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佐東さんと須々木くん(8)

 それは、三連休中日の日曜のことだった。明日の月曜は何かの祝日なのだが、佐東侑子はあまりそこに興味はない。大多数の学生らと同じく、大切なのは明日学校に行かなくても良いという事実、それだけだった。
 佐東は珍しく、郊外の大型ショッピングモールに来ていた。父親が休日出勤ついでに送り届けてくれたのである。父の仕事は二三時間で終わるらしく、またここに寄ってピックアップしてもらうことになっていた。彼女のお小遣いなどたかが知れているが、ちょっとした買い物はできる。
 彼女は、ショッピングはひとりでしたいたちだった。自分が何かを選んでいる間、誰かがそれを待っているというプレッシャーに耐えられない。友達などとんでもない。家族であっても、かなり気まずい。できればひとりにしておいてほしい。家族もそれをよく知っているから、一緒に買い物に行く時も、彼女を目的の売り場に置いてふらりと姿を消してくれるのだった。そんな彼女だから、もちろん店員に話し掛けられることも嫌った。服を買うのも、できるだけ店員がそうっとしておいてくれる、そういった店を選んで入るようにしているのだが、彼女くらいの年代をターゲットにしている店の中で、なかなかそういったところがないのが彼女の悩みだった。
 佐東の足はCDショップへと向かった。目当ての新譜があるわけではない。佐東がこのモールの中で一番好きな場所は、CDショップと書店だった。ちょっとした店舗よりも広いフロアを持っていて、品揃えもいい。趣味が読書と音楽なんて、面白味も何もない、無難な答えに見えるだろうけれど、佐東にとっては本当にそれが趣味なのだ。
 佐東は壁際に並べられた試聴機の前に立ち、物色する。大きなヘッドホンを持ち上げ、耳に嵌めようとした、その時――隣で試聴している人物の顔に、ふと目が留まった。
「あ」
 小さな声――悲鳴にも似た声を上げ、佐東はヘッドホンを勢いよく試聴機に戻す。慌ててその場を離れようとした彼女の腕を、誰かが――勿論彼女の隣にいた人物なのだが――掴んだ。
「奇遇だね、佐東さん」
「…………」
 サバンナで肉食獣に出会った草食獣のように。佐東はひきつった顔で、その人物の――クラスメイトである、須々木裕の顔を見つめた。

 どうしてこんなに近付くまで気が付かなかったんだろう。佐東は激しく後悔しながら、須々木の顔を見た。そしてふと気付く――そういえば、いつも彼の顔にあるものが、今日はない。
「眼鏡」
 ぽつりとつぶやくと、須々木は苦笑した。
「ああ、うん。今日はコンタクトしてるから」
「そう……」
 だから自分は彼に気付かなかったのだ、と佐東は納得した。服も当然学生服ではなく、いつもより少し大人びて見える。
 少女漫画でありがちな、眼鏡をとったら美少年になる、などという設定を須々木は持ち合わせてはいないようだった。眼鏡で隠れない分、鋭い目つきが露わになっていて、佐東を余計に怯えさせたくらいのものだ。
「ふうん」
 須々木はいつもどおりの無遠慮さで、じろじろと佐東の手元を覗き込んだ。
「な、なに」
「佐東さん、そういうの聴くの?」
 佐東が試聴しようとしていたのは、あるゲームのサウンドトラックだった。佐東はさっと顔を赤くする。彼女のこれまでの経験では、ゲームとか、アニメとか、いわゆるオタクっぽいと評される趣味は、いじめの対象になりやすい。佐東はそれほどそれらに詳しいわけではなかったが、多分一般的な高校生よりは少し、詳しかった。それは、以前の塾で親しくしていた友人らの影響だろう。今はもう、ほとんどやりとりはしていないけれど。
 須々木はそんな佐東の気持ちも知らず――彼はいつもそうだが――当たり前のように、言葉を続けた。
「おれもこのゲームやったよ。面白かった」
 意外な台詞に、佐東は驚いて須々木を見つめた。随分と近いところに、彼の顔がある。
「須々木くん、ゲームとかするの」
「しちゃ悪い? 佐東さんだってするんだろ」
「私、ゲームは持ってない。音楽が好きなだけ」
 ネットでプレイ動画を見たのだ――とは言わなかった。いよいよオタクっぽく見えるような気がしたからである。が、須々木のにやりと笑った人の悪い笑顔を見るに、きっと彼にはその辺りの事情は筒抜けだったに違いない。
「自分でクリアしたいって、思わないんだ?」
「……わたし、根性なしだから」
 佐東はぼそぼそと言った。
「最後まで根気が続かない」
「やって見もしないでよく言うよね」
 須々木は呆れたようにため息をつく。――たかがゲームのことで、なぜそこまで言わなければならないのか。佐東はむっと黙り込む。
「もしそれ買うなら、貸して」
「え?」
 聞き返すが、須々木は答えなかった。不意に険しい顔で腕時計を見たかと思うと、挨拶もしないで去っていく。誰かと待ち合わせでもしているのかしら。もしかして、デート? 佐東はほっとしたような、拍子抜けしたような、なんだかすっきりしない奇妙な感情でその後ろ姿を見送り――やがて、その(くだん)のサウンドトラックを手に取った。彼に貸すためではない。断じてそうではないのだった。

