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続?佐東さんと須々木くん(2)

「…………」
 佐東侑子は、じっと机の上に置いたスマートフォンを見つめている。睨みつけている、と言ってもいい。

 彼女は今、大学付近の下宿部屋にひとりである。部屋にテレビはない。その代わりというのでもないが、ノートパソコンから繋いだ小さい割に音質のいいスピーカーが、彼女の好むポップスを鳴らしている。控えめな音量ではあるが、夜も遅くなってきたことだしそろそろ消したほうが良いかもしれない。ふとスピーカーに目をやり、佐東の顔がふやけたように緩んだ。それは貰いものである。「おれの使っていたものだけど、よかったらあげるよ」と言って――「あんまり使ってない。ヘッドフォンで聴くほうが好きなんだ」と彼は言ったのだった。「君の入れてくれたプレーヤー、まだ使ってるし聞いてるよ」
「…………」
 やがて、佐東は表情を生真面目なものに戻し、そっとスマートフォンを手に取った。画面を点灯させると、大学内で作られているSNSのグループメッセージの新着通知がいくつかあった。佐東はさっとそれに目を通し、必要なものには返信し、時にはスタンプも使って――しかし、それには数分も掛からない。すぐにその作業を終え、佐東は再びスマートフォンを机の上に置いた。
 冷たい麦茶を一口。
 もうすぐ夏休みだ。大学生になって初めての、長い長い夏休み。サークル活動はあるにはあるけれど、彼女の入ったのは文化系のゆるいサークルだから、しばらく休んでも誰にも文句は言われないだろう。いつ帰省したっていい。今のところ、まだバイトも始めていないし……。
 そう、バイト。彼と、同じバイト先にしよう、なんて話をしたのはもう随分前のことのように思えるのだが、まだその話は進んでいない。そもそも、あれから会えた回数も数えるほどだ。お互いの予定がなかなか合わなくて……そうこうしているうちに前期の試験が始まって、ますます時間が取れなくなった。
 佐東は俯き加減になって、唇を噛む。

 ――電話。したい。

 SNSでのやりとりじゃなくて、電話の方がいい。
 彼の文は短くて、素っ気なく見える。それに、用件が済むとさっさと打ち切られてしまう。だらだらとやり取りを続けるような趣味は、彼にはないらしい。彼らしい、と思う。
「…………」
 難しいことではない、メモリの中から彼の電話番号を呼び出して、発信ボタンを押すだけ。難しいことではない。
 ――なのに何故、自分はこんなにもためらっているのだろう。
「……たぶん」
 佐東は呟く。
「見えないせい……だと思う」
 今、彼がどうしているのかわからない。もしかすると手の離せない用事の最中かもしれないし、誰かと一緒にいるところかもしれない。邪魔になるかも、迷惑かもしれない――いや、違う。
 迷惑になることそのものが怖いんじゃない。
 彼に少しでもこのタイミングでの電話は迷惑だと思われるかもしれないこと、そしてそれを自分が勘づいてしまうのではないかということ、そうして自分が傷つくのではないかと――それが怖いのだ。
 傷つくのが、怖い。
「…………」
 結局――自分は臆病なのだ。自分が可愛い。傷つきたくない。ただ、それだけのこと。
 ああ、いやだな。
 中学の時から、結局自分は何も変わっていない。変われないままだ。彼といると、変われたような気がするのに……ひとりになると、このざまだ。
「情けないなあ……」
 佐東は呟く。

 大学ではうまくやれている。……と、思う。
 友達もできた。サークルにも入ったし、特にトラブルもない。
 試験も単位の取得も、今のところ問題はないはず。
 けれど、そんなことは今どうでもよくて――。

 佐東は恐る恐るスマートフォンを手に取った。
 大丈夫。自分にそう言い聞かせる。
 迷惑がる彼が、どうしても想像できない。
 きっと、大丈夫。彼は、わたしを傷つけたりしない――今まで一度だって、彼に傷つけられたことなんてないのだから。
 だから、大丈夫。

