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続?佐東さんと須々木くん(1)

 大学の入学式からのひとつきは、妙に浮足立っているうちに過ぎていった。新歓コンパと称した飲み会の数々は佐東侑子の不得意とする場面ではあったが、それでもそれなりにはうまくやり過ごせたと思う。学部には同じ高校から進学した同窓生はなかったが、地方の出身者は大抵そんなものだった。そういった初対面同士のものが集まって、新たな友人関係を築いていく。今までのところは、大きなヘマはしていないはずだ――今までのところは。
 進学とともに開始したひとり暮らしにもまだ慣れはしないが、家事もそれなりに楽しめるだけの余裕はあった。周りには同じように下宿している学生も多い。大学周辺にはそういった学生向けの安い食堂もあって、彼女も友人らとしばしばそういったところを利用するのだった。
 そろそろアルバイトを探さないと、と佐東は思っていた。自分の小遣いまで親に負担させるわけにはいかない。飲食系か、それとも――。

 佐東がぽつりと言ったそれを耳にして、目の前の男はすっと顔を上げた。
「バイト?」
 その顔の上には見慣れたものがない――銀縁の眼鏡。いつだって、彼の思いの外鋭く強い眼差しを、ガラス一枚隔ててくれていたそれが。
 須々木裕。
 佐東侑子の高校生活を大きく変え、大学進学先にも影響を与えた元クラスメイトだ。――というと、きっと彼は不満そうに否定するのだろう。元クラスメイト? おれが、そんなくくりで我慢できるとでも? 悔しいけれど、彼の言うとおりだと認めざるを得ない。彼はただのクラスメイトではなかった――いつだって、そんなものでは収まらなかった。彼女の心の奥底を見透かし、揺さぶり、支え、寄り添い……そうしていつの間にか彼は彼女の「特別」になってしまった。
 今、二人のいるのはカフェである。彼らの通うそれぞれの大学の位置は比較的近いから、こうやって時間を見つけて会うのもそう難しいことではない。――これも、須々木くんの意図したとおりなのだろう。それでも、なかなか時間が合わずに半月ぶりの再会になってしまったのだが。
 佐東は目の前のグラスに刺さっているストローから口を離し、頷いた。
「うん……何かサークル入るかもしれないし、そうなると余計にお金も要るし」
「ああ……そう、サークルね……」
 須々木はますます険しい顔になって呟く。佐東は首を傾げた。
「須々木くんは、何かやらないの?」
「……まあ、何かには入るかもしれない」
 ある程度の人脈は作っておいた方が得だし、と彼は冷ややかに呟いた。
「サークル選びは慎重にしなよ」
「え? う、うん」
 佐東は目を瞬かせた。
「どうして?」
「……チャラついたような、出会い目的のサークルもたくさんあるからさ」
 佐東は苦笑した。
「……わたしにそういうのはむかないよ」
「むくかどうかじゃなくて。知らずに入ったら簡単には辞められないだろう?」
 そもそも、きみはそう他人に強く出られないたちなんだから。須々木は憮然として言う。
 ――須々木くん、機嫌悪い。
 佐東は少し、哀しくなる。高校生の頃のように平日なら毎日、半ば自動的に会えるというわけではなくて、今日も半月ぶりに会えたのに……須々木くんは、わたしみたいに今日を心待ちにはしていたわけではないのだろうか。
 ――そうかもしれない。須々木くんも大学で新しいひとと知り合って、友人ができて、もしかしたら誰かのことを好きになって……そうしたら、きっとわたしとはさようならだ。
 だったら、それまでにわたしも大学の中での居場所を作っておかなくちゃ……ただ須々木くんに言われるがままに大学を受けて、のこのこ着いてきちゃった、なんていくら何でも間抜け過ぎる……。