 父親から、そろそろ迎えに行くとのメールがあった。佐東は先程買ったサウンドトラック一枚を鞄にしまって、待ち合わせ場所の駐車場に向かう。途中のエレベーターで、彼女は再び不本意な邂逅をした。
「……あ」
 今回は、相手も不本意だったらしい。須々木は目つきの悪い顔をいつも以上にしかめて、目をそらした。
「裕くん、どうしたん?」
 ゆたか――そういえば、彼はそんな名前だっけ。佐東は彼の名を呼んだ女性に視線をうつし、はっと息を呑んだ。びっくりするくらい綺麗な顔の、若い、けれど大人の女性だった。身にまとうスーツはレモンイエローで、鮮やかなその色がとても似合っている。そのひとは佐東の視線を感じたのか、佐東と須々木とを見比べた。
「知り合い?」
「黙ってろよ」
 唸るような声で、須々木が答えた。その暗い声音に、佐東は自分が言われたわけでもないのに体が縮み上がる。だが、言われた女の人はくすくすと笑っただけのようだった。
「照れてんと、おねえさんに紹介してえな」
 軽やかな関西弁で、彼女は須々木をからかう。須々木は苦々しい顔で、佐東をちらりとも見ない。
「必要ない」
「ええ? つれないな」
 わざとらしく、彼女はその大きな目をより大きく見開いた。
「裕くんの友達やったら、挨拶したいやんか?」
 須々木はきつい目つきで彼女を睨む。
「それはもっと必要ない。保護者ぶるな」
「……あ、あのう」
 いたたまれなくなり、佐東は震える声を押し出した。同時に、須々木はちっと舌打ちをする。三人の中で、女性だけが動じていない。それは大人ゆえの余裕なのか、それとも――鈍感なだけなのか。
「須々木くんの、お、お姉さんですか? わたし、クラスメイトの」
「お姉さんやないわよう」
 ころころと、鈴を転がすような音で彼女は笑った。
「あ、でも彼女でもないから、安心しいね」
「いい加減にしろ」
 須々木が低く制し、そしてようやく彼は佐東に向き直った。
「うちに雇われているひとだよ。気にしないで」
 彼女に話しかけるときのトーンは、比較的いつも通りに落ち着いていた。きっと、そのように彼が努力したのだろう。
「う、うん……」
「ほなね、お嬢さん!」
 その綺麗な人は須々木に見えないように佐東にひとつウインクをして、やがてある階で須々木とともに降りていった。閉まったドアの向こうで、須々木は見るからに高級そうな車に乗り込む。なんだってその車でこんな普通のショッピングモールに来たのだろう、と不思議になるような、ぴかぴかした車だった。女の人が運転席に乗って、須々木は助手席ではなく後部座席に乗る。彼女の視界から消える最後まで、須々木はにこりともしなかった。きっと、彼は本気で不機嫌だった。
 佐東はぽかんとそれを見送って――やがて何とも言えない気分になって俯いた。わたしは、須々木くんを何も知らない。そしてきっと、須々木くんはわたしに何も知って欲しくない。
 須々木くんは、どうやらお家がお金持ちで、家にあんなに若くて綺麗な女の人が雇われて出入りしていて、運転手のようなこともしてくれていて。でも――なんだか何もかもにすごく不満そうだった。佐東に意地悪を言う時の彼とは、別人のような。勿論、普段優等生らしく振る舞っている彼とも違っていて。
 どれが本当の彼なのだろう。それとも、どれもが本当の彼なのだろうか。
「…………」
 きっと、須々木くんにもいろいろあるのだろう。佐東はそう結論付け、そしてふと思い出す――いつか須々木が語っていた言葉。早く大人になりたい、と。あれは、どうしようもなく彼の本音だったのかもしれない。一刻も早く中学を出て行きたかった、あの頃の佐東よりもずっと、須々木は未来を渇望しているのかもしれない。だからこそ、彼は彼女に構わずにはいられないのだろうか――彼女のどこかに、彼の何かを重ねて。
 明後日学校で会った時、須々木はどんな顔をするのだろう。どんな顔をしていたっていい。わたしはできるだけいつも通りにして、そしてそっとCDを渡そう。彼が、それを家でどんなふうに聴くのだろうかと――初めて見た彼の素顔を思い出し、佐東は何故か、赤面した。