 無機質なコール音が、しばらく続いた。どくどくと、スマートフォンの画面に押し当てた耳の中で鼓動がうるさい。心臓が早鐘を打って、胸郭を飛び出して膝の上に零れ落ちてしまいそうだ。
 寝ているのかな。まだ二十一時過ぎなのだけど。
 それとも、外出しているのかな。
 バッグや上着のポケットに入れていたら、着信に気付かないかもしれない。仕方ない、後で履歴に気付いたら掛け直してくれるだろう。
 そう思って、佐東は電話を切ろうとした――その時だった。

『はい』

 ――あ。
 佐東は息を呑んだ。一瞬で口の中が干上がったようになって、舌がもつれる。まったく、なんてことだろう。
『佐東さん?』
 何故わかったのだろう、と思ってからはっと気付く。彼のスマートフォンにもわたしの番号が登録されているのだから、電話の主はわかるに決まっている。
「あ、あの」
『うん?』
 口ごもる彼女に、彼の声はやさしい。佐東はかろうじて言葉を絞り出した。
「……いま、よかった?」
『よくないときなんかない。出られなくっても、掛け直すだけだ』
「そ……そう?」
『じゃあ反対に聞くけど』
 彼の声がいたずらっぽく響いた。その向こうから、ぼんやりとではあるが車の音がする。今、彼は外にいるのだろうか、と思った。
『佐東さんは、おれに掛けてきてほしくない時ってある?』
「…………」
 佐東は言葉に詰まり、そして答えた。
「と……トイレ行ってるときとか。お風呂とか」
『ああ、なるほどね』
 くすくすと笑う声――ああ、彼の声だ。彼の話し方だ。間違いない、これが彼だ。
『それなら、これから佐東さんに電話して、出ないときはトイレかお風呂だなって思えばいいのかな』
「ほ、他にも出られない場合はあると思うけど?!」
 佐東は思わず立ち上がった――顔が火照るのを感じる。
『ああ、そう――それで?』
 彼は穏やかに語る。少しのタイムラグも感じさせずに。あの高校の教室で毎日会っていた頃と、少しも変わらない様子で――まるで、昨日も佐東とは会っていた、というような調子で。
 しばらく会えなくて寂しかったのは、わたしだけなのかな。彼はそんなこと、少しも気にしてなどいなかったのかしら。佐東はふと、そんなふうに思った。
『どうしたの? 急に電話掛けてきたりして』
 また、彼は笑う。
『君のことだから、きっとものすごく意を決して掛けてきたんだろうね――』
 そのとおりだ。まさにそのとおりなのだけれど。
 佐東は唇を噛む。彼はまだ笑っている。
 そんなに笑わなくてもいいのに。彼の方ばかりがいつだって余裕たっぷりで、佐東はそれが少し寂しい。
 もしわたしが連絡しないでいても、彼は焦ることなんてなくて、いつもどおりなのではないだろうか。彼には彼の生活があって……そこにはわたしがいなくても、特に変わることなく続いていくのではないだろうか。
 ――そんなものなのかもしれない。高校時代の付き合いなんて。
 大学の友人の中にも、高校の頃から付き合っていたひとと別れてしまったものもいる。先輩にもそういう経験をしたひとはいて、そういうものだよね、と笑っていた。たとえ遠距離でなくても――近くにいても、環境が変わるとなんとなく疎遠になってしまうこともある。そういうものなのだ、と。
『佐東さん、聞いてる?』
 佐東ははっとした。
『聞いていなかったよね?』
 その声に咎めるような調子はない。佐東は小さく、ごめんなさい、と謝った。
『別にいいよ――もう一回言うから』
 彼女の逡巡とは裏腹に、彼は上機嫌のようだった。何かいいことがあったのだろうか。わたしの知らないところで、わたしの知らないところで、彼はいろんな経験をして――いろんな感情を得ていく。そのことが、こんなにも寂しい。
『今はちゃんと聞いてる?』
「う、うん」
 佐東は頷く。彼は電話の向こうで、深く息を吸ったようだった。やがて、言葉が流れ出す――