「……とうさん! 聞いてる? 佐東さん」
 佐東ははっと顔を上げた。須々木が彼女の顔を覗き込んで名を呼んでいる。
「え?」
「……やっぱり聞いてない」
 須々木はため息をついて軽くかぶりをふる。
「おれの前で心ここにあらずって、ひどいよね?」
「ご、ごめんなさい」
 佐東は慌てて謝る。確かに、自分の思考に没入して須々木の話を聞いていなかったのは良くなかった。
「どうせろくなこと考えてなかっただろう」
 須々木は苦笑を浮かべ、そうして佐東をじっと見つめた。
「バイト。探そうか」
「えっ?」
 佐東は聞き返す。須々木は繰り返した。
「バイト先、探そう。同じところなら安心だし、ちょうど良いだろう?」
「須々木くんもバイトするの?」
 目を見開く佐東に、須々木はあっさりと頷いてみせた。
「おれも小遣いは欲しいからね」
「…………」
 本当は、須々木にはバイトの必要なんてないのではないだろうか。佐東はそう疑いながらも、その疑問は口には出さなかった。言ったのは、別のことである。
「同じ……ところ?」
「何。文句ある?」
「う、……ううん、」
 眼鏡をしていない須々木の顔に、未だ彼女は見慣れない。すっと通った鼻筋、やや切れ長の瞳。いわゆる派手な「イケメン」というやつではないのだろうが、ひとつひとつのパーツは整っていて、その知的に引き締まった表情もあり、どこかひとの目を惹く存在感がある――ような気がする。自分の贔屓目だろうか。
「手っ取り早いのは塾かな……予備校とか」
「せ、先生なんてわたしは無理」
 佐東が慌てたように言った。須々木が教え上手なのは知っている――それは去年一年、身をもって経験した。しかし、自分には無理だ。須々木はそれを聞いて片眉を上げた。
「そう? 佐東さんなら、まあレベルによっては高校生相手はしんどいかもしれないけど、中学生向けなら大体どの教科でもできると思うけどな」
「いや……そうかな……」
 自信なさそうに言って俯く佐東に、須々木は苦笑した。
「バイト先揃えるの、いいアイデアだと思うんだけど?」
「う……うん」
「会いたくないの」
 須々木はふと真顔になって、じっと佐東を見つめた。佐東は目を瞬き、彼を見返す。
「え?」
「おれと。会える機会、増やしたくない?」
「……え、えっと」
 顔に血が上る。佐東は俯き、肩をすくめた。ここはカフェ、しかも地元でもない、誰も彼女のことなど知らない、注目などしていない。それでも、彼女は恥ずかしくて仕方がない――。
「おれは――」
 須々木は彼女の目の前のグラスを取り上げ、ストローをゆっくりとんだ。溶けかけた氷の浮いたミルクティーの水面が、わずかに下がる。
「片っ端から理由をくっつけてでも、きみを呼び出したくてたまらないんだけどな」
「…………」
 そろそろ顔が発火するのではないか、と佐東は心配になった。自分の頬に手を当ててみる。熱い。でも、火が出るほどではない。
 須々木は彼女のグラスを戻し、自分の目の前のブラックコーヒーを一口啜った。きっと、彼女のミルクティーは甘過ぎたのだろう。勝手に飲むからだ。
「まあ、きみのことだから、いろいろくどくどと考えているんだろうけどさ」
 ひどい言い草だ、と佐東は思う。須々木は彼女に睨まれても顔色ひとつ変えず澄ましていた。
「新しい環境になって、新しい人と出逢って――おれと少しずつ疎遠になるんじゃないかな、とか、興味の対象が移るんじゃないか、とか、他の人を好きになるんじゃないか、とか、どうせそんなところだろう?」
「そりゃあ、考えるよ……」
 おっしゃるとおり、と佐東はしぶしぶ認める。須々木はその裸眼を薄く細めた。
「おれだって同じさ、考えないではないよ――でも」
考えたって、何も変わらない。だから。
「おれは、行動する」
 きみを誘って連れ出して、話をして、近況を聞いて。その機会を増やすためなら、バイトだって利用する。
「きみは?」
「……わたし?」
 きょとんと聞き返すと、須々木はほかに誰がいるの、と言った。
「手放したくないものには、ちゃんとそれなりに手を掛けないとね?」
 細めた眼差しが、まるで獲物を狙う肉食獣のように乾いた光を放つ。それに捕らわれるのは、佐東にとってはとても恐ろしいことなのに、それでいてどこか安心するのは何故だろう。
「ちゃんと手懐けておかないと、危ないよ」
 まるで他人事のように言い捨てて、須々木は再びコーヒーを口にする。
「……ねえ」
 佐東は不意に口を開いた。
「眼鏡、やめたの?」
「……いや?」
 須々木は佐東の問いを耳にして、我が意を得たりとでも言うようににこりと笑った。
「普段は眼鏡だけど、今日は特別」
「とくべつ?」
「そう」
 ――眼鏡のほうが好き? なら、コンタクトは外してくるけど。
 聞かれて、佐東は思わず首を横に振っていた。
「なら、良かった」
 須々木は珍しく屈託なく微笑む。

 ――手放したくないものは。

 佐東は考える。
 わたしは、須々木くんと居たい。これから先のことなんて誰にもわからないけど、少なくとも今は――今、こうして須々木くんと話している時間は、かけがえのない大切なもの。優しくて心強い、穏やかな安心感と、それと同時にピリリと混じるスパイスにも似た緊張感、それがどこか心地良い。他では得がたい、得られない、唯一無二の時間。

 ――手懐けておかないと。

 佐東はじっと須々木を見つめた。
「……なに?」
 余裕たっぷりな彼の顔。それをじっと見据えながら、佐東は不意に言った。

「ゆたか、くん」

「?!」
 須々木の目がこれ以上ないというほどにまんまるに見開かれ、その比較的日に焼けていない頬にさっと朱が指す。
 ――珍しい。
 佐東がまじまじと見つめていると、須々木は、ふう、と深い息を吐き、にっと笑った。
「やってくれるなあ――」

 ねえ、ゆうこ?

 わたしはやっぱり須々木くんには勝てない。佐東はカフェのテーブルに突っ伏し、そう思い知ったのだった。