僕は噂で聞いただけなのだが、邑悸は自分の父親ほど年の離れた部長を「紳士的に」脅しにかかったという。
「僕はみすみす部長が騙されるのを見過ごすことができなかったのです」
「……何が望みだ?」
「僕の資料を元に子会社の整理を。これ以上部長のプライベートに立ち入るつもりはありません」
 部長には選択権などあるはずがなかった。入社一年目の若造の言いなりに抜き打ち監査を実行、ARMADA以外と取引を結んでいた会社とは契約を解除し、予算や発注先の割り振り見直しを上奏する──結果としてARMADAの子会社の三割が切り捨てられたこの騒動で、邑悸=社の名は社内に轟いた。
 本人はというと、いつも涼しい顔でデスクに向かって恐ろしいほどの速度で仕事をこなしていた。どうやらあの件の事後整理はほぼ彼がひとりでやったらしいから、まるで化け物である。僕はそんな彼を遠巻きにしながら、与えられた仕事をただこなしていた。彼はきっとあっという間に出世するだろう。僕とは違う。

  × × ×

 入社して二ヶ月半が経った頃、終業時刻後にたまたま僕と邑悸が残っていたことがあった。僕の方はただの残業だが、邑悸は違っていただろう。その頃彼は既に異動が決まっていたから、仕事の整理をしていたのではないかと思う。──不意に目の前にマグカップが置かれて、僕は驚いた。
「お疲れ様」
 顔を上げると、邑悸が微笑んでいる。僕は彼とほとんど話をしたことがなかったから、面食らった。まさか、彼が僕にコーヒーをいれてくれるとは。目を瞬かせる僕に、邑悸は少し困ったように首を傾げた。
「コーヒー、嫌いだった?」
「いや、好きだ。……ありがとう」
 邑悸はもうひとつのマグカップを手に持って、僕の近くの椅子に腰掛けた。
「お砂糖やミルクは?」
「ううん、要らない」
 ちらりと見ると邑悸は熱いのが苦手なのか、ふうふうと息を吹きかけていた。その仕草があまりにも彼のイメージに似合わなくて、僕は小さく笑った。
「猫舌なんだ」
 邑悸も笑い、僕を見つめる。男にしては大きな瞳──底なしの淵のようでいて、奥には強い光を宿している。僕はそれに誘われるようにして、口を開いていた。
「なあ──どうしてあんなことしたんだ?」
「…………」
 邑悸はうっすらと笑みを浮かべた。答えが返ってくることは期待していなかったのだが、彼は案外あっさりと言って寄越した。
「ARMADAには成長してもらわないと困るんだ」
「困る……?」
「ああ。四大企業のトップに立つ必要がある」
 僕は笑おうとして、失敗した。邑悸は本気だ。ARMADAは現在世界第三位の規模だ。それをトップに、だって?
「そんなにARMADAに思い入れがあるのか? まだ入ったばかりなのに」
「思い入れ? いや、別に」
邑悸はあっさりとそう言った。僕は拍子抜けして彼を見つめる。
「ただ、僕にはその方が都合がいいんだよ」
「…………」
 僕は言葉に詰まってコーヒーを一口飲んだ。苦くはないが、酸味が強い。
「君はどうしてARMADAに来たの?」
 邑悸に尋ねられ、僕は正直に答えた。
「まあ、何となく……かな。四大企業に勤めておけば食いっぱぐれはないだろうし、親も安心するだろ?」
「なるほどね」
「……君は?」
 そのとき、邑悸は微笑を浮かべたまま答えなかった。僕もそれ以上は追及できなくて、話を変える。
「もうすぐ異動するんだって?」
「うん、財務の方にね」
「メディカル出身とは思えないな」
「何をするにも、まず十分な予算と優秀なスタッフが必須だ。今はその準備をしているんだよ」
 邑悸は冗談のようにそんなことを言って、笑っていた。僕も合わせて少し笑ったが、正直目の前の彼が少し怖かった。彼の行動で子会社の三割が契約を失ったのだ。一体何社が破綻に追い込まれることになるだろう。財務に移ってからもきっと彼は手腕を発揮するに違いない。採算の上がらない部署を切り捨てるくらいのことは、やるかもしれない。何しろ彼は既にARMADAの上層部と個人的なパイプを持っているという噂だ。近いうちにARMADAの体質は彼によってすっかり作り替えられてしまうのではないか──。
「君の夢は何?」
 突然邑悸に尋ねられ、僕は驚いた。
「ゆめ?」
「うん。君とは同期だから、聞いてみたかったんだ」
「夢……ねえ」
 僕は首をひねった。
「別に出世したいわけでもないけど、このままここで働いて……いつかは結婚して、子供ができて……」
 自分でも陳腐過ぎて恥ずかしかった。だが邑悸は少しも笑わず、真面目な顔で頷き返してくる。
「そうか。いいね」
「そういう君は、どうなんだ?」
 さぞかし野心家なのではないかと期待して尋ねた僕に、邑悸は即座に返答した。
「僕に夢などないよ」
「え?」
「僕がこれから実現しようとしている未来は、到底夢なんて呼べる代物じゃないから」
 僕は驚いて目を瞬かせた。
「それは、どういう──」
「君の夢が叶うように祈っているよ」
 邑悸は僕を遮り、立ち上がる。いつの間にか彼の手の中のカップは空になっていて、僕には彼を引き留める術などなかった。邑悸は小さく微笑んで、僕を残して去っていく。その後ろ姿を、僕は茫然と見送った。

