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佐東さんと須々木くん(6)

 今時、臨海学校なんて。佐東のこぼしたため息は、波音に紛れて消えた。
 臨海学校とはいえ、水泳のための合宿ではない。進学校を名乗るだけあって、夏期休暇中の補講のための合宿なのである。三泊四日でみっちりと授業が行われた、その最終日。最後の夜だけは、レクリエーションが用意されていた。キャンプファイヤーとバーベキューだ。解放感からか、盛大に楽しむ生徒が多い中で、佐東は今一つその浮ついた空気に馴染めないでいた。何となく、空気の膜ひとつを隔てているような、奇妙な疎外感。火花ひとつ爆ぜるたびにあがる歓声を耳にしても、どうやったらあんな華やいだ声が出せるのかわからない。
 少しぬるくなったジュースをちびちびと飲みながら、佐東は火の中心とは逆の方に足を向けた。
「どこ行くんだ、佐東」
 教師に尋ねられた彼女は、とっさに嘘をついた。
「あの、お手洗いに……」
「わかった。気を付けてな」
「はい」
 スニーカーのゴム底が細かな砂を踏んできゅっ、きゅっ、と鳴る。佐東はふらふらと砂浜を歩いていった。
 見上げた空は曇っていて、星ひとつ見えない。ぬるい風が意外に強く吹きつけてきて、佐東はジャージを羽織ってきて良かった、と思った。
 波打ち際から離れ、坂を登る。騒ぎ立てる声は、もう聞こえない。合宿所を遥かに通り過ぎて少し息が切れはじめた頃、佐東は夜闇の果てに人影を見つけた。海に向かって、風に煽られながら佇んでいる誰か。一歩踏み出せば、波間に向かって落ちていきそうな……。
 胸がすくんだ。佐東は足早に進む。人影に向かって、真っ直ぐに。
「…………」
 人影が少し、前かがみになって海を覗き込んだ。佐東は思わず声を上げた。
「あぶな……!」
 佐東は駆け出した。岩壁の縁に佇む、その人物の腕を掴む。
「あ、あの、危ないっ、から」
 顔を伏せ、息を切らして言う彼女に――。
「佐東さん?」
 驚いたような、それでいてひどく冷静な声が降ってきた。その声音には、聞き覚えがある。佐東はびくりと肩をすくめた。おそるおそる、掴んでいた腕から手を離す。……が、手首をぐいと掴まれ、彼女は小さく悲鳴をあげた。
「そっちから掴んできたのに、その反応はないんじゃない?」
 からかうような調子で言う、男。暗くてよく見えないが、間違いない。これは、あいつだ。高いところから飛ぶのが――いわゆるバンジージャンプが趣味だと言い切る変人で、佐東の天敵。佐東はその名を小さく呟いた。
「す、須々木くん……」
「おれが、飛び降りると思った?」
 何故だか妙に楽しげに、彼は言う。佐東は激しく左右に頭を振った。顔をあげられない。
「誰だかは、わからなかったの……良く見えなくて、それで」
「それ、おれだってわかってたら無視してたってこと? ひどいなあ」
「そういうわけじゃないけど……」
 佐東は困惑した。
「そもそも、なんでこんなところにいるの?」
「佐東さんこそ」
「…………」
「おれは、散歩だよ?」
「わ、わたしだって」
 佐東は慌てて言った。キャンプファイヤーの明かりを見ていたら不安になったなど、あの華やかな空間の居心地が悪かったなど――そんなことはないのだ。クラスに馴染めていないわけではないのだから、自分はうまくやれているのだから。だから……。
「ちょっと疲れちゃってさ」
 だが、須々木はあっさりとそう言った。佐東は拍子抜けして彼の顔を見上げる。彼は穏やかな表情で、暗い海を見下ろしていた。
「ほら、おれってみんなの前で猫かぶってるだろ? 泊まりで皆とずっと一緒っていうのはさ――疲れるんだよ」
「……じゃあ、猫かぶらなければいいじゃない」
「そうはいかないって、きみが一番知っていると思うけど?」
 須々木はくすりと笑い、佐東の顔を覗き込む。潮風になぶられた髪同士が触れるほど――彼の薄い瞳の色がわかるほどに、近く。
「し、知らない」
 佐東は目を逸らし、彼らの眼下で揺れている黒い水面に視線を投げた。荒い波が音を立てている。
 ――この暗闇に魅せられたのは、むしろわたしの方なのかもしれない。キャンプファイヤーに照らされる明るい場所よりも、こういう暗い場所のほうがなんとなく落ち着く。誰にも見られない場所のほうが、誰にも会わないで済む場所の方が……。
「……もどろう」
 須々木が不意に声を上げ、佐東ははっと顔を上げた。須々木は彼女の手首を捕まえたまま、元来た道へと足を向けようとする。
「ま、待って」
「なに?」
「わたし、もう少し散歩してから戻るから、須々木くんは先に……」
 まだあそこには戻りたくない。控えめにそう主張した彼女に、須々木は大きなため息をついた。
「きみ、馬鹿なの?」
「……は?」
 突然馬鹿呼ばわりされて、佐東は怒るより先に呆気にとられた。須々木は眉を寄せ、不機嫌そうに佐東を見ている。
「そもそも、ここにいたのがおれじゃなくって見知らぬひとだったらどうするの? こんな暗くて人目のないところをふらふらひとりで出歩いて……自分だけは犯罪被害者にならないとでも思ってるわけ?」
「え? えっと……」
 戸惑う彼女に、須々木は聞こえよがしにため息を繰り返した。
「いいから、戻ろう。先生が探しに来るかもしれない。心配掛けるのは申し訳ないだろう」
「……う、うん」
「それに」
 須々木はしかめ面を崩し、くすりと笑った。彼が佐東にだけ見せる、ひとの悪い笑みだった。
「きみとおれとが揃って抜け出してるってことが皆にわかってみなよ。何て言われるか」
「…………!」
 佐東は息を呑む。――この合宿の最中、夜中にこっそりと部屋を抜ける女子が後を絶たなかった。彼氏と逢っているのだろう、と残ったクラスメイトたちは噂していた。蔑むように、そしてどこか羨ましそうに。まさか、それと同じ噂が自分に……?
