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佐東さんと須々木くん(4)

 配られた通知表を手にすると、普段はなかなか私語をやめない者たちも、自然と無口になってしまうようだった。ちらちらと互いに見交わしては、こそこそと耳打ちしあう。なかにはそんな空気をあえて壊すように騒ぎ立てるものもいるが、決してそういう者が多数派になることはないのだった。
 佐東侑子は手にした己のそれをそっとめくった。並ぶ数字は、八割が五段階評価のうちの四だ。一割は三、一割は五。高校入学以降、自分の成績は常に中の上をキープしているから、ほぼ予想通りの数字だった。
 これくらいの、ほどほどに良い成績がいい。赤点だとか、進級に関わるくらいに悪い成績は問題だけれど、良過ぎる成績を取るのは望ましくないことだ。目立つのは、彼女が何より恐れることだから。
 クラスメイトに無遠慮に覗き込まれても、動じずにいられる程度。誰もの興味を引かない程度。彼女はそれを目指している。
「わざとらしいよね」
 ぽそりと囁かれた声に、佐東はびくりと体を震わせた。隣りの席の、須々木だ。
 振り向くと、彼は自分の手で口元を隠し、彼女を眼鏡の奥から眺めていた。
「そんなにうまく四ばっかり取れるもの?」
「どういうこと?」
「わざと、手抜いてるんじゃないの?」
 須々木はあっさりとそう言った。佐東はえっ、と聞き返した。
「何で……そんなこと」
「須々木! お前やっぱりオール五か?」
 何かと騒ぐ陽気なクラスメイトに話しかけられ、須々木は佐東から視線を外した。
「そんなことないよ?」
 穏やかな声。――佐東に掛ける、無遠慮な言葉遣いとは違う。猫かぶってるんだ、と佐東は思った。須々木くんは、自分の中にある鋭い刃物の切っ先を、真綿にくるんで隠しているんだ。短い付き合いだけれど、なんとなくわかる。――それは、きっとわたしに向かって時々切っ先をちらつかせているからだ。でも、何のために?
「見せろよ――あっ、やっぱりほとんど五じゃねえか」
「ちょっと、勝手に見ちゃだめだって」
「すげえなあ須々木は!」
 困ったような笑顔で、クラスメイトの賞賛を受ける須々木。あんな顔、わたしの前ではしない。「休みに入ったら、また飛びに行こうと思ってるんだけどさ」――数日前、そう言って彼は屋上でパンを齧っていた。「紐が切れて死んじゃったら、このプレイヤーは君にあげるからね」なんて縁起でもないことを言って、空色の音楽プレイヤーを見せびらかすのだ。それは、彼に頼まれ、彼女が好きな曲を入れた、プレイヤー。彼は特に感想もよこさなかったけれど、登下校中いつも聞いているから、きっと多少は気に入っているのだろう。佐東が返答に窮して弁当をつつく箸を止めると、須々木は彼女の弁当箱から海老フライをひょいとさらった。
「ん。美味しい」
「須々木くんは、どうして……」
「うん?」
 そんなふうなの。言い掛けた佐東は、口をつぐんだ。そんなふうって、どんなふうだ。自分は須々木に何を聞きたいのだろう。
「なんで、みんなの前で猫かぶってるかって?」
 須々木は喉の奥で小さく笑う。それは佐東の聞きたかったこととは少し違っていたが、まるきり的外れというわけでもなかった。
「佐東さんは、みんなに言いふらさないだろう? だから都合がいいんだ」
「何よそれ……」
「佐東さんだって、おとなしい子ぶってるじゃん? 同じこと」
 須々木の言葉に、佐東は反論した。
「わたしは、別にそんなんじゃ」
「そう?」
 須々木は笑った。
「だったら、どうして時々ここでお弁当食べるの? 友だちと食べないでさ」
「…………」
 佐東は俯いた。確かに、彼女は時折屋上で弁当を食べている。ひょんなことから、彼女は須々木が屋上を昼食を摂る場所にしていると知ったのだった。以来、一週間に一度程度の割合で、佐東は何気なく友達の輪から外れてそこに向かう。理由はよくわからない。ただ、青空の下で食べる弁当はいつもより美味しいような気がするのだ。多分、空間的な解放感のせいだろう、きっとそれを須々木も気に入っているに違いない、と彼女は解釈していた。
「不自由だね。まるで」
 須々木は、不意に笑顔を見せた。教室で見せる気弱そうな笑顔でもなく、時折佐東に見せるニヒルな笑みでもなく、それはひどく優しい表情だった。
「――紐を付けなきゃ飛ぶこともできない、おれみたいだ」
 つぶやかれた言葉を、佐東は良く理解できなかった。
 須々木は黙っている佐東から目を逸らし、鼻歌を唄う。それは、佐東がプレイヤーに入れた曲のうちのひとつだった。STINGの「Fragile」。あの曲はどこか彼に似合う、佐東はぼんやりとそう思った。
「侑子ー。わたしまた成績下がったー!」
 友人の声に彼女ははっとした。いつの間にか通知表は全員に配られ終えていて、教室はいつも通りの喧騒を取り戻していた。彼女に話し掛けた友人は、げっそりとした表情で肩を落としている。
「携帯止められちゃうよ……」
「わたしも、数学下がっちゃった」
「え、侑子も?!」
「うん」
 嬉しそうに顔を輝かせる友人。――ああ、良かった、と侑子は思う。彼女は嘘をついていない。先学期は五だった数学が、今回は四だったのだ。その代わり化学は四から五になったが、平均値は変わっていない。
「須々木とかさー、勉強できるやつはいいよね」
 ちら、と友人が須々木に視線を投げた。佐東は一瞬言葉に詰まり、やがてぎこちなくうなずく。
