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続?佐東さんと須々木くん(5)

 視線を感じる。
 佐東はニットの下で自分の体がじっとりと汗ばむのを感じた。少し暖房をゆるめた方がいいだろうか。いや、「彼」はさっき外から来たばかりだから、まだ体が温まっていないかもしれない。
 佐東はちらとその「彼」を見遣った。眼鏡越しの眼差しは妙に真剣で、彼女の手元にじっと注がれている。そこにあるのはキッチンスケールと、その上に置かれたボールで、今ちょうど佐東はバターを測り終えたところだった。
(そんなに見られると、やりにくいんだけどな……)
 続いて取り出したチョコレートを測り始める前に、佐東は意を決して「彼」に話し掛けることにした。
「あの、……須々木くん」
「ん? なに、佐東さん」
 肘をついていた彼は手のひらから自分の顎を浮かせて、佐東と目を合わせた。……そういえば、眼鏡の須々木くんって久しぶりだ。高校時代はずっと眼鏡だったのに――その――付き合うようになって、大学に入って――須々木は彼女と会うときコンタクトレンズをつけてくることが多くなった。大学では今でも眼鏡なのだろうか、今日の彼は大学帰りなのである。平日なのだから当然で、同様に佐東も今日は大学に講義を受けに行っていた。終わったのは佐東の方が早く、一足先に自分の下宿に戻っていた。須々木にはもう少しゆっくり来てもらうはずだったのに、何故こんなにも早く来てしまったのか……。
「そんなにじいっと見られると」
 佐東は手元でチョコレートを割りながら言った。
「ちょっと、やりにくい」
「何が?」
「あの……あんまり慣れてないから手際良くないと思うし、緊張する」
「そうなの?」
 須々木はあくまで平然としたものである。佐東はやや語気を強めた。
「そういうものなの。それに、下宿だからオーブンとかもなくてレシピも手抜きだし……あんまりネタばらししたくないっていうか」
 ――きちんと付き合い始めてからは初めてのバレンタインだから、何か作りたかった。それは心からの気持ちではあるが、オーブンもハンドミキサーもない、さらに言えば一口コンロしかない、学生の下宿で作れるものなどたかが知れている。それでも出来栄えは何とかよく見せたいと思っているのに、須々木の目の前でホットケーキミックスを取り出すのは何となく気が引けるではないか。
「手抜きかどうかなんておれにはわからないよ。料理は家庭科で習ったきりだからね」
 須々木はふっと笑ってそう言った。
「それに、あんまりひとが料理をしているところも見たことがないから、つい。新鮮でね」
「…………」
 そういわれると、反論しにくい。佐東は口を噤んだ。須々木は両親のもとで育っていない――それだけではない、かなり特殊な環境にあったようである。高校時代の彼の昼食はいつでもコンビニのパンだったし、そもそも手作りの料理やお菓子というものにほとんど触れたことがないらしく、それを知っているからこそ佐東は慣れない手作りに挑戦しようと思ったのだが……。
「見るの、ほどほどにして欲しい……」
 それでも佐東が控えめにそう訴えると、須々木は、うんわかった、と軽く請け合った。そう言いながらも視線はほとんど動いていないのだから――まったく、傍若無人な男である。
 佐東は須々木の視線をできるだけ意識しないようにしながら、手順を進めた。スマートフォンの画面に表示させたレシピに従って、手順を進めていく。先ほど測ったバターとチョコレートはレンジで溶かした。湯煎しなくてもいいんだ、楽だな、と思うが、楽をすることに少しばかり罪悪感をおぼえてしまうのも致し方ないことだと思う。さらに、溶かしたそれらにその他の材料を混ぜ、こそこそと取り出したホットケーキミックスも加える。混ぜ終えたら百円ショップで買ってきたシリコンの円いケーキ型に生地を流し込み、とんとんと空気を抜いて、電子レンジへ。
「……簡単」
 味は大丈夫かしら、と心配しながらレンジの中を見つめる。と、レンジの表面に映る自分の顔の横にぬっと須々木が現れた。彼女の肩に彼の顎がつきそうなほど、近い。
「な、なに」
「いや、レンジの中はどうなってるのかなって」
「…………」
「すごいね。こんな風にお菓子ってできるんだ」
「……本当はもうちょっといろいろ手が込んでるものだと思うんだけど」
 不慣れな自分にはこれが限界、と佐東は思う。
「これ、なんていう名前のお菓子?」
「えっと……一応、ガトーショコラ……」
 レンジから取り出したそれをそっと型から外し、上下さかさまにして冷ます。
「冷めたらできあがりだから」
「うん。いいにおいがするね」
 頬を摺り寄せるようにしてそういう須々木に、佐東は顔を赤くする。
「そ、そう? 美味しいといいんだけど……」
 最近忙しく、事前に試しで作ってみる暇がなかったのだ。ぶっつけ本番という点も、なかなかの不安要素である。
 使った調理器具を洗い始めた佐東から少し距離をとり、須々木はぽつりと言った。
「おれも、料理を練習しよう」
「須々木くんが?」
 驚いて振り返ると、須々木は大真面目な顔で頷いていた。
「昔から、そんなに食事にこだわりはない方だったんだよね。好き嫌いもなかったし、そこそこ栄養バランスがとれてさえいれば、あとは腹が膨れればいいものだって」
「…………」