 須々木の手から自分の腕を振りほどこうとした彼女だが、須々木は意外に強く彼女を掴んでいて、離そうとはしなかった。
「まだ距離がある。危ないよ」
「でも」
「あっちに近付いたら、ばらばらに戻ろう。それでいいだろう?」
「……うん」
 自分は別に構わないのだけれど、と言いたげな彼の口調に、佐東は内心で訝った。須々木は、本当に構わないのだろうか。口さがないものの間であることないこと言われたとしても、彼は気にしないのだろうか? そもそも嫌ではないだろうか――他のもっと人気のある女子ではなくで、自分のような地味な、目立たない平凡な女子と関連付けて語られること、そのものが。
 ――なんて卑屈な考えなのだろう。佐東は須々木の後をついて歩きながら、小さくため息をついた。
「どうしたの?」
 須々木は振り向きもせずに尋ねる。
「別に」
 佐東はぼんやりと答える。須々木の手が触れているところが、奇妙に熱い。
「須々木くんは……」
 佐東はぽつりと言い掛けて、はと口をつぐんだ。――須々木くんはわたしのことどう思ってるの、なんて。何を聞こうとしたのだ、自分は。
 顔が熱い。今が夜で良かった。この顔色を、彼に悟られなくて済む。
「おれが、なに?」
「な、なんでもない」
 慌てて答えると、須々木が突然足を止めた。佐東は勢い余って彼の肩に額をぶつける。
「な」
 額を抑える彼女に、須々木は振り返ってぐっと顔を寄せた。唇は笑っている――しかし、眼鏡の奥の眼は。鋭く、強い眼差しが、彼女の視線を縫い止め、離さない。
「あんまり考えなしの行動ばっかりするならさ――おれにも考えがあるよ?」
「……な、何を」
 須々木はぱっと彼女から離れ、同時に手も離した。――気付くと、キャンプファイヤーの炎が随分近付いていた。
「じゃあね、佐東さん。また」
 先ほどまでとは違う優しげな声で、それでいて彼女だけに見せる表情はそのままに。須々木はすうっと夜の中に溶け込んでいった。
「…………」
 佐東は茫然と彼の去った方を見送る。――考えがある? どんな? 須々木くんは、一体何が言いたかったのだろう? そもそも、考えなしの行動とはどういうことだ……ひとけのない場所をひとりでふらふらと歩き回っていたことだろうか?
「――それって、まるで」
 佐東はぽつりと言った。――まるで、わたしのこと心配して怒ってくれているみたいじゃない。
「あれ、侑子? どこ行ってたの?」
 近づいてきた友人たちに慌てて手を振りながら、佐東は笑顔を浮かべてみせた。
「ごめん、ちょっとお手洗い」
「なーんだ、良かったあ」
「なかなか戻って来ないから、心配したのよ? 先生に言おうか、どうしようかって」
 強い口調で迫られて佐東は驚き、謝った。それと同時に、心配してくれたのか、と……そもそも自分がいないことに気付いてくれる人がいたのだと安堵する。
 誰かが自分のことを想ってくれた。そのことが、どうしようもなく嬉しい。幼いセンチメンタリズムに浸り、夜道をふらふらと出歩いた自分を佐東は反省した。そして、かなり強引ではあったが、連れ戻してくれた須々木に少しだけ感謝する。
「もう!」
 縮こまる自分を安心させるように笑ってくれる、友人。その笑顔がひどくまぶしくて――その時初めて、佐東はああ、炎が明るいな、と思ったのだった。先ほどまでの自分はキャンプファイヤーに背を向けて、自分の影を見ながら暗い暗いと文句を言っていたようなものだったかもしれない。うまく騒げなくても、楽しみ方がわからなくても、光に照らされていたことにはかわりはないのに。灯りは、ちゃんと点っていた。暗がりへと遠ざかっていったのは、光ではなくて自分だったのだ。
(……あのとき)
 佐東は思った。
(波しぶきを眺めながら、須々木くんは何を考えていたんだろう)
 辺りを見回しても、須々木の姿はない。
(本当に、猫を被るのに疲れただけだったのかしら)
 それならいい。それならいいのだけれど……。
(須々木くん)
 佐東は胸中につぶやく。
(ここはこんなに明るいのに、あの暗い場所の方があなたの顔が良く見えていたなんて)
 今、彼はどんな顔をしているのだろう。いつも教室で彼が浮かべている、人好きのするやわらかな笑顔を想い浮かべて――佐東の胸が、つきりと痛む。
 須々木が心から笑っているところをみたい、と。佐東はその時初めて思ったのだった。