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佐東さんと須々木くん(5)

 午後から降り出した雨は、徐々に勢いを強めていた。屋内にはこの時期特有の、温く蒸れた空気が淀んでいる。
 午前中は良く晴れていたから傘を持ってきていない生徒も多いようで、彼らは雨足が強まるのを横目に観ながら、何度となくため息を漏らしていた。
 佐東侑子は、幸運にも雨傘を持参した生徒のうちのひとりであった。この間購入したばかりの、新しい傘である。ここ数年、ずっとビニル傘以外は使っていなかったのだが――何しろ没個性的で、一番目立たないだろうから――今回ばかりは思い切ったのだ。水色の地にグレイや白の水玉の散った、地味な柄。それでも、彼女にとってはひとつの冒険には違いない。
 授業が終わり、下駄箱に向かう生徒の流れに乗って、佐東は傘立てに向かった。自分の傘を捜す。
(――あれ?)
 佐東は首を傾げた。クラスの傘立ての中に、自分の傘が見つからない。登校してきた時、ここに確かに置いたはずなのに。隣のクラスと間違えたのだろうか。佐東は隣のクラスの傘立てを捜し、さらにその隣まで足を伸ばした。だが、結果は同じだった――自分の傘は、ない。
 誰かが間違って持って帰ってしまったのだろうか。そうだったら、仕方がない。でも、本当に――間違って? ありふれたビニル傘ではないのに? もしかしたら、急な雨に困った誰かが、手当たり次第に――。
 証拠もないのに、まだ見ぬ誰かを疑っている。心の中にまるで染みのように広がっていくその疑惑が、傘がないという事実以上に佐東の心を重いものにした。
 人の悪意になんて慣れているはずなのに、何故今自分はこんなにも傷ついているのだろう。濡れるのが嫌だから? 傘を買ったお金がもったいないから? ――いや、そういったことではない。こんなにも胸が重いのは、きっと……。
 佐東がぼんやりとしている間に、生徒たちの姿はだいぶん減っていた。部活などで残っている生徒も校内にはいるのだろうが、終業と同時に帰る者たちはひととおり帰ってしまったに違いない。
 誰か、友達に途中まで傘に入れてもらえば良かった。昔とは違う。そういったことを頼める友達も、何人かは心当たりがある。――あの頃とは、違う。
「…………」
 しかし今、結局彼女は独りなのだった。仲の良い友人たちとは帰る方向が違うのだから、自分を置いて先に帰ってしまうのは仕方がない。そう心に言い聞かせてはみても、事実は変わらない。自分は、独りだ。
 このまま外に出れば、きっとひどく濡れるだろう。その濡れた姿のまま、彼女はバスに乗らなければならない。無理をして遠い高校を受験したのだから、仕方がないことなのだが……。
(さっきから、仕方がないって、そればっかりだ)
 ため息をこぼし、佐東は空を見上げた。容赦なく降り注ぐ雨。風邪を引くかもしれないな、と思った。今朝見た天気予報では、雨は明日の朝まで続くと言っていた。このままここで雨が上がるのを待っていても無駄だ。帰らなきゃ――せめて、どこかでコンビニに寄って、そして今度こそビニル傘を、
「佐東さん」
 聞き慣れた声に、佐東は踏み出しかけた足をぴたりと止めた。
「どうしたの。傘、忘れたの?」
 振り返り、佐東は目を瞬く。そこには片耳からイヤフォンを外して手に持つ、クラスメイトの姿があった。もう片手には、黒い男性ものの長傘が握られている。
「……忘れた、わけじゃないけど」
 口ごもると、彼は――須々木裕は、不思議そうに首を傾げた。
「じゃあ、どうして?」
 傘を持たずに帰ろうとしているのか――もっともな疑問ではあるが、佐東にとっては聞かれたい話ではない。
「ちょっと、見当たらなくて」
 できるだけ軽く、そんなことはたいしたことではないのだと、自分はちっとも気にしていない、ただちょっとしたアンラッキーな出来事があっただけ、そういった雰囲気が出るようにと願いながら、彼女はそう言った。
「バス停まで走っていけばすぐだし――途中にコンビニもあったと思うから」
「……バス停」
 須々木はつぶやいた。
「それって×××?」
 彼の言った停留所の名前を聞き、佐東はおずおずとうなずいた。
「そこまで行けば、大丈夫?」
「……え?」
 佐東は聞き返す。須々木は真顔だった。
「入りなよ。そこまで送るから」
「え、いや、それは」
 ――困る。と言いかけて、佐東は口をつぐんだ。
 彼は、少々佐東にとっては特殊な存在なのだった。一見、非の打ちどころのない優等生である。だが、それだけではないということを佐東は――おそらくこの学校では佐東だけが、知っている。須々木によって、そう仕向けられている。彼がどんな風に人の悪い笑みを浮かべるか、ずけずけと乱暴な口調で喋るか、眼鏡の奥の視線がどれほどの鋭さを持ち得るか。彼女は既に、十分思い知らされている。
「嫌?」
 須々木は淡々と、そう聞き返した。佐東はさらに困った。好意は非常にありがたい。だが、須々木はバスになど乗らないはずだ。雨の中寄り道をさせてしまう。さらに、男子とふたりでひとつの傘に入っているところを誰かに見られでもしたら……。
「迷惑、掛けるし」
 ぼそぼそと言う佐東を、須々木は目を細めて眺めている。
「それにこんなにひどい雨だもの、わたしを入れたら須々木くんが余計に濡れてしまうから」
「……ふうん?」
 須々木は口元を歪めた。――多分、彼女だけが見慣れている彼の笑みの形。
