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佐東さんと須々木くん(7)

『前から気になってました。おれとつきあってください』

 メール画面を開いたまま、佐東侑子は硬直した。差出人のメールアドレスに見覚えはないが、メール本文の最後にちゃんと名前は書いてあった。棚下(たなか)(ひろし)。確か、隣のクラスの人だったと思う。図書室で何度か顔を合わせることがあって、少しは話をしたこともある。――まさに今彼女のいる図書室で。
「でも、なんで……?」
 何故、いきなりこうなるのか。佐東は混乱した。そもそも、誰に自分のメールアドレスを聞いたのか。この文面は本気なのか。人違いではないのか。
 落ち着こう。佐東は何度か深く呼吸をした。可能性はいくつかある。ひとつ、棚下がメールを誤送信したという可能性。ただし彼が自分のアドレスをどこから入手したのかは、わからない。ひとつ、棚下にアドレスを教えたものが、間違えたアドレスを教えてしまった可能性。本当は別の女子生徒のアドレスを伝えるつもりで、佐東のものを教えてしまった。後は、考えたくはないが――佐東をからかっている、可能性。そういう手口は知っている。本当は好きでも何でもない異性に「わざと」告白して、相手の反応を見て楽しむのだ。以前、似たような目には遭ったことがあるから――ああ、思い出したくもない。
「佐東さん?」
「ぎゃあっ」
 佐東は悲鳴を上げ、携帯の画面を伏せた。目の前には見覚えのある、だが決して見慣れることのない、ひとりの男子生徒の顔があった。
「す、須々木く……」
「ものすごく難しい顔して携帯を睨んでいたよ」
 ほら、皺が。長い指が彼女の眉間に伸びてくるのを、彼女は首をゆるく左右に振って避けた。
「なんでもない」
 須々木裕。佐東侑子のクラスメイトにして、天敵。彼女の前以外では完璧な優等生として振る舞っているところが本当に腹立たしい。佐東には遠慮なくずけずけと、ひどいことも平気で言うくせに。
「そう? ああそういえば」
 須々木は彼女の座る机に手をつき、軽く体重を預けた。
「棚下くん――だっけ? きみのメアドを知りたがっているみたいだよ」
「え……」
 何故、須々木がそんなことを知っているのか。佐東は血の気が引くのを感じた。そうしながら、つとめて冷静に考える――少なくとも、人間違いではない、ということか。
「おれも聞かれたんだけどさ――席が隣だったことがあるから知っているんじゃないかって思ったみたいで。でも、あいにく知らなかったから」
 肩をすくめて言う。教室の中ではいつも愛想のよい笑顔を浮かべているその顔に、今張り付いているのは意地の悪い冷笑だった。
「もしかして、彼からメールきた?」
「…………」
 須々木くんには関係ない。その言葉が、出てこない。佐東は黙って俯いた。
「棚下くん、いいひとだよ。勉強も良くできるし、バスケ部もがんばっているし」
 ――知らない。
「真面目だし、それに……」
「!」
 佐東は勢いよく席を立ち上がった。須々木から逃げようと、踵を返す――その肩を、軽く掴まれた。振り払おうとした、その時。
「佐東さん」
 その声は、何故だか妙に優しく聞こえた。
 佐東はおそるおそる振り返る。視線の先で、須々木は呆れたように笑っていた。
「ごめんごめん。からかい過ぎた」
「……ど、どうせ」
 佐東はじわ、と目元に涙が浮かぶのを感じた。
「からかわれているのよ、そんなことわかってる――」
「え?」
 須々木は不審そうに眉を寄せた。
「じゃあ、本当に棚下くんからメールがきたの?」
「だいたい、メールでなんて……信じられるわけない」
 本気になって返事をしたら、きっと嘲笑われるのだ。何本気になっているの、馬鹿じゃないの、誰が君なんか……そうに決まっている。だって、あり得ないのだから。
 放課後も遅い時間。図書室には彼ら以外の気配はない。いつも佐東が奥まった机を使うせいで、入口近くにいるはずの図書委員の姿も、ここからは見えなかった。
 佐東を見下ろしていた須々木が、不意にわざとらしいほど大きなため息をついた。
「きみは本当に、だめだね」
「な、何それ、ひどい……」
 佐東は涙目になって須々木を睨む。もちろん、須々木はそんなことで動じるような様子は見せなかった。
「ひどいのは君のほうだろう? 勝手に棚下くんを悪役に仕立てて、被害者ぶってさ。彼の気持ちも考えてあげなよ」
「気持ち……?」
「何を被害妄想してるんだか知らないけど、わざわざおれにまでメアドを聞いてきたんだよ? ほとんど話をしたことなんてないのにさ。いたずらのつもりでそこまでするかな」
「…………」
「そこまでして嫌がらせをしたくなるほど、別に君は悪目立ちしてやしないよ」
 須々木の口調はあくまで辛辣だった。
「だって、目立たないようにするのが君の人生の目標なんだろ?」
 さもくだらない、というように吐き捨てられ、佐東は顔を歪めた。
「須々木くんには関係ない。ほうっておいて」
「そんなの」
 須々木は静かに微笑する。
「ぼくの勝手だろう?」
「…………」
 なんてやつだ。佐東は憤った。まったく、こいつはわたしのことを何だと思っているのだろう。おもちゃか何かと勘違いしているのではないか。
 ――もし、棚下くんと付き合うことになったら。
 不意に思う。
 ――須々木に困らされることもなくなるのだろうか。
「どうかした?」
 いつの間にか、佐東はじろじろと須々木を見つめていたらしい。彼女は慌てて首を横に振った。
「それで……」
 須々木はじっと彼女の顔を覗き込んだ。
「棚下くんのこと、どうすんの?」
「だから、須々木くんには関係ないでしょ」
 佐東は言い、立ち上がる。須々木は意外にもあっさり身を引いた。佐東は少し拍子抜けしたが、思い直したように彼を置いて歩き出した。
「ぼくは――ぼくなら」
 すれ違いざま、須々木はつぶやく。
「メアドなんか、要らないけどな」
「…………」
 佐東は携帯を握りしめたまま、図書室を出る。
 今度棚下くんと話す機会があったら――心はもう、決まっていた。

