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佐東さんと須々木くん(9)

 何がきっかけだったのかはわからない。だが、クラスの誰もがきっとその事実に気付いていて、それでいて誰も表立っては口に出さないでいた。それは間違いのないことだった。
 無論――佐東侑子も気付いていた。彼女がこういったことに気付かないはずがない。かつて、彼女は「あちら側」の立場だったのだから。
 加嶋(かしま)愛実(まなみ)。ついこの間までクラスの中心的なグループに属していたはずの彼女が、何故か最近は一人で行動している。彼女と同じグループだった同級生の女子たちは、それとなく彼女を避けているだけで、あからさまな悪口を吹聴してはいない。だが、彼女らの中で何らかのトラブルがあったのであろうことは自明だった。
 佐東は、あまり加嶋を知らない。何度か会話したことはあるが、その程度である。教師に目をつけられない程度に染められた髪、派手になり過ぎない程度のナチュラルメイク。地味な自分とは属する世界が違うひとだ、と佐東は思っていた。
 加嶋さんに何があったのだろう、と佐東は訝しく思う。多分、彼女だけではなく、他の同級生たちも少しは加嶋の異変に気付いているだろう。誰もそれを口に出さないだけだ。口に出してしまえば、巻き込まれる。そんな気がするからだろうか。加嶋は男子にも人気があったはずだが、男子たちはこの異変をどう見ているのだろう。
 加嶋は今も、昼休みになるやいなや小さな弁当箱の包みを掴み、足早に教室を出て行った。何人かの女子がその背中にちらりと視線を送り、意味深な目配せを交わす。
 佐東はあたりを見回し、自分の弁当を手に取った。何となく、この教室で食事を摂りたくない。幸い佐東の友人たちは昼休みの部活動練習のために早々に教室を出ているし――彼女はこっそりと教室を抜け出した。
 廊下に加嶋の姿はない。そのことに奇妙な安堵をおぼえながら、佐東は「いつも」の場所に向かった。

 ――屋上では、見慣れた姿が惣菜パンをかじっていた。
「浮かない顔をしているね」
 細い銀縁眼鏡の、まるで絵に描いたような優等生――須々木裕。佐東の前以外では、物柔らかで、穏やかで、とても優しい――あくまで、佐東の前以外では。何故か、須々木は佐東の前でだけ優等生の仮面を外し、ひとを馬鹿にしたような――ひとを食ったような、そんな態度を見せるのだ。この屋上は須々木のお気に入りの場所だと、佐東はそれを知っているのに、そうしてここに来ればいつも須々木が彼女の弁当のおかずを盗んでいくと、そのことも十分わかっているのに、それでも尚、佐東はこの屋上に来てしまう。きっと、この解放感が気に入っているからだ、と彼女は思っていた。学校中で、こんなに気持ちの良い風の吹くところはない。
 だが須々木は今も、普段は見せないような人の悪い笑みを浮かべ、佐東をじろじろと見ていた。
「最近、加嶋さんのことをちらちら見ているようだけど」
 佐東はぎくり、とした。――何故、ばれているのだろう?
「気になるわけ?」
 尋ねられ、佐東は口ごもった。
「気になる……っていうか」
「昔の自分に重なる?」
 鋭く切り込まれ、佐東はますますうつむいた。――多分それは、彼の言う通りだ。加嶋のあの暗い表情は、そしていつも何かに怯えているかのような張りつめた空気は、強張った肩は、佐東の良く知るものだ。
 佐東がこの進学校に来たのは、それらを振り払うためだった。中学時代の彼女を抑圧してやまなかった、そういったものから逃れるために、必死で受験勉強をして、そうして彼女は自由になった。今、周囲で彼女の過去を知るのは、目の前のこの男――須々木だけ。何故彼が佐東の中学時代を知っているのか、それは未だにわからない。
「何があったのか、須々木くんは知っているの?」
 おそるおそる尋ねる。彼は紙パックの野菜ジュースを飲みながら、両肩をすくめてみせた。
「噂は聞いたよ」
「……わたしは、知らない」
 ぼそりとつぶやく。皆、知っているのだろうか。自分だけが知らないのだろうか。知らされて、いない。そのことに、彼女は急に怖くなる。気付いていないだけで、彼女もまた、仲間外れにされているのだろうか――あの頃と同じことが、また起ころうとしているのだろうか。
 須々木は佐東の顔色を見て、はっきりと冷笑した。
「何、佐東さんってそういうくだらない噂好きなの? 噂される側の人間がどんな気分か、知ってるんじゃなかったかなあ」
「別に、噂は好きじゃない」
 佐東は顔を上げた。
「須々木くんの言う通りよ。あれこれ噂されるのがどんなに辛いことか、わたし知ってるもの」
「ふうん」
 須々木は気のない返事をして、佐東の弁当箱からミートボールをひとつ、慣れた手つきでつまんだ。
「じゃあさ――見て見ぬふりされてどんな気持ちになるかも、知ってるんじゃない?」
「…………」
 佐東は絶句した。――最近ずっと彼女の心の奥底に流れることなく溜まっていて、それでも決して見ないようにしていた澱を、須々木はひどくあっけなく掘り起こした。
「何があったのかさえ知らなくても、ああやって皆で無視してやれば――まあ、加嶋さんをハブってる側の人間の味方しているようなものだよね」
「す、須々木くんだって」
「ん?」
 聞き返され、佐東は一瞬怯んだ。だが、すぐに言葉を続ける。
「須々木くんだって、わたしと一緒じゃない……」
「だったら、何?」
 須々木はあっさりと言った。眼鏡の奥の切れ長の瞳は、少しも笑っていない。
「おれが加嶋さんを見捨てた側の人間だったら、何なの? 佐東さんも同じでしょ? 自覚しているか、していないか――あるいは自覚しているのにいていないふりをしているか、だけの違いだよね」
「…………」
 血の気が引く。屋上の床に落ちた自分の影が、ひどく暗く、そして長く伸びて見えた。俯いた彼女の頭上から、容赦なく須々木の声が降り注ぐ。
「安心しなよ、佐東さん。君が今の加嶋さんみたいな立場になったら、ちゃんとおれは話し掛けに行ってあげるからさ。おれは君を見捨てる側の人間にはならない」
 そんなの、嬉しくない――それはきっと、逆効果だ。佐東は唇を噛む。須々木みたいなクラスの優等生、しかも男子に庇われたとなれば、余計に女子の反感を買ってしまう。だから……そうだ、わかっている。須々木が加嶋に関わろうが関わるまいが、状況はきっと変わらない。須々木が加嶋に優しく接したところで、多分どうにもならない。
 わかっている。須々木に言われなくても、全部全部わかっている。わたしは無力で、卑怯で、臆病で、どうしようもない――あの頃と何も変わらない。情けなくて、ちっぽけで、それで……。
「あれ、嬉しそうじゃないね?」
 突然、ひょいと顔を覗き込まれて佐東は仰け反った。驚くほど近付いた、須々木の顔。さほど特徴はないがそこそこに整ったその顔が、佐東はとても苦手だ。
 苦手なのに――。
「須々木くん」
「ん?」
 須々木は、まっすぐに彼女を見つめている。彼女はごくり、と唾をのんだ。
「さっき言ったこと、本当よね?」
 ――おれは、君を見捨てる側の人間にはならない。
 須々木は一瞬目を丸くして、そしてにっこりと微笑んだ。
「勿論」