『電話、ありがとう。ものすごくうれしい』

「…………へっ?」
 沈黙の後、佐東はひどく間の抜けた声を上げた。
『おれもいろいろ忙しくて、なかなか連絡できなかったんだけど……まさか、君が一大決心をして電話してくれるなんて思わなかった』
 君は、相手の顔色が見えない電話は苦手だと思っていたしね、と続ける。まさにその通りよ、と内心で佐東は認めた。
『だから、うれしい――すごく』
 佐東はスマートフォンを握り締める。少し落ち着いていた動悸が、また激しくなった。
「あ、あの……」
『ありがとう』
「ええっと……」
 思わぬ展開に頭がついていかない。
 なぜ、彼はわたしにお礼を言っているのだろう?
「別に、わたしは……」
『ああ、そうだ。何か用件があるのかな』
 電話の向こうからは、ずっと車の音がしている。
『でもまあ、いいや――』
 その音が、止まった。
「へ?」

『佐東さん。ちょっと下まで来れる?』

「下?」
『このあたり、深夜までやってるファミレスってあるかな……まあ、カフェでもなんでもいいんだけどさ』
「このあたり?」
 事態を理解できない佐東は、オウム返しを続けることしかできない。
『君の下宿に上がり込むのも、まだちょっと気が引けるから。だからって』

 ――声だけで我慢しろって言われても、ねえ?

 彼は笑っている。
『佐東さん? 聞いてる?』
「…………!!」
 佐東は財布を小さなバッグに突っ込み、スマートフォンを耳に当てたまま慌てて部屋を飛び出した。もどかしい手つきで鍵を締める。
『あ、今家を出た?』
 音を聞いて察したのだろう、彼の声が弾む。
『何階だっけ。エレベータ、早く来るといいね』
「う、うん」
 こんな時に限って、エレベータは階下に向かって降りていく最中である。佐東は階段を駆け下りた。五階くらい、たいしたことはない。
『あれ、もしかして階段使ってる?』
「…………」
 佐東は息を切らしていて、返事をする余裕もない。運動不足の自分が恨めしい。
『ゆっくりおいで。慌てなくていいから』
 彼の声は穏やかだった。
『待ってるから』
「…………!」
 佐東はようやく一階に降り、オートロックの自動ドアの開くのを待って外に飛び出した。

「やあ」

 そこに、彼の姿があった。
 壁にもたれ、耳から離したばかりのスマートフォンを手の中に。眼鏡の奥の目は、どこか鋭さを宿しつつも甘い光を湛えている。そして、その口元はゆるい円弧を描いていた。
「す――」
「君の名前が表示されるのを見た瞬間、タクシーに飛び乗っちゃったよ」
 少し照れたように、彼は微笑んだ。
「下宿にいないって可能性を考えていなかったな」
 おれとしたことがね、と呟く。
「…………」
 息を切らして立ち尽くす佐東に、彼は笑って片手を差し出した。
「ほら。行くよ?」
 ――せっかく来たんだ、ちゃんと付き合ってもらわないと。
「君の方はどうか知らないけど、おれの方は話したいことが溜まってるんだ。バイトのこととか、帰省のこととか、他にもたくさん」
 ――早く始めないと、夜通し掛かってしまうかもね?
「…………」
 佐東は彼の手をじっと見つめ、やがてその上に自分の手を重ねた。
 ――わたしだって、話したいことはたくさんある。
 夜通しだって構わない。もしそれでも時間が足りなかったら、その時はまた電話すればいい。
「うん。行こう」
 そうして彼女は微笑み、その名を口にした。

「――須々木くん」

 彼は――須々木裕は、彼女の手を力強く引いた。