  × × ×

 僕が彼と個人的に会話したのはこれ一度きり。ARMADAの財政を掌握した邑悸は、やがて「BGS」の研究と登用によりARMADAの黄金時代を築き上げる──。
 僕はほそぼそと監査部に勤め続け、やがて社内恋愛で結婚し、子供も生まれた。しあわせな日々を過ごす一方で僕はいつも邑悸を気にしていた。今はもう、直接会話するなど考えもつかないくらいの存在になってしまったけれど。
 ARMADAを世界トップの企業に押し上げた「英雄」。一方で彼が「悪魔」と呼ばれていることも知った。確かに、彼は目的のためには手段を選ばない――ように見える。今までもARMADAの障害になるものは容赦なく切り捨ててきた。だが、彼の目的とは一体何なのだろうか。彼はARMADAに思い入れなどないと言っていた。それでは何故、彼はARMADAの先頭に立っているのだろう……。
 あれは二人目の子供が生まれた頃だっただろうか――例の「BGS」ショックが起こった。僕は驚いたけれど、他の大多数の市民と同じように、やがて受け入れた。「BGS」と呼ばれていた者たちが何人か僕の職場にも入ったが、彼らは非常に優秀で、常識的だった。それなら何も問題はない。今はまだぎこちなくとも、いずれ馴染んでいくだろうから。
 ある日、退社しようと本社ビルを出た僕の前に、一台の車が止まった。車種はわからないけれど、とりあえず高そうな車だ。ドアが開く。
「……あ」
 降りてきた姿に、僕は息を飲む。数年ぶりだったが、見間違うはずなどなかった。邑悸だ。黒いスーツに包んだ細い体を屈め、背後に手を伸ばす。彼に手を引かれて現れたのは、まだ二十歳くらいの若い女性だった。秘書だろうか。
「あれ」
 邑悸が僕を見て、小さく笑った。まさか、覚えていてくれたのだろうか? かつてたった三ヶ月だけ同じ職場にいた――しかも言葉を交わしたのは一度だけの――僕のことを。
「お久しぶりです」
 軽く一礼する僕のことを、女性が不思議そうな顔で見ていた。
「お知り合いですか?」
「うん、僕の同期でね。――本当に、久しぶり」
 邑悸はちっとも変わっていなかった。年齢の割に幼く見える笑顔も、まるっきりそのままだった。僕なんかより余程いろんなことがあっただろうに。
「元気そうで何よりだよ」
「ええ、お陰様で」
 まさか、当時のような口のきき方はできない。僕は丁寧に答えた。
「貴方も、お元気そうで」
「そんなにかしこまらなくてもいいのに」
 邑悸は苦笑する。
「ところで――君の夢は、叶ったかい?」
 本当に、この男はどこまで覚えているのだろうか。僕は驚きながら、それでも頷いて見せた。家で僕の帰りを待つ、暖かな家族。それが、僕の夢だったから。
「そう。それは良かった」
 邑悸は微笑んで、ちらりと隣の女性を見遣った。知的で清潔感のある印象のその子は、ただ黙って邑悸の傍らに寄り添っている。
「あの時の僕は言ったね。僕に夢なんかないって」
「え、ええ」
「訂正するよ」
「え?」
「夢を、見つけた」
 邑悸は笑う。――その笑い方は、僕の知らないものだった。
「叶うといいですね」
 僕は心からそう言った。
「叶えてみせるよ」
 その自信たっぷりな言葉に、僕は何故か嬉しくなった。ああ、これが邑悸という男だ。ARMADAの「英雄」、「悪魔」。どちらでもあってどちらでもない、不思議な魅力をまとう男。この男に率いられたからこそ、ARMADAは成長を遂げ――そして、世界が変わった。
「邑悸さん、時間が……」
 女性が控えめに切り出し、邑悸は頷いた。
「ああ、行こうか」
 彼は颯爽と僕の隣まで歩いてきて、そして追い抜かしていく。
「じゃあ――また」
「……は、はい」
 一瞬の間をおいて、振り返った。邑悸が軽く女性の肩に手を回していて、おや、と思う。――ふと、邑悸=社の秘蔵っ子の噂を思い出した。元「BGS」で邑悸の遠戚、今は公私ともに彼のパートナーであると聞くが、彼女がそうなのだろうか。かつては女の噂ひとつなかった邑悸にも、ようやくお相手が現れたというわけだ。
「それにしても――夢か」
 邑悸の抱く夢、その内容によっては再び世界に激震が走るかもしれない。だが、僕はそうはならないような気がしていた。彼の地位には不似合いな、意外にささやかなものかもしれない。ごくあたりまえのしあわせを夢見ているのかもしれない。何故か、今日の彼を見ているとそんな気がしたのだ。
「叶うといいな……」
 そのつぶやきは風に巻き上げられ、ビルの狭間に消えていった。