 なんだか味気ない考え方だな、と佐東は思う。だが何も言えなかった。言えるはずがなかった。須々木がそう考えるに至った背景を思うと、彼女に何か言えるはずもない。
「でも、佐東さんがくれたおかずはなんか違ってて」
 ふふ、と須々木は何か思い出したように笑う。
「あ、美味しいって思った」
「…………」
「唐揚げも、卵焼きも、ソーセージやプチトマトでもね――違う味がしたんだ、君のお弁当箱からもらうと」
「…………」
 佐東は黙って須々木の言葉に耳を傾ける。
「今、佐東さんのするのを見ていて、なんだか不思議な感じがしたんだよね。バターとかチョコレートとか、卵とか……ちょっとよくわかんない粉とか」
 ――どうやら彼はホットケーキミックスを知らないらしい、と佐東は少し安堵した。別に知ったところで須々木はどうも思わないのだろうが、彼女自身の気分の問題である。
「そういうものを君がどんどん溶かしたり混ぜたり温めたりして、ガトーショコラがひとつできあがって」
「…………」
「そうやって君の作ってくれたものを、おれが食べる……食べたものは当然だけど、おれの中に溶けて……消化されて、おれの一部になるわけで」
 それって、と須々木は目を細める。
「すごいことだな、って思ったし、それと同じことを君にもしたいなって思った」
「…………」
「おれが作ったものを君が食べてくれて……それが君の一部になって、君を作るんだって思うと」
「……思うと?」
 意味深長に言葉をきった須々木に、佐東はおそるおそる尋ねた。須々木は我が意を得たりとばかりににっこりと微笑む。
「すごく、興奮する」
「!」
 佐東は思わず硬直して、そして慌てて顔をそむけた。無理矢理に思考をそらす。ガトーショコラ、そろそろ粗熱くらいはとれただろうか。指の背で触って確認してみると、その表面はほんのりと熱を持っている程度だった。よし、もう食べてもらおう。佐東は意を決して再びガトーショコラをひっくり返すと、皿の上に載せたそれの表面にシュガーパウダーを振った。
「ああ本当だ、ガトーショコラだね」
 須々木は嬉しそうにつぶやく。ケーキ店で見たことくらいはあるのだろうし、食べたことだってあるのかもしれない。佐東は肩をすぼめながら言った。
「須々木くんの知ってるのと味は違うかもしれないけど……」
「そりゃ、同じ料理名だって味にはいろいろバリエーションくらいあるだろう?」
「バリエーションっていうか……当たり前だけど、こういうのって絶対お店のやつの方が美味しいから」
「それは、食べるおれが決めればいいことじゃない?」
「……まあ、そうなんだけど」
 佐東はそれを六分の一に切り分けて小皿の上に置き、フォークを添えて須々木の前に差し出した。
「はい、どうぞ。お待たせ」
「ありがとう」
 須々木は微笑んでそれを受け取ると、キッチンから離れて――とはいえ狭い下宿の部屋の中のことである、数歩程度しか離れてはいないが――床の上のクッションの上に腰掛け、ガトーショコラにフォークを突き立てた。一口、口の中に含む。
「……ん、美味しい」
 その声の響きに、お世辞はなさそうだった。佐東はほっと安堵して、彼の横に膝をつく。
「甘すぎたりしない?」
「うん。ちょうどいいよ」
「よかった」
「……ありがとう」
 須々木はぺろりと平らげると、もう一切れもらえる? と言った。
「もちろん」
 佐東は皿を受け取り言った。
「余った分は持って帰ってもらうつもりだったし……」
「佐東さんは食べないの?」
「須々木くんのだから」
「そう? でも」
 須々木は二切れ目のガトーショコラをフォークで一口分すくい、佐東に差し出した。
「味見しなよ」
「……う、うん」
 フォークの先端に乗ったかけらを、ぱくりとくわえる。加熱し過ぎてしまったのかややぱさつきが気にはなるが、まあ手順の簡単さを思えばこんなものだろう。
「まあまあ、かな……?」
「そう? すごく美味しいけど」
 言いながら、須々木はぱくぱくと二切れ目を完食した。彼の言葉に嘘はない。佐東は作って良かった、と心底嬉しくなった。
「来年は、また何か別のもの作るから」
「じゃあ、おれは」
 と須々木は口元を拭いながら言った。
「まず来月までに何か作れるようにならないとね」
「来月?」
「ホワイトデーだろ?」
「えっ」
 佐東は驚いて目を見開いた。
「何か作ってくれるの?」
「何か、ね――できれば、だけど」
 まあどうにかするさ、一か月あるし、と須々木は澄ました顔で言った。須々木くんのことだ、きっとどうにかしてしまうのだろう、と佐東は思う。
「だから、たまに教えてよ。料理の仕方」
「わ――わたしで良ければ」
 佐東は頷く。
「でも、わたしもそんなにできるわけじゃないから……」
 ――と、その言葉が不意に途切れた。
 須々木に腕を引かれた彼女は、須々木の胸にしっかりと抱き込まれている。真っ赤になっているであろう耳に向かって、須々木は低く囁いた。
「ありがとう、侑子……ごちそうさま」
 ――ごちそうさま、なんて言いながら、その声はすごく……物欲しがっていて。
 あたたかな、いや熱いくらいの須々木の体温と、かたく触れる彼の胸や腕、彼女を絡めとろうとする脚、そして部屋に満ちる――須々木の吐息から漂う、甘いチョコレートの香り。
 佐東は目を閉じる。腕を回し、セーター越しの角張った肩甲骨に、背骨の突起に触れた。
「……うん」

 今日はバレンタインデー。恋人たちの、特別な夜。