 放課後。佐東は礼が終わるや否や、足早に教室を去ろうとしている加嶋に声を掛けた。
「か、かしまさん!!」
 声が裏返る。一瞬クラスの空気が揺れさざめいたような気がしたが、佐東はそれを無視した。じわり、と背中に汗が浮かぶ。
 加嶋は不思議そうに振り返った。長い睫毛が、怯えたように瞬いている。
「なあに?」
 小さな返事。
 佐東は笑顔がひきつりそうになるのを何とか抑え、加嶋に近寄った。
「確か、加嶋さんってのクロック・ワークスのファンなんだよね? もしかして新しいアルバム、持ってたりする?」
 実は、先程まで佐東は加嶋がそのロックバンドのファンだなどとは知らなかった。何か話し掛けるきっかけがないかと加嶋を観察しているうちに、彼女の鞄にそのバンドのロゴの入ったキーホルダーがついているのに気付いたのである。
 加嶋はきょとんとしたままうなずいた。
「う、うん……買った、けど」
「貸してー」
 佐東はできるだけ軽い調子で、話を続けた。
「今月金欠で、買えそうにないんだよねえ」
「そ、そうなの?」
 加嶋はそわそわと落ち着かない。だが、その表情は決して――悪くない。
「べ、別にいいけど……」
「あ、じゃあ佐東さんの次にぼくも」
 さりげなく佐東の隣に登場したのは――須々木だった。
「そのキーホルダー、去年のライブツアーの限定グッズでしょ」
「詳しいのね、須々木くん」
 驚いたように加嶋が声を上げる。
「確か、中邨(なかむら)さんが同じの持ってて……ねえ、中邨さん」
 呼び止められた女子は、加嶋とも佐東とも違うグループの、言ってみれば派手でも地味でもない一般的な女子だった。加嶋の方を見て少し戸惑った顔をするものの、須々木の声に近付いてくる。
「中邨さんも、これ持ってたよね?」
 須々木に言われて、中邨は頷いた。
「同じだけど、色違い。わたしは赤だから」
「赤!」
 加嶋が声を上げた。彼女の鞄についているものは、白地である。
「わたしも本当は赤が欲しかったの」
 中邨はふふ、と笑う。
「赤はソッコー、完売したのよね。死ぬ気で買いに行ったもの」
「いいなあ――」
「なになに、どうしたの?」
 中邨のグループの女子たちが、何となくぞろぞろと集まってくる。彼女たちの顔に一様に浮かんでいる表情は――安堵、だ。加害者にならないで済んだ、という安堵。そして、もしかしたら自分は何かいいことをしたのかもしれない、という期待。
 佐東はほっと息をついた。多分今、自分も同じ顔をしているだろう。
 わたしは無力で、卑怯で、臆病で、どうしようもない弱虫だ。今回も、きっと須々木に言われなければ、見て見ぬふりを続けていた。そんな自分が情けなくて、大嫌いで、それでも――。
「クロック・ワークス、いいよね」
 加嶋が笑う。教室で彼女が笑ったのは、一体いつぶりだろう。
「わたし、大好き」
 口笛の音が響く。少し離れた場所で、須々木が小さく吹いているようだった。佐東をちらりと見て、ふ、と笑う。
 
 ――ぼくらは何度だって失望して 絶望して 期待して そしていつか 好きになっていく
 
 佐東は誰にも届かないくらいの小さな声で、彼の口笛に載せ口ずさむ。それは、加嶋が好きだというクロック・ワークスの。

 ――好きになっていく 自分(ぼく)を 君を
 
 ――そしていつか

「『恋ニ落チル』」
 タイトルをつぶやき、佐東は思わず顔を背けた。須々木の口笛も、そこで途切れる。
「…………」
 ――おれは君を見捨てる側の人間にはならない。
 その台詞と、間近で見た彼の笑顔が蘇って――佐東はしばらく、顔をあげることができなかった。