「そ、そうだね」
「頭いいやつって得してるよ、絶対。ずるいって」
「う、うん……」
 佐東はごくり、と喉を鳴らした。――きっと、須々木くんは勉強してるからいい点が取れるんだよ。あなたが授業中も携帯メールで必死な時も、彼はちゃんと授業を聞いている。あなたはわたしから宿題をうつしているけど、彼はちゃんと自分でやってる。何もずるくない。得もしていない。彼は努力しているの、きっと。
 だが、彼女は何も言えないまま、友人との会話に同調するしかなかった。

「学力も、力だよ」
 友人が席に戻った後、須々木はぽつり、とそう言った。
「え?」
 佐東が聞き返すと、須々木は静かな表情で前を向いたまま、彼女にしか聞き取れない程度の声で続けた。
「集団の中に埋没することを目標に生きても仕方がないだろ。集団は形を変えるのに、それに常に埋もれていようなんて、そんな消極的で非生産的で卑屈な目標を掲げて何になるのさ。こんな、学校生活みたいな強制的な集団生活、いつまでも続かないっていうのに」
「…………」
 佐東は俯いた。その辛辣な口調はまるで彼女を叱責しているみたいだ。何故あなたにそんなこと言われなきゃいけないの。そう思ったが、口には出せなかった。彼の言っていることは間違っていない。それは彼女が一番良く分かっている。高校に入って以降の彼女は、勉強する理由を既に見失ってしまっていた。中学生の時は、逃げる為だった。疎外という現状から逃げる為、必死で勉強した。今は、落第しないように――成績を落として目立たないように――親に心配を掛けないように――そんな理由で勉強をしている。
「いつかぼくらは大人になる。その時、何か力がないと――」
 須々木は己の右手を、やんわりと握ったり、開いたりしていた。
「力が」
 繰り返される、その言葉。佐東は不思議に思った。
「力を、何に使うの? 力がないと、どうなるっていうの?」
「…………」
 須々木は視線を彼女へと動かした。唇の端が、きゅっと持ち上がる。
「知りたい?」
 ――また、こういう笑い方をしてわたしを見るのだ、このひとは。佐東は眉を寄せた。
「別に」
「そう」
 須々木はあっさりと引き下がったが、そのかわりのように別のことを言った。
「あの頃に比べて、きみは少しは強くなったの?」
「…………」
 佐東は口をつぐむ。――あの頃。須々木が指しているのが何のことか、すぐにわかった。何故か、彼は彼女がかつていじめの対象だったことを知っている。それから逃れるために、この私立高校を受験したことも知っている。知っていて、そして、彼は……。
「強くならないと、さ」
 須々木はさりげなく身体をひねり、彼女の耳元に口を寄せた。
「いつまで経っても、おれにいじめられるよ?」
「…………」
 佐東は須々木を睨む。
「わたし、あなたにいじめられてなんていないけど」
「ああ、そう?」
 体を引きながら、須々木は笑った。
「きみがそう思ってるなら、それでもいいよ」
「……ねえ」
 ふと思いついて、佐東は彼に尋ねた。
「須々木くんは、進路どうするの? なりたい職業とか、あるの?」
「…………」
 須々木は少しだけ動きを止めて、やがて佐東を見た。――鋭くて、冷たい目だった。それを隠すように、やんわりと笑う。
「大人に、なりたい。早く」
 ――何だろう、今の目。佐東は思う。須々木は一体、何を隠しているんだろう。その、きっちりとボタンの留められた学生服の下に、一体どんな本心を抱いているんだろう。彼はどうして、過去に何を経験して、今のような彼になったのだろう。知りたい、ような気がした。
「そう……」
 けれど結局、佐東はこうつぶやくしかない。興味のないふりをして。騒ぐ心を押さえつけて。
 ――わたしは、よわい。よわいままだ。あの頃と何も変わってない。
 佐東はぼんやりと机の木目を眺めていた。心が、重い――。
「その気になれば、強いんだろ?」
 唐突に、須々木は言った。いつの間にかホームルームは終わっていて、クラスメイトたちは皆、鞄を開けて帰り支度をはじめていた。須々木も皆と同じように、既に立ち上がっている。
「じゃなかったら、ここまで来れてない」
 座ったままの佐東を見下ろす彼は、笑っていた。その笑顔に、きっと嘘はない。
「…………」
 ――そうか。目的があれば……それが何であれ、自分は頑張れるはずだ。事実、この高校に入るための受験勉強は、相当頑張ったのだから。
「きみは、弱くない」
 須々木はぽつり、と言った。
「おれとは、違う」
「…………」
 ――彼の鼻歌を思い出す。ぼくらははかない、ぼくらははかない、と繰り返す歌。
 休みの間に、彼はまた飛びに行くのだという――繋がれたまま、空に体を投げ出す。地面に、落ちていく。佐東は身震いした。
「須々木く」
「侑子、帰ろうよ!」
 背後からの声に振り向くと、先ほど沈み込んでいたのが嘘のように明るく笑う友人がいた。数学のことは、もう忘れたらしい。
「うん」
 佐東はうなずき、彼女の後を追った。背後にいる須々木を、振り向けない――だが。
「佐東さん」
 須々木の声に、彼女は足を止めた。
「またね?」
 ごくごく普通の挨拶のようでいてどこか含みのあるその声に、彼女は笑みをこぼした。
「うん、また」
 うなずいて、歩き始める。
 新学期、また屋上でお弁当を食べよう。その日はきっと、おかずを少し多めにいれてもらおう――彼に取られても、いいように。