「そう。それじゃ、この傘は佐東さんにあげる」
 傘を、彼は佐東につきつけた。
「これで帰りな」
「な、何言って」
「佐東さんがどうしてもこの傘を受け取らないっていうなら」
 須々木は淡々と言った。その表情からは、何も読み取ることができない。
「おれもこの傘を置いて帰る」
「……ちょっと待って。あの、言っている意味が、良く」
 佐東は混乱した。須々木は一体何を言っているのか。須々木は落ち着き払って、彼女を見ていた。
「どちらでも、好きな方を選べばいいよ。――おれに大人しくバス停まで送られるか、この傘をさしてひとりで帰るか。それとも、この傘を取らずにひとりで帰るか。その場合、佐東さんだけじゃなくておれも濡れることにはなるから馬鹿らしいけど?」
 寛大さを装ってはいるが、実際は勝手な選択肢を彼女に押し付けているに過ぎない。そのことに気付かないほど佐東は馬鹿ではなかった。むっとして唇を尖らせるが、反論の言葉は須々木の視線の前に封じられてしまう。
「どうする? さっさと決めてくれるかな」
「……な」
 なんて言い方だろう。元々は親切心での申し出だっただろうに、既に佐東の心からは彼への感謝の気持ちなどはすっかり消え去ってしまっていた。ただただ、腹立たしい。どうしてこの男は自分を放っておいてくれないのだろうか。ただのクラスメイトなのに。今の自分は目立つところのひとつもない、地味で善良な、ありふれた一女子生徒であるはずなのに。
「なんで」
 佐東はぽつり、とつぶやいた。ん? と須々木がわざとらしく聞き返す。
「なんで、わたしの傘がないのよ」
 須々木が意外そうに眼を見開く。佐東はぐっと両の拳を握りしめた。そうだ、事の起こりは目の前のこの男ではない。誰だか知らないが、彼女の傘を持ち去った人物、それが元凶なのだ。
「久しぶりに――何年かぶりに買ったのに」
 ぐう、と喉の奥がひしゃげるような心地がする。
「あの柄、お気に入りだったのに……ッ」
「――もしかして」
 須々木は突き出していた傘を下ろし、首を少し傾げた。
「傘、盗られちゃったの?」
「と……盗られたかどうかは、わからない、けど」
 佐東は口ごもった。
「でも、確かに持ってきたのに……ないの。それは本当」
「……どんな傘?」
 探してくれようというのだろうか。しかし、佐東は首を横に振った。
「もう、良く探したから……でも、なかった」
「ということは、盗られたんだろうね」
 須々木はふう、とため息をついた。
「で、その傘が何年かぶりに買ったものだって?」
「……ずっと、ビニル傘だったの」
 佐東は目を逸らした。
「ビニル傘なら、わたしのだってわからないし……盗られても、壊れても、たいしてショックでもないし」
「そう?」
 須々木は手元の傘に視線を落とした。
「別にこれ、俺はお気に入りでも何でもないけど、盗られたら腹が立つよ? だって俺が濡れるしね。ビニル傘だとかどうだとか、そんなこと関係ある?」
「…………」
 佐東は口ごもる。――確かに、須々木の言う通りだ。傘は所詮雨具で、それがどんなものであれ、雨を防いでくれればそれで用は足りる。その通りではあるのだが……。
「それで?」
 須々木の声に、佐東ははっと現実に引き戻された。
「どうする?」
 ――どうするって、何が。言いかけたところで、思い出す。
「……あの」
 須々木の傘を持って、自分だけが帰るという選択は――あり得ない。それなら、ここで彼と傘を置き去りにして帰るか。その後彼が己の傘を置き捨てて帰ろうがどうしようが、彼女のせいではない。須々木の傘に入ってふたりでバス停まで行く、などという事態になるよりは、余程……。
「…………」
 一度はそう考えたものの、それでも須々木が自分のせいで濡れてしまうのだとしたら。佐東は結局、押し黙ることしかできなかった。そんな彼女に、須々木は苦笑する。そして、
「お気に入りの傘なら、また似たようなのを買えばいいだろう」
 不意に、そんなことを言った。佐東は驚いて、顔を上げる。
「一度『お気に入り』が見つかったんだ。また、見つけられる。少なくとも――今までみたいに『お気に入りを作らない』って状態よりは、いいものだと思うよ?」
「そ……」
 佐東は少しだけ、口元が緩むのを感じた。
「そう、かな……?」
「そうそう」
 傘は盗ることができるけど、「これが好き」だっていう気持ちは盗れないんだからさ――軽い調子で言った須々木が、不意に顔を外に向けた。
「あ」
「え?」
 倣って外を見た佐東は、息を呑んだ。
「雨……やんでるじゃん」
 須々木はそう言って、笑う。その視線の先には――。
「虹」
 佐東がぽつりとつぶやき、須々木が振り返って彼女を眺めた。
「ラッキーだったね」
「え? あ……あ、うん」
 雨が上がったのは、何よりだった。うなずく佐東に、須々木は意地の悪い笑みを浮かべてみせる。
「俺は、もし自分の『お気に入り』がなくなったら――ただじゃあおかないよ。必ず取り戻す」
「…………」
 佐東は言葉を失う。
「佐東さんも、それくらいのつもりでいなよ。ね?」
「……そ」
 ――それは、傘の話? それとも。
「じゃあね」
 立ち尽くす佐東を横目に、須々木はさっさと虹の下に歩き出す。
「…………」
 佐東は茫然と彼の後姿を見送った後、やがて勢い良く校門を飛び出した。
 
 ――寄り道をしよう。そして、傘を買おう。ビニル傘ではない、お気に入りの傘を。