 数日後の、放課後。
 棚下は緊張した面持ちで佐東を見ていた。例の、図書館の中である。
「ごめんね、急にメールしたりして。驚いたよね?」
 あたりに聞こえないよう気を遣ってだろう、棚下は声を低めて言った。棚下は気さくで穏やかな、気持ちの良い男子生徒である。どこかの誰かさんとは大違いだ、と佐東は思った。
「いたずらだと思われて無視されるかと思ってた。返事くれてありがとう」
 彼の笑顔がまぶしくて、佐東は目を細めて首を横に振った。
「ううん……あの、ね」
 ――胸がどきどきして苦しくて、喉がひどく乾いている。
「わたし……」
「うん」
 棚下の赤く染まった顔を見ていられなくなって、佐東は俯いた。
「あの、……」
 声が震えそうになる。怖い。棚下くんはいいひとだと、そう思っているのに。信じているのに。怖い。次の瞬間には掌を返して自分をなじるのではないかと、あざけるのではないかと、怖くてたまらない。けれど……。
 ――きみは本当に、だめだね。
 あの言葉を思い出し、佐東はぐっと両手に力を込めた。負けるものか。もう、あんな言葉は言わせない。
 佐東は思い切って、口を開いた。
「……わたし、まだ、棚下くんのこと、よく知らなくて」
「うん」
 棚下は静かに続きを待ってくれている。
「だから……あの、わたしは、できたら今までみたいに、時々お話したりして、それで」
 だんだんと、自分が何を言っているのかわからなくなってくる。それでも、佐東は必死だった。棚下にひどい態度をとってはいけない。彼を傷つけたり、いやな思いをさせたりはしたくない。それは彼のことを思ってなのか、それともただの自己保身なのか――わからない。もう、どちらでもいい。
 わたしは、ちゃんと自分の口で、自分のことを話すのだ。
「それで……友達になれたら、いいなって、思うの」
 一度言葉を切り、そして再び口を開いた。
「……今のわたしの気持ちは、これで、ぜんぶ、です」
「…………」
 おそるおそる顔を上げ、棚下を見上げる。彼は小さく、そうか、と言って笑った。
「ちょっと、焦り過ぎたかな? もっと仲良くなってから言えば良かったね」
「……ご、ごめ」
「謝ることじゃないよ、うん。でも、とりあえず友達、ね?」
 棚下は頭を下げようとした佐東を遮り、そう言って笑った。
「ありがとう。ちゃんと話をしてくれて。やっぱり、佐東さんっていいひとだよね」
「……う、ううん」
 佐東は慌てて首を横に振った。
「ぜんぜん、そんなことない。わたし、ほんとうにだめなところばっかりで」
 ――きみは本当に、だめだね
「だから……これから、がんばる」
 棚下は彼女の勢いに驚いたように少し目を見開いて、そしてうなずいた。
「うん、おたがいがんばろうね」
 机の上に置いていた鞄を手に取り、棚下はもう片方の手をひらひらと振る。
「じゃあ、また」
 あっさりとそう言い、彼は身を翻す。佐東はふと思いつき、彼を呼び止めた。
「あの、わたしのメアドのことなんだけど」
 誰に聞いたのだろう? クラスメイトの女子だろうか? 噂好きの子だったら嫌だなあ……と内心思わずにはいられない。
「ああ」
 棚下は振り向いた。
「須々木くんだよ」
「…………」
 ――須々木、くん?
 驚いて返事ができないでいるうちに、棚下は彼女に背を向けてしまった。
「……どうして」
 佐東は茫然と、つぶやいた。
 ――どうして須々木くんがわたしのアドレスを知っているの? それに……どうして、知らないなんて嘘をついたの?
「わけわかんない……!」
 佐東は勢い良く椅子に腰掛け、机に突っ伏した。顔が熱い。棚下と向き合っていた時より、ずっと。――こんな顔は、「彼」には絶対に見られたくない。
 須々木は、彼女と棚下が付き合えばいいと思ったのだろうか。それで、彼にメールアドレスを教えたのだろうか。それとも――それとも?
 やめよう。須々木が何を考えているのかなんて、わかるはずがない。佐東は深呼吸をする。考えては駄目だ。彼のことを考えるのは、やめなければ。そうでないと、自分が自分でいられなくなってしまうのではないか。自分は変わってしまうのではないか――変えられてしまうのではないか。
 変わるのは、こわい。けれど、変わりたい。
 佐東は、そっと顔を上げた。――きっとこれから、少しずつわたしは変わっていくのだろう。今日のわたしが勇気を振り絞ったように、少しずつ、少しずつ。それは、確信めいた予感だった。